ぶれない信仰のために(1テサロニケ2:4-5)

Scripture(聖書の言葉)


4 私たちは、神から任命された伝道者として真理だけを語るのであって、聞く者の好みに合わせて内容を変えることなど絶対にしません。 5 よくご存じのとおり、私たちはこれまで、何かをもらいたくて人にへつらったことなど一度もありません。それは神が証人になってくださいます。

Observation(観察)


パウロは「伝道者として真理だけを語るのであって、聞く者の好みに合わせて内容を変えることなど絶対にしません」と明言している。しかし現代のキリスト教会は時勢に応じてトーンを変えてきた。今私が信じている信仰が本当にパウロが伝えた純粋なものと同一なのか、正直自信が無い。その不安を除くのは御言葉と、真理を教えてくださる聖霊様しか無い。時代や流行に踊らされる事無く、御言葉を通ししっかりと神に結びつこう。

Prayer(祈り)


イエス様、迷うときに御言葉に帰ります。人の言うことでは無く聖霊様の教えてくださることに耳を傾けます。外から入ってくるものでは無く、御霊によって内側から私が組み上げられますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様によって真理を確信する(1テサロニケ1:4-5)

Scripture(聖書の言葉)


4 愛する皆さん。あなたがたが神に選ばれ、愛されていることを、私たちはよく知っています。 5 それは、私たちが伝えた福音(イエス・キリストによる救いの知らせ)を聞き流さず、非常な関心をもって迎え入れた態度から明らかです。私たちが語った教えは、あなたがたの人生に重大な影響を与えました。聖霊によって、これこそ真理だという確信があなたがたに与えられたからです。また、私たちの生活そのものも、私たちが語ったことばの正しさを実証したと言えるでしょう。

Observation(観察)


パウロはテサロニケ教会の人々が福音を真実として受け入れたのは聖霊様によるものだと述べている。人間的に考えるなら福音は荒唐無稽なものかもしれない。しかしそれを個人的な真実としてい受け入れるには何らかの心の動きが必須だ。私たちは聖書を立証できないしイエス様を肉眼で見たわけでは無い。それでも信じる事ができるのは聖霊様によって聖書は私たちの理解できる現実以上に信じるべきものと、心を動かされたからに他ならない。

Application(適用)


クリスチャン生活が長くなってくると、これがあたりまえの様になってしまうが、それは事実とは違う。わたしはおよそ通常の常識では通用しない世界を信じて生きている。その特別さを見失ってはならない。私は、クリスチャンはイエス様につくものだ。この世の価値観によって生きるものでは無い。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたに呼ばれてクリスチャンになりました。この重要さを忘れないようにします。福音を信じさせてくださったのは聖霊様によります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の認証(マタイ28:18-20)

Scripture(聖書の言葉)


18 イエスは弟子たちに言われました。「わたしには天と地のすべての権威が与えられています。 19 だから、出て行って、すべての人々をわたしの弟子とし、彼らに、父と子と聖霊との名によってバプテスマ(洗礼)を授けなさい。 20 また、弟子となった者たちには、あなたがたに命じておいたすべての戒めを守るように教えなさい。わたしは世界の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」

Observation(観察)


重要な書類には日本なら判子、海外なら署名が成される。だれが認証したか、あるいは誰の命であるかと明確にするためだ。どのような重要な書類でも、サインが無ければ効力が無い。イエス様は弟子達に「父と子と聖霊との名によって」洗礼を授けるように言われた。信じてバプテスマを受けた私たちは三位の神の認証が付いているということだ。洗礼を受けたのは様々な教派、牧師であったかもしれないが、その牧師の認証が私たちに付いているのでは無い。私たちは神に付く者なのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、自分の信仰の遍歴についてこのことで間違えた。あのことが無ければと考えることが多いです。しかし私は教会に付くよりも、教師につくよりも、より強く神様に付く者でありたいと思います。過去を悔やむよりも神にどう仕えるかを考えたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

血の責任(マタイ27:24-25)

Scripture(聖書の言葉)


24 どうにも手のつけようがありません。暴動になるおそれさえ出てきました。あきらめたピラトは、水を入れた鉢を持って来させ、群衆の面前で手を洗い、「この正しい人の血について、私には何の責任もない。責任は全部おまえたちが負いなさい」と言いました。

25 すると群衆は大声で、「かまわない。責任はおれたちや子どもたちの上にふりかかってもいい!」と叫びました。

Observation(観察)


ピラトはイエス様の無罪を認識していたが、群衆に負け判断を歪める。十字架刑につけるがその責任はピラトにはないと手を洗って無関係を決め込んだ。一方で民衆は「責任はおれたちや子どもたちの上にふりかかってもいい」と熱狂し、イエス様の十字架刑の責を自分たちで負うと宣言した。ユダヤ人達のこの言動は憎らしいものであるが同時に預言的でもある。「イエス様の死は自分たちのせいだ」という言葉は、信仰告白に類似している。

Application(適用)


古い賛美に「きみもここにいたのか(聖歌400番)」という歌がある。自分たちもイエス様の十字架につけた当事者だ、という嘆きの歌だ。ユダヤ人達はイエス様の血の責任を負うと言ったが、私も同様にイエス様の血の責任を負っている。それは私の罪の為であり、イエス様が与えてくださった新しいいのちを生きる責任である。イエス様の流された尊い血潮の一筋も無駄にしてはならない。真実にイエス様に従うものとして生きよう。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの死は私の罪のためです。何度告白しても足りません。それほどに罪の性質は深く私に染みつき、逃れがたいものと感じてしまいます。しかしイエス様の血潮はのろいでは無く祝福です。罪あるものがないものとされ、神の子とされる奇跡です。十字架を見つめるとき、私の弱さと、私に下さった祝福両方を見失わないようにします。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

裂かれたパン(マタイ26:26)

Scripture(聖書の言葉)


26 食事の最中に、イエスは一かたまりのパンを取り、祝福してから、それをちぎって弟子たちに分け与えました。「これを取って食べなさい。わたしの体です。」

Observation(観察)


最後の晩餐でイエス様はパンを取られ、ちぎって弟子達に配られた。パンの増殖の奇跡を思い起こさせるシーンである。パンの増殖はいのちのパンである御言葉が増え広がる、すなわち教会が増え広がることを暗喩しているが、ここではイエス様は御自身の体が裂かれることを預言している。教会の増殖とイエス様が裂かれることは表裏の関係だ。イエス様が神のご計画に従い亡くなり、復活されることが無ければ今日の(世界の)教会は無い。広がった教会の一つ一つはイエス様の体であり、役割を持っている。

Application(適用)


私にとって聖餐とはどのような意味なのかを考える。それは私が教会の一部であり、イエス様の体を構成する要素の一つであることの再確認だ。教会の中には多様な役割があり、その各々に立てられた人がいる。私自身も何らかの役割を与えられて今所属している教会に置かれているのだと思う。互いを尊重しつつ、イエス様にしっかりと結びついて自分の役割を果たそう。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの御言葉が増え広がってこの日本にも届き、多くの人々の労があって現在があります。私をあなたが必要とされる場所に置いていてくださることを感謝します。どんな臓器も体から離れて生きて行く事が出来ないように、わたしもあなたにしっかりと結びついて生きてゆくことを選びます。教会という体に繋がって霊的にいのちを豊かに受け取る事が出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

小さな賜物(マタイ25:24-30)

Scripture(聖書の言葉)


24-25 最後に、一タラント受け取った男が進み出て言いました。『ご主人様。あなたはたいそうひどい方でございます。私は前々からそれを知っておりましたから、せっかくお金をもうけても、あなたが取り上げてしまうのではないかと、こわくてしかたがなかったのです。それで、あなたのお金を土の中に隠しておきました。はい、これがそのお金でございます。』

26 これを聞いて、主人は答えて言いました。『なんという悪いやつだ! なまけ者めが! 私がおまえのもうけを取り上げるのがわかっていたというのか。 27 だったらせめて、そのお金を銀行にでも預金しておけばよかったのだ。そうすれば、利息がついたではないか。 28 さあ、この男のお金を取り上げて、五タラント持っている者にやりなさい。 29 与えられたものを上手に使う者はもっと多くのものが与えられ、ますます豊かになる。だが不忠実な者は、与えられたわずかなものさえ取り上げられてしまうのだ。 30 役立たずは、外の暗闇へ追い出してしまいなさい。そこで、泣きわめくなり、くやしがったりするがいい。』

Observation(観察)


一タラントを預かったが活用しなかった男の喩えである。他の男が二タラント五タラントを預かったのに比べると小さな数字の様だが、実際には20年から30年分の賃金に相当する莫大な金額を彼は預かった。主人が旅に出ている間このお金を何一つ有効に使わなかったのは、主人に対する不信であった。タラントの喩えは賜物の活用という文脈で語られることが多い。
私はギターを弾いたり拙い文章を書いたりするが、上手な人にはとても叶わない。まさに二タラントや五タラントを預かっている人々のようでうらやましく感じる。しかしちっぽけで小さく見える私の賜物であっても決して過小評価してはならない。神が私という個人を信頼して、役立ててくれることを信じ期待して託してくれた物だ。自信を失うことがあっても投げ出さず、賜物を下さった神を信頼して、これを精一杯用いてお返しできる日を待ち望もう。

Prayer(祈り)


イエス様、自分の賜物を過小評価していました。神様から与ったもの、というだけで莫大な価値があります。これを喜んで用いて行く事が出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

再臨を求める(マタイ24:37-44)

Scripture(聖書の言葉)

37-38 ちょうど、ノアの時代のように。当時の人々は洪水が襲う直前まで、宴会だ、結婚式だと陽気に楽しんでいました。 39 何もかも押し流されてしまうまで、洪水のことなど信じようとしなかったのです。わたしが来る時も、それと同じです。
40 その時、二人の人が畑で仕事をしていると、一人は天に上げられ、一人はあとに残されます。 41 家事をしている二人の女のうち、一人は天に上げられ、一人はその場に残されます。
42 主はいつ来られるかわからないのだから、いつ来られてもいいように準備をしていなさい。
43 寝ずの番をしていれば、どろぼうに入られることもありません。 44 同じように、日ごろの備えが万全であれば、わたしが何の前ぶれもなくやって来ても、少しも困ることはないはずです。

Observation(観察)

イエス様は御自身の再臨について、その日が何時であるかイエス様も存じないと言われ、ただいつ来られるのかは父なる神の決められるのだから、いつでも備えていなさい、と言われた。

大正時代の再臨運動やホーリネスのリバイバルなど、イエス様の再臨を期待して人々が熱狂的になった例がある。現代から見ると批判的、冷笑的になってしまいそうになるが、当時の世相の抑圧感から、神に根本的な解決を求める思いは真実な物であっただろうと思う。

Application(適用)

「主イエスよ来て下さい」とヨハネは言う。黙示録を読む人々にも「来て下さい」と言いなさいとヨハネは命じている。再臨を待望することは決して間違いでは無い。

「来て下さい」と言うためには私はいつも備えていなくてはならない。何の備えも整えも無く、イエス様を望んだとしたら、この聖書箇所のようになってしまう。

再臨は希望だ。二〇〇〇年間人々はずっと求め願ってきた。これまでそれが起きなかったから明日それが起きないということはあるだろうか。願い期待し続けることが神に対する私のあるべき姿勢なのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたが来られ一切を新しくされること、新天新地の訪れを切に望みます。私たちを集め、神の民として共に住んでくださる約束を感謝します。あなたの約束を信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

十分の一よりも(マタイ23:23)

Scripture(聖書の言葉)


23 パリサイ人、ユダヤ教の指導者たち。あなたがたは偽善者です。自分の畑でとれる、はっかの葉の最後の一枚に至るまで、実にきちょうめんに十分の一をささげているのに、律法の中ではるかに大切な正義と思いやり、信仰はおろそかにしています。もちろん十分の一はささげるべきですが、もっと大切なことをなおざりにしては何にもなりません。

Observation(観察)


イエス様はパリサイ人を激しく糾弾された。そのなかにこの箇所がある。十分の一を献げるという律法の代表とも言える行いに対して、それを行っていたとしても正義と思いやり、そして信仰が無ければ何もならない、と言われた。律法の罠とはそれを行ってさえいれば十分と自分を騙す思いなのだ。私も当然成すべき行い以上に、正義と思いやりを持つこと、信仰を持って生きることを見失ってはならない。表面上の行いだけの冷たいクリスチャンになってはいけない。誠実に神と人を愛する生き方を選ぼう。

Prayer(祈り)


イエス様、教えの本質を見失って形式に走ってしまいそうな時が多々あります。「これさえやっておけば良いだろう」といった投げやりな気持ちでいたこともあります。そのような生き方では無くイエス様に倣うことを第一として生きてゆきたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

祝宴で礼服を着る(マタイ22:10-14)

Scripture(聖書の言葉)


10 王の使者たちは、命令どおり、善人悪人の区別なく、だれでも招待しました。宴会場は客でいっぱいです。 11 ところが、王が客に会おうと出て来ると、用意しておいた婚礼の礼服を着ていない客が一人います。 12 『礼服もつけずに、どうしてここへ入って来たのか』と尋ねましたが、その男は何とも返事をしません。

13 それで王は、側近の者たちに命じました。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出しなさい。そこで泣いてくやしがるのだ。』 14 招待される人は多くても、選ばれる人は少ないのです。」

Observation(観察)


王子の披露宴に招かれていた招待客は出席を断ってしまう。そこで王は誰彼無く人々を披露宴に招待した。これはイスラエルが神から離れてしまっていることと福音が全ての人に対して開かれていることを意味するのは自明だ。しかし新たに招かれた客の中で用意された婚礼の礼服を着ない客がいた。婚礼の礼服さえ王の側で用意されていたにもかかわらず、この客はそれを身につけるのを拒んだ。服とはキリストの救いを着ることを意味する。14節ではこの様な人は少なくないことを暗喩している。
福音は全ての人に開かれ、教会は訪れる人を受け入れる。しかしその人が自ら救いを受けようとしない限り、どれだけ説教を聞いても、教会に通っても魂の救いは得られない。信仰は多くの場合能動的であることが求められる。私は信仰的に受け身になってはいないだろうか。イエス様の祝宴に喜んで参加できるものとなろう。

Prayer(祈り)


イエス様、祝宴に招かれてもひねくれて用意された礼服を着なかった人の様で無く、与えられるものを喜んで身につける信仰を選びたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

つながれたロバの子(マタイ21:2-5)

Scripture(聖書の言葉)


2 「村に入るとすぐ、一頭のろばといっしょに、子ろばがつないであるのに気づくでしょう。子ろばをほどいて、連れて来なさい。 3 もしだれかに、何をしているのかと聞かれたら、『主が必要なのです』とだけ答えなさい。そうすれば、何もめんどうは起こらないはずです。」

4 それは、次のような預言が実現するためでした。

5 「エルサレムに告げよ。
『王がおいでになる。
ろばの子に乗って。
柔和な王がおいでになる。』」(ゼカリヤ9・9)

Observation(観察)


聖書の中には、ピンポイントで重要な役目をする人物や動物がいる。クレネ人シモンやバラムに口を開いたロバ、そしてこの子ロバである。このロバはエルサレムに入城するイエス様をお運びするために選ばれた。ゼカリヤ書の預言の成就のために存在し、必要なときに必要な働きをした。私にも果たすべき使命があるはずだ。まだその時は来ていないかもしれないがイエス様が呼ばれたときに、従順に従い働きを果たすために、いつでも応えて役に立てるために備えてゆきたい。それがどんな働きであってもかまわない。ほんの一瞬の役割でも充分だ。ただ神のご計画に関わり用いられたい。

Prayer(祈り)


イエス様、繋がれて待っていたロバのこのように従順にいつまでも待ちます。時が来たら呼んでください。小さな短い働きでも喜んで働きます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。