救いの偉大さ(ガラテヤ2:17-18)

Scripture(聖書の言葉)

17 しかしもし、キリストの救いを信じた私たちが、あとになって、それはまちがいだった、やはり割礼を受け、律法もみな守らなければ救われないとわかったとしたら、どういうことになるでしょうか。キリストを信じたために、さんざんな目に会ったことになるわけです。しかし、そんなことは絶対にありえません。 18 前に打ちこわした方法――律法を守ることで救われようとする方法――でもう一度建て直そうとするなら、それこそが罪なのです。

Observation(観察)

ガラテヤ地方の教会の信仰を混乱させている誤った教え、すなわち、「律法も守らなければ救われない」という考えに対して、パウロは徹底して反論する。

キリストの救いは、律法による救いと言う「殻」を打ち壊して、イエス様を信じる全ての人が受け入れられるものだ。

パウロは律法を指して「前に打ちこわした方法」と表現した。誰が打ち壊したのだろうか?それは十字架上のキリストに他ならない。律法の行いによる救いを是とするのなら、キリストの救いを非とすることになる。このような事はあってはならない。

Application(適用)

「殻」である律法とは、私たちが如何に完全から遠く、救いを得がたいものであるかを知るために、神によって示された基準だ。律法を知るほどに私たちは自信の不完全さにがっかりするが、同時にそれ以上に大きな力と愛で救いに導き入れてくれたキリストを愛するものになる。

弱さの故に悲しみ、絶望を感じることも多くある。しかし同時にそれはキリストがどれだけの愛を持って私たちを救いだして下さったか、その大きさを知る機会だ。悲しみをただ悲しみとせず、神の救いの素晴らしさを見上げる日としよう。

Prayer(祈り)

イエス様、今年も日本人にとって大切な日が来ました。多くの人が悲しみ絶望した日です。けれどもイエス様を信じた私たちにとって、絶望は絶望で終わりません。ますます神を愛するものとなる機会です。天国を思う機会です。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

真理を歪めない(ガラテヤ1:6-7)

Scripture(聖書の言葉)

6 私は、こんなにも早く、あなたがたが神から離れて行くことに驚いています。神様はあなたがたに、キリストを通して永遠のいのちを与えようと、愛と恵みをもって招いてくださったのではありませんか。それなのにもう、あなたがたは別の「天国への道」に踏み込んでいます。そんなものは、天国への道から全くかけ離れています。 7 私が教えた道が、唯一の天国への道なのですから。あなたがたは、キリストに関する真理をゆがめて変質させる者たちにだまされているのです。

Observation(観察)

ガラテヤ書は異邦人クリスチャン達に宛てて書かれた書物と言われている。紀元58年頃の作とされている。イエス様の十字架から25年ほど、異邦人伝道が始まってから10年も経っていないのではないだろうか。しかし、この時点ですでにキリスト教は変質の危機に際していた。ユダヤ教のしきたりを守らないと救われないという誤った教えがガラテヤの異邦人教会に入ってきた。十字架が唯一の救いであるという最も重要な教義を揺らがせる教えだ。

あるいは、この教えを持ち込んだのは悪意ではなく、善良なユダヤ人クリスチャンかもしれない。(もちろん明確な教会の破壊を目論んだ可能性もあるが)当時ユダヤ教の一派とみなされていたキリスト教に対し、ユダヤ教的思想を付与し、回帰させようとする働きだったのかもしれない。

しかし、神の計画は決して揺るがない。パウロを用いて正しい憤りを起こさせ各教会に警告の手紙を出し、エルサレム会議にて初期キリスト教の教義の骨組みを確立したのだ。

Application(適用)

鉱物やある種の元素は長い期間変化せずその姿を保つが、人の心は簡単に変わってしまう。無意識に自分の記憶を書き換えてしまうほどだ。だからこそ、教えは書物という形て記され、写本され、印刷され、現代では改ざん不可能な形で配布されている。私たちは信仰を持った時の気持ちをしっかり持つと同時に、変わらないみことばに繰り返し触れることで、自分の信仰の変質を防がななければならない。

Prayer(祈り)

イエス様、パウロや使徒達に思いと勇気を下さり、神学の最初の危機を乗り越えさせてくださり感謝します。受け継ぐ私達も、みことばをまっすぐに受け取り、実行し、伝えるものとなりますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

復活を信じる(マルコ16:12-14)

Scripture(聖書の言葉)

12 その日の夕方、二人の弟子がエルサレムから田舎へ向かう道を歩いていました。そこへイエスが現れましたが、とっさには、だれだか見分けがつきませんでした。以前とは違った姿をしておられたからです。 13 やっとイエスだとわかると、二人はエルサレムに飛んで帰り、ほかの弟子たちにこの出来事を知らせました。しかし、だれも彼らの言うことを信じませんでした。

14 その後、十一人の弟子たちが食事をしているところにイエスが現れ、彼らの不信仰をとがめられました。「どうして、わたしが復活したと言う者たちの証言を信じなかったのですか。」

Observation(観察)

復活されたイエス様の目撃者のなかに、エマオの途上でイエス様に出会った弟子達がいた。

有名な箇所ではあるが、彼らはイエス様と知らずに旅路を共にし、宿でイエス様がパンを割かれ祝福されるのを見て、その方が復活されたイエス様であると気がついた。

マルコの福音書では復活の目撃について多くを書いていないが、特徴的なのは「どうして、わたしが復活したと言う者たちの証言を信じなかったのですか。」と弟子達を咎められた、という所である。今年は2024年だが、イエス様の時代と現代は時間は途切れることなく繋がっている。当時弟子達に言われた言葉は、いまこの時代に生きるイエス様の弟子にも言われているのだ。

Application(適用)

私は、イエス様の十字架と罪の赦しを信じても、地獄を打ち破っての復活、そして昇天をイエス様の言葉通り、受け取り信じているだろうか。中途半端なところで福音書を読み終わらせては居ないだろうか。信じるなら、はじめから、おわりまで、きれいに信じよう。

Prayer(祈り)

イエス様、福音を信じると言いながら選り好みしたり、理解の途中に留まって放置していたりしました。弟子としてしっぱりと学び、イエス様の言葉を理解したいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

この方はほんとうに神の子だった(マルコ15:38-39)

Scripture(聖書の言葉)

38 するとどうでしょう。神殿の幕が、上から下まで真っ二つに裂けたのです。 39 十字架のそばに立っていたローマ軍の士官は、イエスの死の有様を見て、「この方はほんとうに神の子だった」と言いました。

Observation(観察)

イエス様は十字架につけられ、亡くなった。その瞬間には神殿の幕が裂けたとも、大きな地震があったとも伝えられている。ここにローマ軍の士官(百人隊長)がおり、「この方はほんとうに神の子だった」と述べたと書かれている。ローマの士官として、エルサレルムの敬語にあたる役職であるから、町中の噂はいやでも耳に入ってくるだろう。当然イエス様にかかわる良い噂も悪い噂も、殺害の計画も聞かされていたであろう。

彼は生前にはイエス様の交流はなかったかもしれない。しかし、彼の死に様を通して「この方はほんとうに神の子だった」と自分の実感をこめて語ることが出来た。もしかするとイエス様が最後に伝道されたのは彼かもしれない。

Application(適用)

イエス様について聞くことや映画をみることは現代でもよく在ることかもしれない(最近教会関係の映画が多い)ここではイエス様がどんな方だったのか、知ることが出来る。しかし、実際にイエス様にお会いしないと分からないこと、感じえないことが確かにある。

わたしは教会に行くことや聖書を読むことでイエス様に会える、と言っているのではない。

あなたが望むならば、定められた場所、時間にかならずイエス様との出会いがある。それは物理的ではないかもしれないし、麗しいシチュエーションではないかもしれない。しかし、確実に存在するものとしてイエス様を認知する時が来る、どうかその時はイエス様をご自身の紙として受け入れてほしい。

Prayer(祈り)

イエス様、百人隊長はあなたを神の子として告白しました。あなたと出会ったとき、あなたのことが分かったのです。私たちも心を開いて、イエス様が来られたときにあなたですとはっきりわかるようにしてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

信仰の挫折(マルコ14:66-72)

Scripture(聖書の言葉)

66 一方ペテロは、下の中庭にいました。大祭司の女中の一人が、 67 火にあたっているペテロに気づき、じっと見つめて言いました。「あら、あんた。あのナザレ人イエスといっしょにいた人じゃないの?」 68 ペテロはそのことばを打ち消し、「変な言いがかりはよしてくれ」と言って、出口のほうへ行きかけました。その時、鶏が鳴きました。

69 すると女中は、またもペテロをしげしげと見て、そばに立っている人たちに、「ほら、あの人。あの人はイエスの弟子よ」と言いふらしました。 70 ペテロはあわててそれを打ち消しました。しばらくすると、火のそばに立っていたほかの男たちも、「おまえは確かにイエスの仲間だ。ガリラヤ人だからな」と騒ぎだしました。 71 ペテロは、「そんな男のことなど知らない。これがうそだったら、どんな罰があたってもかまわない」と叫びました。

72 するとすぐ、鶏が二度目に鳴くのが聞こえました。その瞬間ペテロは、「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないと言います」という、イエスのことばを思い出したのです。ペテロは激しく泣きくずれました。

Observation(観察)

イエス様が査問を受けている間、ペテロは神殿の中庭にいた。ここでペテロはイエス様が言われたとおり鶏が二度鳴くまでに三度イエス様を否む、という言葉の通りにイエス様を否定する。

Application(適用)

命をも投げ出すと言ってはばからなかったペテロはなぜイエス様の弟子であることを証ししなかったのだろうか。彼はイエスさまをメシアであると告白したが、同時にこの世でも王であることを期待したのだろうか。王であるはずのイエス様が捕縛され裁判にかけられていることが彼の恐れを増幅したのかもしれない。

一方、彼の挫折は挫折だけでは終わらない。彼の見せた人間的な弱さは後世に信仰の挫折を経験した沢山の人を励ました。骨折した後の接合した骨はより頑丈になると聞いたことがある。私たちも沢山の挫折と痛みを経験して生きてきた。その分強くなって、人々を励ますものになれると信じたい。

Prayer(祈り)

イエス様、何度も信仰の挫折を経験してきました。都度立ち上がらせてくださり感謝します。ますます肉は弱くなりますが、あなたの支えはますます強くなることを覚えます。いつかの世の、誰かの励ましになれればと、この挫折も痛みも感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

再臨(マルコ13:32-37)

Scripture(聖書の言葉)

32 しかしだれも、天の使いも、わたし自身でさえも、その日、その時がいつかは知りません。ただ、父なる神だけが知っておられます。 33 だから、いつ終わりが来ても困らないように、わたしの帰りを目を覚まして待っていなさい。

34 こう言えば、もっとはっきりわかるでしょう。ちょうど、外国旅行に出かける人が、使用人たちに留守中の仕事の手配をし、門番には、主人の帰りを見張っているようにと命じて出かけるのと同じです。 35 だから、しっかり目を覚ましていなさい。いつわたしが帰って来るか、夕方か、夜中か、明け方か、それともすっかり明るくなってからか、わからないのですから。 36 不意をつかれて、居眠りしているところを見られないようにしなさい。 37 あなたがただけでなく、すべての人にも念を押しておきます。わたしの帰りを、抜かりなく見張っていなさい。」

Observation(観察)

イエス様の再臨について、イエス様ご自身もそれがいつになるのかわからない、父なる神だけがそれをご存じだと言われている。

だからといって再臨までイエス様の教えを実践せず、神を愛せず、人も愛せず、だただらと怠惰に過ごして良いだろか?イエス様は「しっかり目を覚ましていなさい。 36 不意をつかれて、居眠りしているところを見られないようにしなさい。 」と言われている。また、とくにこの箇所では、弟子達にだけで無く読者に対しても「すべての人にも念を押しておきます。わたしの帰りを、抜かりなく見張っていなさい。」と警告している。

Application(適用)

かつて色々な国で(日本でも)再臨運動があった。いついつにイエス様が来るから備えよう、というものだ。人々は慌てて財産を処分し、仕事を辞め、屋根に上っていつイエス様が来るかを見上げ続けた。結果はご存じの通りである。イエス様が私たちに求めたのは、日々の生活をイエス様に忠実に生きる、と言うことであって、狂騒的に再臨を望むことでは無かった。今この瞬間をイエス様に恥ずかしくないように生きているか、そのことを自省しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、早く来て下さいという気持ちもありますが、それ以上に自分の心を見張るという命令に忠実でありたいです。誠実と真実のなかに、イエス様の属性があり、それを受け取りたく思います。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

本音で神に語る(マルコ12:28-33)

Scripture(聖書の言葉)

28 イエスのそばで、この見事な返答ぶりを聞いていた一人のユダヤ教の教師が、「先生。すべての戒めの中で、どれが一番重要な戒めでしょうか」と尋ねました。

29 「『イスラエルよ、聞け。主なる神こそ、ただひとりの神です。 30 心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛しなさい。』(申命6・4-5)これが最も重要な戒めです。

31 第二は、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』(レビ19・18)という戒めです。これ以上に重要な戒めはありません。」

32 「先生。あなたは今、神様はおひとりで、ほかに神はいないとおっしゃいましたが、まさにそのとおりです。 33 そして、神殿の祭壇にどんな供え物をささげるよりも、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人を自分と同じように愛する』ことのほうが、ずっと大切です。」

Observation(観察)

イエス様の青年の質問に対し、イエス様は主なる神はただ一人の神であり、その神を愛し、また隣人を愛する事を神は命じられた。この文脈では「神は唯一の神で在る」ことは見逃しがちだが、これが全ての前提で在ることを忘れてはならない。唯一の神を何よりも愛する事を最初の戒めとされた。

ここで、神を愛するとはという事であろうか、神の前に良く出来たことを報告することであろうか、あるいは美しい言葉で讃え続けることだろうか、それとも過酷な奉仕を終えて神の前に汗をかいて倒れ込むことだろうか。

どれも正しく、同時にどれも間違いだ。

神が求められるのは全人格的な交わりだ。正しい言葉も良くない言葉も、不安や不満も、安心も満足も、すべてを神の前に持ってきて共有してほしいのだ。人の前で偽ることはできても、神の前に偽ることほど空しいことは無い。いま、この時間から、本音で神様に語ろう。

Prayer(祈り)

イエス様、ぼくは格好つけるのが好きで、神様の前にも良いところだけ見せようとしていました。あなたは僕の弱いところも全部ご存じです。僕自身がそれを認めないと自分の土台が出来ません。もう一度ありのままの自分を見つめ直し、そこから立ち直ります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

宮きよめ(マルコ11:15-17)

Scripture(聖書の言葉)

15 エルサレムに着くと、イエスは宮に入り、境内で商売をしていた者たちを追い出しにかかって、両替人の机や、鳩を売っていた者たちの台をひっくり返されました。 16 また、いろいろな荷物を持って境内を通り抜けることも、お許しになりませんでした。

17 そういう人たちに、イエスは、このように言われました。「聖書には、『わたしの家は、世界中の人たちの祈りの場所と呼ばれる』(イザヤ56・7)と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはここを強盗の巣にしてしまったのです。」

Observation(観察)

有名な宮きよめのシーンだ。同時の宮殿の入り口付近は礼拝に献げるものを買うための場所にもなっていた。いまば罪のための献げ物をコンビニ感覚で買っていたのかもしれない。そのような献げ物には何の真心も悔い改めも存在しない。

イエス様は商売しているという行為そのものばかりでは無く、形式化された献げ物にたいしての怒りで有ったのでは無いだろうか。

Prayer(祈り)

イエス様、私の内にも形骸化してしまって心の伴わない教えや戒めが在るかもしれません。真剣にその意味を考えるものになりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

離婚(マルコ10:2-8)

Scripture(聖書の言葉)

2 そこへ何人かのパリサイ人たちが来て、イエスに、「あなたは離婚をお認めになりますか」と尋ねました。もちろん、これはわなでした。

3 「モーセは、離婚について何と言いましたか。」反対に、イエスがお尋ねになりました。

4 「離婚してもさしつかえないと言いました。ただその時は、男が女に離縁状を書くのが決まりですが。」

5 「なぜモーセはそう言ったのか、考えてみなさい。あなたがたの心が邪悪で強情だったから、しかたなく認めたのです。 6-7 離婚は神の意思に反します。神は創造の初めから、人を男と女とに造られたのです。ですから、人は両親から離れて、 8 妻と一体となるのです。もはや二人ではなく一人なのです。 9 神が一つにしてくださったものを、だれも引き離してはなりません。」

Observation(観察)

イエス様は結婚は単に男女の関係を意味するのでは無く、「人は両親から離れて、 8 妻と一体となるのです。もはや二人ではなく一人なのです。」と教えられた。結婚は肉的なものばかりでは無く、霊的な結合なのだ、それは日常生活の一致ばかりでは無く、物事の捉えかたの相互理解、霊的一致に至る。そのように結びつかれた人々を、法律が許すからと言って引き剥がすのはその人の人生をボロボロにしてしまう、

Application(適用)

僕は離婚家庭にそだった。片親故に十分な愛情を感じずに成長し、いまでも人格のどこかに足りないものを感じている。母自身も悲しみをずっと抱えて生きていた。かといって神の介入なしではこの離散は食い止められなかった、と思う。そうで無ければ一家心中の二者択一であっった。この時イエス様に頼ることが出来れば、と思うと悔しくて仕方が無い。おなじような悲しみを繰り返さないためにも、少しでも機会を用いてイエス様を紹介しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、昔のことを思うと苦しくなります。癒やしてください。おなじ苦しみに遭う人がすこしでも少なくなりますように。あなたのあわれみを求めます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

だれにでも仕える人(マルコ9:33-37)

Scripture(聖書の言葉)

33 カペナウムに着き、泊まることになっていた家に入ってしばらくすると、イエスは弟子たちに、「ここへ来る途中、何を言い合っていたのですか」とお尋ねになりました。

34 弟子たちは顔を真っ赤にして、うつむいてしまいました。実は、自分たちの中でだれが一番偉いかと言い合っていたからです。

35 イエスは腰をおろし、弟子たちを回りに呼び寄せると、「だれでも一番偉くなりたい人は、一番小さい者となり、だれにでも仕える者となりなさい」と教えられました。 36 それから、小さな子どもを真ん中に立たせ、腕に抱いて言われました。 37 「見なさい。だれでもわたしの名のゆえに、このような小さい者をも受け入れる人は、わたしを受け入れているのです。そして、わたしを受け入れるなら、わたしを遣わされたわたしの父をも受け入れているのです。」

Observation(観察)

教会に沢山の人が集まるようになると、長く居る人、最近来た人、いろいろな奉仕をしている人、静かな人、若い人、年老いた人、様々な人がやって来る。こころの状態も様々だ。ご機嫌な人、落ち込んで居る人、満足している人、絶望している人。このような人の中で誰が一番偉いか?と聞かれたらどう答えるだろう。僕は間違った選択をしてしまいそうに感じる。イエス様の答えは、一番謙遜で人々に仕える人が一番偉い、と言うことだ。

今の時代、週の内で教会に居られる時間は限られている。せめてその時間だけでも互いに仕え合う関係を築きたい。

また気がつくと人間は自分が一番偉い、という心理が働く。理由は分からないが集団から退いて俯瞰すると、なにか自分が偉くなったような錯覚を持ちがちだ。もっと集まりに近づき交わろう。

Prayer(祈り)

イエス様、相変わらず上手に人と関われない私ですが、せめて高ぶることの無いように助けてください。少しでも人の助けになるような行動が出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。