御声を聞くならば(詩編95:7-8)

Scripture(聖書の言葉)


“まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民その御手の羊。今日もし御声を聞くなら
あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように荒野のマサでの日のように。”
詩篇 95篇7~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)


羊は羊飼いの声を聞き従う。イエス様は良い羊飼いであると御自身を指して言われた。安全な豊かな場所に連れて行ってくださろうというのに頑なになってそこを離れまいとしてはならない。また羊飼いの声を聞き間違えないようにすることも大切だ。偽物の悪い羊飼いによってむさぼられることの無いように、普段からイエス様の声がどのようなものか、神が導かれている方向はどこか、耳を澄まそう。

Application(適用)


私の心は今雑音だらけで、神の導きを聞くことが難しくなっているように思う。この世のことで心配して心が一杯になっているからだ。短い時間であっても一旦そのような事柄をわきに置き、今イエス様がどのような事を語ってくださっているのか、黙想する時間を持つようにしよう。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの御声を聞こうとする習慣を回復したいです。この世のことで一杯になっていました。時間と心を聖別してあなたと過ごすことが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊の恵み(1テサロニケ5:19-22)

Scripture(聖書の言葉)

19 聖霊の恵みを無にしてはいけません。 20 預言する者を軽蔑してはいけません。 21 すべてのことをよく調べ、それがほんとうに良いものであれば、受け入れなさい。 22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

Observation(観察)

聖霊の恵み、とパウロは表現しているが、文脈からして聖霊様の超自然的な働きについて述べていると考えるのが妥当だろう。キリスト教会、特に聖霊派、ペンテコステ派と言われるグループでは、人知を超えた不思議なことが時として起きる。それは聖霊様によるものもあれば、そうで無いケースもある。パウロは「すべてのことをよく調べ、それがほんとうに良いものであれば、受け入れなさい。 」と言っている。聖書の別の箇所では、“ 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。”(ヨハネの手紙第一 4章1節)とある。不思議なことが起きたからと言って無差別に信じるのでは無く、それが本当に聖霊様によるものなのかをしっかりと吟味しなければならない。

一方で「聖霊の恵みを無にしてはいけません。」とパウロは明言している。教会は聖霊様の働きを排除してはならない。教会を開闢し、二千年間教会の働きの原動力になっているのは聖霊様に他ならない。霊的な事柄を無視してはキリスト教は成り立たない。

正しく見極める目を持って聖霊様と共に教会の働きを前進しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、聖霊様の働きを強調する教会と、そうで無い教会があります。私は今その二つの考え方の差違に困惑しています。どうか正しくあなたの道に歩む知恵を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

死と復活(1テサロニケ4:13-14)

Scripture(聖書の言葉)


13 それから、皆さん。クリスチャンが死んだらどうなるか、よく知っておいてほしいのです。悲しみのあまり取り乱して、何の希望もない人たちと同じようにならないためです。 14 私たちは、イエスが死んで復活されたことを確かなことと信じています。ですから、イエスが帰って来られる時、すでに死んで世を去ったすべてのクリスチャンを、神が共に連れて来てくださると信じてよいのです。

Observation(観察)


生きてゆくうち、多くのクリスチャンの死に遭遇する。時として混乱し、死について思いを巡らすことがある。クリスチャンと世の人の決定的な違いは、死が死で終わらないこと、死は復活と表裏であることを信じていることだ。言い方を変えれば死が無ければ復活も無い。死はイエス様に会うための重要な通過点で、絶望で終わるものでは無い事を私たちは信じている。

Application(適用)


私は母の死について、非常に困惑し、ある時期精神を病んだ。親しい人の死を受け入れるには必要な悲しみがある。悲しみの中でイエス様の復活についてそれが真実であると確信することが重要なプロセスだ。嘆きも悲しみも通らねばならない道だ。しかしその向こうに永遠の約束があることを忘れないようにしたい。

Prayer(祈り)


イエス様、死について、復活について、真剣に考えるときがあります。いつも最後の答えは希望であることを感謝します。やがて私も世を去ります。あなたにお会いするプロセスを経ます。パウロが焦がれたように私もいつか訪れるその日を希望を持って待ちます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

愛と信仰を求める(1テサロニケ3:2-6)

Scripture(聖書の言葉)


2-3 兄弟であり、協力者であり、また神の伝道者でもあるテモテをそちらへ行かせました。それは、あなたがたの信仰を強め、励まし、どんな困難の中でも、失望せずにしっかり立ってくれることを願ったからです。しかしご存じのとおり、クリスチャンにとって困難とは、神の計画の範囲内の出来事なのです。 4 私がそちらにいた時、やがてきっと苦難が訪れると警告しておきましたが、それが、いま現実となったのです。

5 そういうわけで、私は不安な気持ちに耐えきれず、あなたがたの信仰が以前のようにしっかりしているかどうか確かめたくて、テモテに行ってもらいました。悪魔に誘惑されて信仰を奪い取られ、これまでの苦労が水のあわになったのではないかと心配だったからです。 6 ところが、今こちらに帰って来たテモテから、あなたがたの信仰と愛が変わらずにしっかりしているとの報告を受け、どんなに喜んだことでしょう。

Observation(観察)


迫害と困難の中にあったテサロニケの人々を心配し、パウロはテモテを派遣した。戻ってきたテモテによって、彼らの信仰と愛が変わらずにしっかりしているとの報にパウロはとても喜んだとある。
困難に耐え打ち勝つのは信仰と愛だ。神を信じ互いに愛し合うことによって乗り越えることができる。

Application(適用)


私に果たして信仰と愛はあるだろうか。特に隣人について、自分の愛の無さに悲しみ情けなくなることがある。生まれついての自分の性質は愛とはほど遠い。持っているのは独善と拒絶だ。神によってでなければ隣人愛は得られない。辛抱強く神に願おう。

Prayer(祈り)


イエス様、自分の至らなさを繰り返し教えられています。自分の心の狭さに飽き飽きしています。あなたによって変えられることを望みます。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ぶれない信仰のために(1テサロニケ2:4-5)

Scripture(聖書の言葉)


4 私たちは、神から任命された伝道者として真理だけを語るのであって、聞く者の好みに合わせて内容を変えることなど絶対にしません。 5 よくご存じのとおり、私たちはこれまで、何かをもらいたくて人にへつらったことなど一度もありません。それは神が証人になってくださいます。

Observation(観察)


パウロは「伝道者として真理だけを語るのであって、聞く者の好みに合わせて内容を変えることなど絶対にしません」と明言している。しかし現代のキリスト教会は時勢に応じてトーンを変えてきた。今私が信じている信仰が本当にパウロが伝えた純粋なものと同一なのか、正直自信が無い。その不安を除くのは御言葉と、真理を教えてくださる聖霊様しか無い。時代や流行に踊らされる事無く、御言葉を通ししっかりと神に結びつこう。

Prayer(祈り)


イエス様、迷うときに御言葉に帰ります。人の言うことでは無く聖霊様の教えてくださることに耳を傾けます。外から入ってくるものでは無く、御霊によって内側から私が組み上げられますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様によって真理を確信する(1テサロニケ1:4-5)

Scripture(聖書の言葉)


4 愛する皆さん。あなたがたが神に選ばれ、愛されていることを、私たちはよく知っています。 5 それは、私たちが伝えた福音(イエス・キリストによる救いの知らせ)を聞き流さず、非常な関心をもって迎え入れた態度から明らかです。私たちが語った教えは、あなたがたの人生に重大な影響を与えました。聖霊によって、これこそ真理だという確信があなたがたに与えられたからです。また、私たちの生活そのものも、私たちが語ったことばの正しさを実証したと言えるでしょう。

Observation(観察)


パウロはテサロニケ教会の人々が福音を真実として受け入れたのは聖霊様によるものだと述べている。人間的に考えるなら福音は荒唐無稽なものかもしれない。しかしそれを個人的な真実としてい受け入れるには何らかの心の動きが必須だ。私たちは聖書を立証できないしイエス様を肉眼で見たわけでは無い。それでも信じる事ができるのは聖霊様によって聖書は私たちの理解できる現実以上に信じるべきものと、心を動かされたからに他ならない。

Application(適用)


クリスチャン生活が長くなってくると、これがあたりまえの様になってしまうが、それは事実とは違う。わたしはおよそ通常の常識では通用しない世界を信じて生きている。その特別さを見失ってはならない。私は、クリスチャンはイエス様につくものだ。この世の価値観によって生きるものでは無い。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたに呼ばれてクリスチャンになりました。この重要さを忘れないようにします。福音を信じさせてくださったのは聖霊様によります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の認証(マタイ28:18-20)

Scripture(聖書の言葉)


18 イエスは弟子たちに言われました。「わたしには天と地のすべての権威が与えられています。 19 だから、出て行って、すべての人々をわたしの弟子とし、彼らに、父と子と聖霊との名によってバプテスマ(洗礼)を授けなさい。 20 また、弟子となった者たちには、あなたがたに命じておいたすべての戒めを守るように教えなさい。わたしは世界の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」

Observation(観察)


重要な書類には日本なら判子、海外なら署名が成される。だれが認証したか、あるいは誰の命であるかと明確にするためだ。どのような重要な書類でも、サインが無ければ効力が無い。イエス様は弟子達に「父と子と聖霊との名によって」洗礼を授けるように言われた。信じてバプテスマを受けた私たちは三位の神の認証が付いているということだ。洗礼を受けたのは様々な教派、牧師であったかもしれないが、その牧師の認証が私たちに付いているのでは無い。私たちは神に付く者なのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、自分の信仰の遍歴についてこのことで間違えた。あのことが無ければと考えることが多いです。しかし私は教会に付くよりも、教師につくよりも、より強く神様に付く者でありたいと思います。過去を悔やむよりも神にどう仕えるかを考えたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

血の責任(マタイ27:24-25)

Scripture(聖書の言葉)


24 どうにも手のつけようがありません。暴動になるおそれさえ出てきました。あきらめたピラトは、水を入れた鉢を持って来させ、群衆の面前で手を洗い、「この正しい人の血について、私には何の責任もない。責任は全部おまえたちが負いなさい」と言いました。

25 すると群衆は大声で、「かまわない。責任はおれたちや子どもたちの上にふりかかってもいい!」と叫びました。

Observation(観察)


ピラトはイエス様の無罪を認識していたが、群衆に負け判断を歪める。十字架刑につけるがその責任はピラトにはないと手を洗って無関係を決め込んだ。一方で民衆は「責任はおれたちや子どもたちの上にふりかかってもいい」と熱狂し、イエス様の十字架刑の責を自分たちで負うと宣言した。ユダヤ人達のこの言動は憎らしいものであるが同時に預言的でもある。「イエス様の死は自分たちのせいだ」という言葉は、信仰告白に類似している。

Application(適用)


古い賛美に「きみもここにいたのか(聖歌400番)」という歌がある。自分たちもイエス様の十字架につけた当事者だ、という嘆きの歌だ。ユダヤ人達はイエス様の血の責任を負うと言ったが、私も同様にイエス様の血の責任を負っている。それは私の罪の為であり、イエス様が与えてくださった新しいいのちを生きる責任である。イエス様の流された尊い血潮の一筋も無駄にしてはならない。真実にイエス様に従うものとして生きよう。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの死は私の罪のためです。何度告白しても足りません。それほどに罪の性質は深く私に染みつき、逃れがたいものと感じてしまいます。しかしイエス様の血潮はのろいでは無く祝福です。罪あるものがないものとされ、神の子とされる奇跡です。十字架を見つめるとき、私の弱さと、私に下さった祝福両方を見失わないようにします。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

裂かれたパン(マタイ26:26)

Scripture(聖書の言葉)


26 食事の最中に、イエスは一かたまりのパンを取り、祝福してから、それをちぎって弟子たちに分け与えました。「これを取って食べなさい。わたしの体です。」

Observation(観察)


最後の晩餐でイエス様はパンを取られ、ちぎって弟子達に配られた。パンの増殖の奇跡を思い起こさせるシーンである。パンの増殖はいのちのパンである御言葉が増え広がる、すなわち教会が増え広がることを暗喩しているが、ここではイエス様は御自身の体が裂かれることを預言している。教会の増殖とイエス様が裂かれることは表裏の関係だ。イエス様が神のご計画に従い亡くなり、復活されることが無ければ今日の(世界の)教会は無い。広がった教会の一つ一つはイエス様の体であり、役割を持っている。

Application(適用)


私にとって聖餐とはどのような意味なのかを考える。それは私が教会の一部であり、イエス様の体を構成する要素の一つであることの再確認だ。教会の中には多様な役割があり、その各々に立てられた人がいる。私自身も何らかの役割を与えられて今所属している教会に置かれているのだと思う。互いを尊重しつつ、イエス様にしっかりと結びついて自分の役割を果たそう。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの御言葉が増え広がってこの日本にも届き、多くの人々の労があって現在があります。私をあなたが必要とされる場所に置いていてくださることを感謝します。どんな臓器も体から離れて生きて行く事が出来ないように、わたしもあなたにしっかりと結びついて生きてゆくことを選びます。教会という体に繋がって霊的にいのちを豊かに受け取る事が出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

小さな賜物(マタイ25:24-30)

Scripture(聖書の言葉)


24-25 最後に、一タラント受け取った男が進み出て言いました。『ご主人様。あなたはたいそうひどい方でございます。私は前々からそれを知っておりましたから、せっかくお金をもうけても、あなたが取り上げてしまうのではないかと、こわくてしかたがなかったのです。それで、あなたのお金を土の中に隠しておきました。はい、これがそのお金でございます。』

26 これを聞いて、主人は答えて言いました。『なんという悪いやつだ! なまけ者めが! 私がおまえのもうけを取り上げるのがわかっていたというのか。 27 だったらせめて、そのお金を銀行にでも預金しておけばよかったのだ。そうすれば、利息がついたではないか。 28 さあ、この男のお金を取り上げて、五タラント持っている者にやりなさい。 29 与えられたものを上手に使う者はもっと多くのものが与えられ、ますます豊かになる。だが不忠実な者は、与えられたわずかなものさえ取り上げられてしまうのだ。 30 役立たずは、外の暗闇へ追い出してしまいなさい。そこで、泣きわめくなり、くやしがったりするがいい。』

Observation(観察)


一タラントを預かったが活用しなかった男の喩えである。他の男が二タラント五タラントを預かったのに比べると小さな数字の様だが、実際には20年から30年分の賃金に相当する莫大な金額を彼は預かった。主人が旅に出ている間このお金を何一つ有効に使わなかったのは、主人に対する不信であった。タラントの喩えは賜物の活用という文脈で語られることが多い。
私はギターを弾いたり拙い文章を書いたりするが、上手な人にはとても叶わない。まさに二タラントや五タラントを預かっている人々のようでうらやましく感じる。しかしちっぽけで小さく見える私の賜物であっても決して過小評価してはならない。神が私という個人を信頼して、役立ててくれることを信じ期待して託してくれた物だ。自信を失うことがあっても投げ出さず、賜物を下さった神を信頼して、これを精一杯用いてお返しできる日を待ち望もう。

Prayer(祈り)


イエス様、自分の賜物を過小評価していました。神様から与ったもの、というだけで莫大な価値があります。これを喜んで用いて行く事が出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。