福音を聞き流さない(Ⅰテサロニケ1:4-5)

Scripture(聖書の言葉)

4 愛する皆さん。あなたがたが神に選ばれ、愛されていることを、私たちはよく知っています。 5 それは、私たちが伝えた福音(イエス・キリストによる救いの知らせ)を聞き流さず、非常な関心をもって迎え入れた態度から明らかです。私たちが語った教えは、あなたがたの人生に重大な影響を与えました。聖霊によって、これこそ真理だという確信があなたがたに与えられたからです。

Observation(観察)

世の中には膨大な情報が流れている。テレビ、書籍、そしてインターネット。とくにインターネットの登場は爆発的な情報量の増大をもたらした。同時にそれは真実と嘘が入り交じった者である。私たちに求められるのは膨大な情報の渦から真実を見つけ出すこと、私たちにとって必要な情報を受け取ること。そして不必要な情報を受け流すことである。

パウロは、福音についてテサロニケの人々に対し、「私たちが伝えた福音を聞き流さず、非常な関心をもって迎え入れた」と賞賛している。彼らが福音を受け入れることが出来た秘訣は何であったのだろうか、それは「聖霊によって、これこそ真理だという確信があなたがたに与えられたからです。」とパウロは語っている。これだ!と人生の選択をする背後には聖霊様の促しがある。私たちがイエス様を信じようとした背後にも、聖霊様のお働きがあったのだ。そしてこれからの人生に於いても、沢山の取捨択一をしてゆかなければ成らない。人間の知恵だけではそれを正しく行うことは不可能だ。聖霊様の助けをいつも求めて行こう。

Prayer(祈り)

イエス様、この数十年で世の中は大きく変わり、情報が本当にあふれる世の中になりました。そのなかで神様が喜ばれる選択が出来ますように、聖霊様の助けを求めます。どうぞ私の心に働きかけて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

嘆くダビデ(Ⅱサムエル19:1-4)

Scripture(聖書の言葉)

王がアブシャロムのために悲嘆にくれているという知らせが、やがてヨアブのもとにも届きました。 2 王が息子のために嘆き悲しんでいると知って、その日の勝利の喜びはどこかに消え、みな深い悲しみに包まれました。 3 兵士たちは、まるで負け戦のようにすごすごと町へ引き揚げました。 4 王は手で顔を覆い、「ああ、アブシャロム! ああ、アブシャロム、息子よ、息子よ!」と泣き叫んでいます。

Observation(観察)

ダビデの嘆きは、納得できる部分もある。単に息子に反旗を翻され、それを討った、という話ではなく、長年の行き違いと確執の果てに、十分にコミュニケーションを取れず、悲劇的な死を息子に与えたのだ。

どうしようもない二者択一を迫られる時が、人生には何度もある。その様な時の唯一の判断基準は神の使命に沿っているかどうかだ。

情に流されることは人間的には正しいことのように思うが、時には厳しい判断もしなければならない。その痛みは負わねばならない、が、同時に神の計画にあるのなら慰めも必ずあると信じたい。

Application(適用)

情に流されて、あるいは自分かわいさの選択をして失敗したことが何度もある。その様な時は神を見上げることをしなかった。神の御心は何かを求めて決断をしよう。

Prayer(祈り)

イエス様、人間的な弱さもあなたは愛されますが時には厳しさも求められます。苦しい決断でも神の前に正しい行動を取るとき、全てがうまくゆく事を信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

すれ違いの結末(Ⅱサムエル18:32-33)

Scripture(聖書の言葉)

32 「それで無事なのか!? 息子のアブシャロムは。」

「あなたに敵する者に、あの方の姿はよい見せしめとなりました。」

33 すると王の目から涙があふれ、彼は門の屋上に上り、そこで泣き叫びました。「ああ、アブシャロムよ。わが子、アブシャロム! こんなことなら、私が代わって死ねばよかった。ああ、アブシャロム。ああ、わが子よ!」

Observation(観察)

ダビデとアブシャロムのすれ違いは単なる親子関係の問題では終わらず、アブシャロムの反乱と多くの国民の血が流れる事態となった。この原因をダビデ親子の関係の問題という人もあれば、アブシャロムの野心と父にこちらに向いてほしいという願いが入り交じったという解釈の人も居る。

いずれにしても正しいコミュニケーションが取れなければ人間関係はヒビが入り、やがて取り返しの付かないことが起きるということだ。

Application(適用)

私だったらどうなるか・・多分黙って身をひいて、その人の前にはもう姿を現さないであろう。これまでもそうだった。イエス様に変えて下さいと随分願っているがこの弱さはなかなか解消されない。自分で自分を変えることは不可能だ。イエス様に変えていただきたい。そして、出来ることならば誤解や痛みのない人間関係の中に置いてほしい。

Prayer(祈り)

イエス様、いまも人間関係の苦しさの中にいます。助けて下さい。きれい事は言えません。ただ助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

いつも祈ろう(マタイ25:36-40)

Scripture(聖書の言葉)

36 それからイエスは、弟子たちを連れて、木の茂ったゲツセマネの園に行かれました。そして弟子たちに、「わたしが向こうで祈っている間、ここに座って待っていなさい」と言い残し、 37 ペテロと、ゼベダイの子ヤコブとヨハネだけを連れて、さらに奥のほうへ行かれました。その時です。激しい苦悩と絶望がイエスを襲い、苦しみもだえ始められました。
38 「ああ、恐れと悲しみのあまり、今にも死にそうです。ここを離れずに、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」
39 三人にこう頼むと、イエスは少し離れた所に行き、地面にひれ伏して必死に祈られました。「父よ。もしできることなら、この杯を取り除いてください。しかし、わたしの思いどおりにではなく、あなたのお心のままになさってください!」
40 それから、弟子たちのところへ戻って来られると、なんと、三人ともぐっすり眠り込んでいるではありませんか。そこで、ペテロを呼び起こされました。「起きなさい、ペテロ。たったの一時間も、わたしといっしょに目を覚ましていられなかったのですか。 41 油断しないで、いつも祈っていなさい。さもないと誘惑に負けてしまいます。あなたがたの心は燃えていても、肉体はとても弱いのですから。」

Observation(観察)

十字架での死を前にし、イエス様は苦悶しながらその使命を果たすべくゲツセマネの園で祈られた。弟子達には離れたところで待つように言い残された。また「目を覚ましていなさい」と言い残された。そのような大事な時にもかかわらず弟子達は極度の睡魔に襲われる。イエス様は二度彼らを起こしたが、結局彼らは起きていることが出来なかった。ペテロに対しイエス様は「 41 油断しないで、いつも祈っていなさい。さもないと誘惑に負けてしまいます。あなたがたの心は燃えていても、肉体はとても弱いのですから。」

私にも経験があるが、極度のストレスに追い込まれると、人間は眠ること以外出来なくなる。体の活動を最小限にして事態をやり過ごすことを選んでいるのかもしれない。しかしイエス様は「いつも祈っていなさい。さもないと誘惑に負けてしまいます」と教えられた。現実は眠っていても改善しないことがほとんどだ。ならば積極的に神に介入していただくよう、祈りを選択すべきなのではないだろうか。

「あなたがたの心は燃えていても、肉体はとても弱いのですから。」ともイエス様は言われた。例え眠り込んだり失敗したとしても。いまだ私たちの心が燃えていることをイエス様は否定されなかった。祈りによって肉体は奮い立たせることが出来、誘惑に打ち勝つことが出来るのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、肉体の弱さを数多く体験してきました。弱さを覚えるとき、祈りを選択できるようにこの御言葉を心に刻みたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

油を絶やさず(マタイ25:1-13)

Scripture(聖書の言葉)

1 神の国は、ランプを持って花婿を迎えに出た、十人の娘(花嫁の付き添い)のようです。 2-4 そのうちの五人は賢く、ランプの油を十分用意していましたが、残りの五人は愚かで、うっかり忘れていました。
5 花婿の到着が遅れたので、みな横になり寝入ってしまいました。 6 真夜中ごろ、ようやく、『花婿のお着きー。迎えに出なさーい』と叫ぶ声がします。
7-8 娘たちは飛び起きると、めいめい自分のランプを整えました。その時、油を用意していなかった五人の娘は、ランプが今にも消えそうなので、ほかの五人に油を分けてほしいと頼みました。
9 『ごめんなさい。分けてあげるほどはありません。それよりもお店に行って、買ってきたほうがいいのではないかしら。』
10 こう言われて、あわてて買いに行っているうちに、花婿が到着しました。用意のできていた娘たちは、花婿といっしょに披露宴に行き、戸は閉じられました。
11 そのあとで、例の五人が帰って来て、『ご主人様、戸を開けてください!』と叫びました。
12 ところが主人は、『私はあなたがたを知りません』と答えました。
13 こんなことにならないために、目を覚まして、いつでもわたしを迎える準備をしていなさい。わたしが来るその日、その時が、いつかわからないのですから。

Observation(観察)

花婿と、花嫁の付き添いの娘達の例えで、イエス様はいつでも再臨に備えるべきと語られた。聖書は話が進むにつれ、教会は神の花嫁であるという概念が強く表現されている。黙示録のクライマックスは花婿であるイエス様と花嫁である教会との婚礼、完全な一致と結合について語られる。そのような文脈の中でこの例えを用いられることは興味深い。私たち信徒は花嫁の付き添いであると書かれている。到着が深夜になってしまった花婿を迎えに出るにはランプに灯がともっていることが必要であった。しかし付添の娘達のなかの半分は油を用意しておらずランプに火がつけられない。慌てて油を買いに行っているうちに披露宴が始まってしまい、彼女たちは閉め出されてしまう。

大事なポイントは、油と火が必要だ、ということだ。最も暗闇の深いときにイエス様は来られる。その時私たちは自分を照らす信仰の炎を持っているだろうか、炎を燃え立たせる聖霊様の油を切らしてはいないだろうか。もしかすると、本当に半分の信徒は炎を失っているのかもしれない。ここまでイエス様に付いてきて、最後の最後に披露宴に加われないのは嫌だ。イエス様が言われるとおり「目を覚まして、いつでもわたしを迎える準備を」していよう。

Application(適用)

長く続く病気のせいもあり、心身ともに随分弱ってしまっていたが、ようやく回復の兆しが見えてきた。信仰に於いても心が強くなるに合わせて強靱に回復してゆきたい。

Prayer(祈り)

イエス様、この数年間は火が消えたようなクリスチャンであった様な気がします。思いも言葉も弱々しく、愚痴っぽく後ろ向きでした。今向きを変えて再出発します。信仰者の道を辿らせて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

世の終わりに際して(マタイ24:32-38)

Scripture(聖書の言葉)

32 さあ、いちじくの木から教訓を学びなさい。いちじくの葉が出てくれば、夏は間近です。 33 同じように、このようなことが起こり始めたら、わたしはもう戸口まで来ているのです。 34 それらのことが全部起こってから、この時代は終わりになるのです。
35 天地は消え去りますが、わたしのことばは永遠に残ります。 36 しかし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天使ばかりか、神の子さえも知らないのです。ただ父だけがご存じです。
37-38 ちょうど、ノアの時代のように。当時の人々は洪水が襲う直前まで、宴会だ、結婚式だと陽気に楽しんでいました。 39 何もかも押し流されてしまうまで、洪水のことなど信じようとしなかったのです。わたしが来る時も、それと同じです。

Observation(観察)

イエス様の再臨と世の終わりについて、イエス様ご自身もそれがいつかは分からないが、確実に起きることとして教えられた。天地は巻き取られるように終わること、信仰を失わなかった者は命を損なわれず、新しい体を得て神に会うこと、およそ私たち人間には想像が及ばないことだが、イエス様はその様な私たちをノアの時代の人々にたとえられた。洪水の直前まで通常の生活を彼らは楽しんでいた。「洪水のことなど信じようとしなかった」ともある。

私たちは日々の生活の中で、どれだけ世の終わり、新しい世について考えるだろう。正直生活に追われてほとんど忘れているというのが正直なところだ。

しかしイエス様は「いちじくの木から教訓を学びなさい。」と言われた。なんらかの予兆が必ずあると示されている。私たちは心を鈍くせず、神の国について、いつも意識して生きる者でありたい。

Application(適用)

再臨と世の終わりは、世界の決算であり、個々の送ってきた人生が測られる時でもある。この世の面倒から離れられることを喜ぶ一方、その面倒な世界でどう生きてきたかが問われる。クリスチャンは救いによって天の御国にゆく事が保証されているが、決算が免れる訳ではない。いわば赤字決算でも許されるが決算表は出さなければならないことに変わりは無い。今この瞬間をどう生きているか、自分を点検しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、世の終わりがいつかは分かりませんが、備えることは怠らないようにしたいです。正しい思いで日々を生きることが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

仕えにくい人に仕える(マタイ23:10-12)

Scripture(聖書の言葉)

10 それに、『先生』と呼ばれてもいけません。あなたがたの先生は、ただキリストひとりです。

11 人に仕える人が最も偉大な者です。ですから、まず仕える者になりなさい。 12 われこそはと思っている人たちは、必ず失望し、高慢の鼻をへし折られてしまいます。一方、自分から身を低くする者は、かえって高く上げられるのです。

Observation(観察)

イエス様は弟子達に対し、「先生」と呼ばれて良い気分になっているのではなく「人に仕える者になりなさい」と教えられた。仕えることがもっとも価値のあることと教えている。しかし、偉くなりたいから仕える、という姿勢は正しくない。純粋に仕えることそのものを目的とできる人であるなら、神はその人を用いて下さる。

仕えることは不純な動機では続けることは出来ない。なぜなら仕える相手は必ずしも正しい人とは限らないからだ。時には人格的に下劣な人に仕えなければならないかもしれない。その様な時にも心をこめて、誠実に仕える姿勢を求められている。

Application(適用)

このイエス様の言葉に正しく応じられているか?と聞かれれば全然駄目ですとしか答えられない。嫌な上司からは逃げ、陰口を叩く生涯を送ってきた。難しい相手にこそ誠実を尽くせる精神を与えてほしいと願う。仕える相手に認められたいとか、相手を変えたい、とかいう理由ではない。ただイエス様の言葉に従うことを実践したい。人からではなくイエス様からの報いが天国に行ってから頂ければ、それで良い。

Prayer(祈り)

イエス様、仕えることの難しさを感じます。特に合わない人、自己本位な人に仕えるときはなおさらです。でも、仕えなさいとイエス様が言われるのですが、従います。人からの報いは得られないことを知っています。人から報いを得たらイエス様から報いが得られません。貴方に期待します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

大事な戒め(マタイ2236-40)

Scripture(聖書の言葉)

36 「先生。モーセの律法の中で一番重要な戒めは何でしょうか」と尋ねました。

37 イエスはお答えになりました。「『心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38 これが第一で、最も重要な戒めです。 39 第二も同じように重要で、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』という戒めです。 40 ほかのすべての戒めと預言者たちの命令も、この二つから出ています。ですから、この二つを守れば、ほかの戒めを全部守ったことになるのです。これを守りなさい。」

Observation(観察)

パリサイ人はなんとかイエス様の言葉から矛盾を引き出して言い負かそうとしていた。そんな中で彼らが考えついたのはこの質問だ「ーセの律法の中で一番重要な戒めは何でしょうか」どれか一つを重要だと言えば、それ以外を貶めている、神の言葉に対する冒涜だと責めるつもりであったのだろう。

しかしイエス様の答えは明確で完璧であった。「『心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38 これが第一で、最も重要な戒めです。 39 第二も同じように重要で、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』という戒めです。神の律法の中心を見事に集約された。「この二つを守れば、ほかの戒めを全部守ったことになるのです。」あらゆる律法はこの二つを土台にして構築されたのだ。

Application(適用)

私たちは、物事の枝葉のデティールに夢中になって、本質を見失ってしまうことが多くある。信仰もそうだ、あれこれとやらなければならないことに気を遣い、神経をすり減らし、やきもきするが、本当にしなければならないことは神を愛する、隣人を愛する事なのだ。もしもいま一生懸命にやっていることがこの二つにに結びつかないなら、私は一旦手を止めて、神に祈るべきだ。神に結びついて働くことが出来るなら、私たちは確信を持って愛を持ってそれを行うことが出来る。

Prayer(祈り)

イエス様、私の行動が愛に根ざしていないことが度々あります。夢中になってしまう前に手を止めて、貴方の喜ばれる物が何か、考える余裕を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

罪を捨てて神を信じる(マタイ21:31-32)

Scripture(聖書の言葉)

31イエスは言われました。「確かに、悪人や売春婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入ります。 32 なぜなら、バプテスマのヨハネが来て、悔い改めて神に立ち返れと言った時、あなたがたはその忠告を無視しました。しかし、悪人や売春婦たちは言われたとおりにしました。あなたがたは、それを目のあたりにしながら、なお罪を捨てようとしませんでした。ですから、信じることができなかったのです。

Observation(観察)

パリサイ人に対しイエス様は、彼らがバプテスマのヨハネからの悔い改めの招きに応じなかったことを責められた。当時罪人とされていた人たちが悔い改めているのを見ても、パリサイ人達は悔い改めることをしなかった。罪を認めることよりも自分の立場と見栄を守ることを選んだのだろうか。イエス様はさらにこうも言われる。

「あなたがたは、それを目のあたりにしながら、なお罪を捨てようとしませんでした。ですから、信じることができなかったのです。」

ここには重大な順番がある。罪を捨てなければ信じることが出来ない、と言うことだ。

現代でもキリスト教の教義を知っている人は沢山居る。高校や大学によっては、カリキュラムに組み入れられている。しかし、その様に教えを知っていても救いを見付ける人はごく僅かだ。なぜなら、信じて救われるためには、それに先だって悔い改めて罪を捨てなければならないからだ。私たちが伝道するときにも、この順番を間違えてはならない。救いには悔い改めが必須であることを明確にしないと、せっかく伝道して心が開かれていても中途半端な福音を伝えることで終わってしまう。悔い改め、心を軽くして、イエス様の救いを受け入れよう。

Prayer(祈り)

イエス様、罪は心を曇らせ、善悪の区別ばかりか救いすらも見えなくしてしまいます。罪を日々悔い改め、救いを明確に感じ、イエス様に感謝する生活に変えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

仕えることと栄えること(マタイ20:25-28)

Scripture(聖書の言葉)

25 そこでイエスは、彼らを呼び集め、言われました。「この世の普通の人たちの間では、王は暴君であり、役人は部下にいばり散らすものです。 26 だが、あなたがたの間では違います。リーダーになりたい者は、仕える者になりなさい。 27 上に立ちたいと思う者は、身を低くして仕えなければなりません。 28 メシヤのわたしでさえ、人々に仕えられるためではなく、みなに仕えるためにこの世に来たのです。そればかりか、多くの人の罪の代償として自分のいのちを与えるために来たのです。だからあなたがたも、わたしを見ならいなさい。」

Observation(観察)

「リーダーになりたい者は、仕える者になりなさい」とあるが、仕える者全てがリーダーになるわけではない。資質的に不適合な人もいるだろうし、仕えることを好んでも、人の上に立つことを望まない人もいるだろう。しかし、そのような人間の状況とは無関係に、イエス様は人に仕え、ついには十字架につけられ死なれ、よみがえることで全てのものの上に挙げられた。人には各々果たすべき役割と立場がある。リーダーになる人も、ずっと下働きの人もいるだろう。しかし、自分の役割を受け入れ、淡々とは働く時に神が働かれる。無駄な向上心ではなく、日々の役割を果たせることの喜びを見出そう。

Application(適用)

僕は当時流行った繁栄の神学の影響を強く受け。無駄な向上心に操られていたように思う。教職につきたい。講壇から説教をしたい、メッセージで人を泣かせたり笑わせたりしたい。人の人生に関与したい。これらは神から出た欲求でなかった。一度これらの願いは全て神様にお返ししよう。

その上で残ったものを大事に育てよう。

Prayer(祈り)

イエス様、長年召しと欲求がごちゃ混ぜのような気持ちで過ごしてきました、今一度、願いを全部神様にお返しします。つくばに教会を建てたいという願いも持ちましたが道は開かれませんでした。するべきことは他にあるのだと思います。それがなんなのか、教えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。