神のことばを信じよう(ルカ1:45)

Scripture(聖書の言葉)

“主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」”

ルカの福音書 1章45節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

ルカの一章では、二人の人物の対比が書かれている。洗礼者ヨハネの父であるザカリヤと、イエス様の母であるマリアである。

ともに天使の来訪を受け、子が与えられることを伝えられるが、ザカリヤはそれを信じようとせず、あるときまで口がきけなくなってしまう。

一方でマリヤは、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と天使に返答し、従順の姿勢をとった。

どちらの赤子も無事出産され、洗礼者ヨハネとイエス様として、神の働きを進めてゆく。

信じたマリヤにも、疑ったザカリアにも神の計画は成った。ならば御言葉のとおり、神の約束を信じ疑わず、「幸いな人」として生きるべきでは無いだろうか。

Application(適用)

新しい一年を、疑念と落胆で生きるのか、確信と感謝で生きるのか、選択肢は私にある。私がどのような態度や思いを持ったとしても、神の計画は前進する。ならば、わたしは神の方に付き、神の計画を全面的に信じる物になろう。全ては神の御手にあると神を賛美しよう。

私には足りない物も弱さもあるが、それ以上に神がおられる、ということはその全てのマイナスを吹き飛ばして余りある。主こそ神ですと礼拝する一年でありたい。

Prayer(祈り)

イエス様、新しい一年です。ことしも御言葉をひたすら求める年となりますように。

私の内面を形づくり、あなたの望むことの出来るわたしにして下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

大淫婦バビロン(黙示録17:1-6)

Scripture(聖書の言葉)

Observation(観察)

創世記の獣、そしてバビロンに象徴される物は何か、世界中でさまざまな議論や研究がされているが見解が分かれている。執筆された地代ではローマの権威に関する何か、と考えられるが。現代では特定の国家の集合体とその権威者、と見る人もいる。聖書はこれ以上語っては無い。とすれば私たちがこれを見て心に何を映すかが重要だ。

Application(適用)

正直、難解な箇所で何を書いて良いか分からない。

私は、バビロンとは経済システムそのものであるように感じている。経済はイデオロギーの違う国間をつなぎ、時には戦争の原因となり、あるいは和解のためにも用いられる。一方で経済は社会を支配し、為政者はこれを用いて国民の世話をし、逆に取り立ててもいる。

私たちは貯金の代償に一喜一憂し、お金の扱いに失敗したら悲惨な人生が待っている。

いま、経済システムが世界的に崩壊したらなにが起きるだろうか。私には全く想像できない。それほどに経済は正解中を血液のように巡っている。陰謀論者は特定のグループがこの経済全てを握っていると言っているがそれが出来る人類は存在しない。

しかし黙示録の中でバビロンが倒れる、ということはこれまで当たり前のように思っていた(悪しき)社会のシステムが覆る、と言うことかもしれない。

マクロな意味で経済という人間に制御不可能な力に私たちの人生が支配されていることは恐ろしいことだ。だからといって貨幣経済を捨てて生きてゆくことは出来無い。

そんな中にあっても、私たちは価値基準の順番を間違えてはいけない。イエス様を信じた者はイエス様と神の国を第一に求め、神と人を愛することを最優先に、そのために経済を用いコントロールしなくてはならない。富んでいる人も貧しい人も、経済に支配されてはならない。私たちを支配できるのは天の父なる神だけなのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、やがての日に起きることはまだ隠されていて私には分かりません。ただ、三位の神様のみを見上げて、最優先で生きてゆきたいです。経済、病気、他様々な事柄が私を拘束しようとします。しかしいま御言葉に触れている間、魂は自由です。いつも御言葉を思うものとさせて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

みことばを聞いて生きる(ヨハネ5:24)

Scripture(聖書の言葉)

24 よく言っておきます。わたしの言うことを聞き、わたしを遣わされた神を信じる人にはだれでも、永遠のいのちがあります。罪のために罰せられることは絶対にありません。すでに死からいのちに移っているのです。 25 はっきり告げましょう。死人が神の子であるわたしの声を聞く時が、もうすぐ来ます。いや、もう来ているのです。そして、聞いた者は生きます。

Observation(観察)

イエス様は、「神を信じる人にはだれでも、永遠のいのちがあります。罪のために罰せられることは絶対にありません。すでに死からいのちに移っているのです。」と言われている。また、「死人が神の子であるわたしの声を聞く時が、もうすぐ来ます。いや、もう来ているのです。」とも言われている。イエス様の声を聞き、神の声を信じる前の人は生きていても死んでいる人であり、信じた人はその瞬間、いのちに移ると言われている。救いはどの瞬間にもあり、逆にイエス様から離れた刹那、救いは失わないのかもしれないが、死人のような生活に簡単に舞い戻ってしまうとも言える。

Application(適用)

救いは瞬間に起こるが、それはずっと続くプロセスである、僕が初めてイエス様を信じたのは随分前になるが、あらゆる瞬間にイエス様から目を離さなかったかといえば、決してそうではない、何度となくイエス様を見失い、この世の価値観にどっぷりと浸かることの繰り返してあった。そんな状態を聖書は「死人」と表現している。神に従うと口で言いながら、この世を愛する二重構造を平気で過ごしていた。リビングデッドさながらである。

しかし、それでもイエス様は「聞いた者は生きます。」と言ってくださる。悔い改めの機会、イエス様に立ち返る機会は絶えずある、今立ち返って、いのちを得よう。聞いて生きよう。

Prayer(祈り)

イエス様、何度もイエス様のことばに耳を向けず、顔を背けて過去の生活に近づこうとしていたことが何度もありました。光に顔を向けていなければ、闇を見ていることに気づいていませんでした。また闇を愛する人間の本性に立ち向かうことができませんでした。こんな愚かな弱い人間です。それでも、イエス様の声を聞いたものは生きると、決して変われことのないみことばが約束してくださいます。今日一日、イエス様の方を向いて生きることができますように、一歩一歩、イエス様の方に向かって歩いてゆけます様に。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

焼け尽くす様なイエス様への想いを持ちたい(ヨハネ2:13)

Scripture(聖書の言葉)

13 ユダヤ人の過越の祭り(パン種を入れないパンを食べる、年に一度のユダヤ人の祭り)が近づき、イエスはエルサレムへ行かれました。 14 宮の境内には、供え物用の牛や羊、鳩を売る商人たちと、座って両替をしている人たちがいました。 15 それを見て、イエスはなわでむちを作り、商売人たちをみな追い出し、鳩や羊や牛を追い散らし始めました。次々に両替人の台をひっくり返したので、お金があたり一面に散らばりました。 16 イエスは鳩を売る者たちに、「それを持って出て行きなさい。父の家を金もうけの場所にしてはいけません」と言われました。 17 そのとき弟子たちは、「神の家を思う熱心が、わたしを焼き尽くす」(詩篇69・9 神のことを熱心に思うあまり、 心は焼け尽きそうです。 私があなたを弁護したため、 敵は、あなたに対してするように、 私に侮辱のことばを投げつけてきます。)という、聖書の預言を思い出したのです。

Observation(観察)

神殿を訪れたイエス様は、神殿内での商売人たちを追い払う。とはいえ、彼らの商売は供え物を売るための商売であり、神殿と無関係な物ではなかった。一見すると正当な仕事をしている彼らを、イエス様が突然暴れて追い出した、と見える箇所である。

しかし、イエス様は「父の家を金儲けの場所にしてはいけません」と言われた。神の家を聖く保つことをイエス様は願われた。正当な商売であり、神殿に関わる商売であったとしても、そこには貪欲や人を利益の対象とみなすような思いが商売人たちにはあったかもしれない、そこで買い物する人々も、もっと安く買いたいなど、自分の懐具合を気にしてしまい、神のことを第一にしない姿勢があったのかと思う。

Application(適用)

この箇所で述べられている神殿を、現代の教会、と置き換えること物できるが、むしろ私は、自分の内面についての想いを正すように、イエス様に語られている様に思う。イエス様を受け入れた時から、私のたましいは神様の住まうところとなったはずである、しかし、今私のうちにあるのは、暮らし向きの不安、繰り返し襲ってくる苦い記憶、明日の仕事の心配、など神様に思いを向ける前に邪魔になる考えばかりである、祈ろうとする時、聖書を読もうとする時、そのような思いに足を引っ張られ、なかなか神様に思いが向かわない。僕の中のそういった思いもイエス様が追い出してくれないであろうか。「神の家を思う熱心が、わたしを焼き尽くす」とある。引用された詩篇は「神のことを熱心に思うあまり、 心は焼け尽きそうです。 」と書かれている。私自身が焼け尽く様な神への思いをいただき、神に向かうことを妨げるあらゆる邪魔な思いを焼き尽くしたい、そう願う。

Prayer(祈り)

イエス様、あたながエルサレムの神殿でなさったように、私の内面の信仰を邪魔する思いをすべて追い出したいです。「神の家を想う熱心」とあります。私の心にはあなたがお住まいなると聖書で学びました。あなたを熱心に想う私と変えてください。そして焼け付く様な思いを持って、あなたに向かうことを邪魔するすべての思惟を追い出して、あなたに語り、語られる時間を日々持てますように、イエス様のお名前でお祈りします。アーメン。

深く学ぶ(第二ペテロ1:2)

Scripture(聖書の言葉)

2 あなたがたは、神の恵みと平安をもっと多くいただきたいと願っているでしょう。それなら、イエス・キリストについてもっと深く学んでください。 3 キリストを知れば知るほど、その偉大な力を通して、私たちが神に従う正しい生活を送るために必要なすべてのものをいただくことができるのです。そればかりかキリストは、ご自分の栄光と共に敬虔や品性をも、私たちに与えてくださるのです。 4 さらに神は、それによって、すばらしい約束を与えてくださいます。この約束のゆえに、私たちは欲望のもたらす滅びから守られ、キリストのご性質を備えた者となれるのです。

Observation(観察)

ペテロはイエス様について深く学ぶことを勧めている。深く学ぶことでイエス様の事をよく知り、知るばかりではなく、

    • 神の恵みと平安を頂ける
    • 神に従う正しい生活に必要なすべてのものをいただける
    • イエス様ご自身の栄光、ご自身の敬虔、品性
    • この世の欲望のもたらす滅びから守られる
    • キリストのご性質を備えたものとなれる

と、沢山の実を結ぶことのできるものとなれることを教えている。これは自身の救いのためばかりではなく、一人でも多くの人に福音を届けるため、そして当時も今もはびこっているこの世の罪の誘惑や異端などから守られるためである。

Application(適用)

短い期間であるが聖書を学ぶ機会が与えられていたことは本当に神様に感謝すべきことである。

しかし、書物を書物とて学問として学ぶだけでは、頭でっかちな人で終わってしまう。学ぶことで、自分にどんな変化が起きて行くのかを期待することを忘れていた。今再び、デボーションという形で聖書を黙想する事を日々重ねることで、ペテロのいう学びに伴う沢山のギフトを受けられる様にしたい。また、自分の変化は自分のためだけではなく、伝道のため、そして間違った考えから守られるためであることも知ることができた

「8 これらが備われば、あなたがたはますます強められ、主イエス・キリストのために多くの有益な働きができるのです。 9 しかし、これらのものを追い求めない人は、実を結ばない人です。そういう人は、神が正しい生活を送るようにと、過去の罪から救ってくださったことをすっかり忘れているのでしょうか。」ともあるように、自分の学びによる変化は自分のためだけではなく、神の働きのためであり、日々救いの確信を深めて行くためであることがわかった。

改めて学びの姿勢を見直し、神に変化され日々イエス様に近づくことができるよう、一歩づつ進んで行きたい。

Prayer(祈り)

イエス様、聖書を学ぶ機会をいただいていましたが、学びをただ学びとして受け取っていたことを赦してください。ペテロが言うように、学びに伴う様々なギフトを通し、少しでもイエス様の似姿に近づくことができますように。それを通して一人でも多くの人にイエス様の事を伝えることができますように、これからのデボーションの日々を祝福してください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

共に神の家を建てあげる(第一ペテロ2:4)

Scripture(聖書の言葉)

4 主キリストに近づきなさい。主が土台石となり、神はその上に、神の家をお建てになるのです。人々は主を拒みましたが、神は主を最も重要な存在として選ばれたのです。 5 あなたがたも、神の家を建て上げるための生ける土台石となりなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる供え物を神にささげなさい。 6 聖書にこう書いてあります。「見よ。わたしは一つの石(キリスト)を(教会の)尊い土台石とするために選び、遣わした。彼に信頼する者は、決して失望しない。」(イザヤ28・16)

Observation(観察)

イエス様は「隅のかしら石」とされている。建物を建てるための最初の礎石である。「見よ。わたしは一つの石(キリスト)を(教会の)尊い土台石とするために選び、遣わした。彼に信頼する者は、決して失望しない。」と書かれている。一方で「キリストを拒む者にとっては、「つまずきの石、妨げの岩」となりました。」と書かれている。同じかしら石であっても信じる人には尊く、頼り甲斐のあるものだが、信じない人には妨げとなる。

信じた私たちには、「あなたがたも、神の家を建て上げるための生ける土台石となりなさい。」と勧めている。神に連なり、共に教会を建てあげなさいという命令である。

Application(適用)

共に教会を建てあげよという神の呼びかけは、取るに足らない私たちにとって、嬉しい反面、本当にできるのか、と不安になることもある。石同士がきっちりと擦り合わせられないと、土台として機能しない。私という石が、かしら石と、また他の土台石たちとしっかり結び合うために、時には磨かれ、削られることも必要かもしれない。教会の人々が共に強固に結び合うことが、どんな嵐にも持ち堪える教会を建てあげる秘訣と学んだ。進んで良い石となり、教会と結びつくものとなりたい。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたと、また教会の仲間としっかり結びついて教会を建てあげなさいとのあなたの呼びかけに応じます。自分の役割を教えてください。人と関わり合うことを恐れず、逆に関わり合うことでより深く結びつくことができますように。また聖書を通してあなたを知り、みことばによって必要な変化、訓練、試練を喜んで受けることができますように。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン。

信仰と言葉、そして行い(第一ペテロ2:4)

Scripture(聖書の言葉)

14 愛する皆さん。自分には信仰があると言っても、それを行動で表さなかったら、どうしてその信仰を実証できるでしょう。そのような信仰が、人を救うことができるでしょうか。 15 あなたがたの仲間に、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている人がいて、 16 その人に、「それはお困りですね。でも神様が祝福してくださいますよ。暖かくして、お腹いっぱい食べてください」と言うだけで、必要なものを何もあげないなら、何の役に立つでしょう。 17 このように、信仰に行いが伴わなければ、その信仰は死んだも同然です。

Observation(観察)

信仰は、行いが伴わなければ何の役にも立たないとこの箇所は言っている。実際に困っている人に助けの手を述べられなかったり、善良な顔で過ごしていても心の中が他人への悪意や敵対心でいっぱいで、そのような言葉を陰で言い続けているのなら、信仰を持っていると言ったとしても、自分に言い聞かせたとしても、そこには信仰はない。

Application(適用)

2章20節には「みことばを実行しなければ、信じることなどむなしいことを、いつになったら悟るのですか。行いを伴って初めて本物と言えるのです。」ともある。また、3章2節には「2 また、ことばを制御できる人は、すべての点で自分を完全に制することができる人です。」ともある。

信仰と発する言葉と行いは3つでワンセットだと気付かされた。

言葉を変えるなら、行動も変えることができる。

信仰があれば、言葉を変えることができる。

行いがあれば、信仰をさらに確信を持って信じることができる。

まず言葉を変えてゆこう。自分の中に善意とみことばを実行する力が与えられていることを信じ告白しよう。困っている人を助けられる、ケアできる自分になろう。

Prayer(祈り)

イエス様、言葉だけの信仰者になっていたことを思います。教会に通いながらも、心の中は自分のことばかりであったことを悔い改めます。信仰によって心と言葉を変え、行動を変えます。イエス様のなさった道についてゆきます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

後にあるものを目指して

Scripture(聖書の言葉)

12 このように、数えきれないほどの多くの証人たちが、競技場の観覧席で私たちを見つめているのです。だから、うしろへ引き戻そうとする力や、まとわりつく罪をふり捨てて、神の用意された競走を忍耐をもって走り抜こうではありませんか。 2 あなたがたの信仰の指導者であり教師であるイエスから、目を離さないようにしなさい。イエスは後にある喜びを知って、恥辱をものともせず十字架にかかられました。そして今は、神の王座の右に座しておられるのです。 3 罪人たちの恐ろしい反抗を忍ばれたイエスのことを、いつも思っていなさい。あなたがたが気力を失い、弱り果てることがないためです。 4 あなたがたは罪や誘惑と戦っています。けれどもまだ、血を流すほどのきびしい戦いを経験したことはありません。

Observation(観察)

「イエスは後にある喜びを知って、恥辱をものともせず十字架にかかられました。」とある。十字架にかかる前、イエス様は唾を吐きかけられ、頬を打たれ、衣類を剥がされた。神の子が人に辱められた。時にイエスに従うことは、痛みを伴う、世間的には恥をかく様な時があるかもしれない。時勢によっては、クリスチャンであることを公言するだけで嘲笑と迫害の対象になることもある。昨今の異端問題や教会の不祥事、米国の特定のキリスト教勢力の行動など、今の日本でもクリスチャンと言いにくい空気が流れ始めている様に思う。

Application(適用)

しかし、「あなたがたの信仰の指導者であり教師であるイエスから、目を離さないようにしなさい」とあるように、イエス様自身が、後にあるものを目指して、まず先に恥辱をものともせず十字架にかかられたのだから、そこから目を離さず、イエス様に従う苦しみが如何なるものであっても、後にある喜びを知って、従って、ついてゆこうと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、ただあなたについて行くことですら、困難を覚える時があります。けれども、あなたは良い羊飼いですから、あなたについて行く羊でありたいと願います。辛いところも通りますが、後にあるものを見て喜びます。それがなんであるのか、どんな素晴らしいものか、どうか教えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン

救いと希望は至聖所にある

Scripture(聖書の言葉)

21 また、このキリストという偉大な大祭司が神の家を支配しておられるのですから、 22 私たちは、まちがいなく受け入れられるという確信と真実な心をもって、神の御前にまっすぐ進み出ようではありませんか。すでに、私たちの心はキリストの血を注がれてきよめられ、体はきよい水で洗われているのです。 23 いま私たちは、神が約束してくださった救いを、希望をもって待ち望むことができ、救いが確実であることを疑いなく語ることができます。神のことばは必ず実現します。

Observation(観察)

 「22 私たちは、まちがいなく受け入れられるという確信と真実な心をもって、神の御前にまっすぐ進み出ようではありませんか。」罪を自覚した後に来るのは本当に神は受け入れてくれるのかという、恐れである。しかし、イエス様の血によってきよめられた神の至聖所にまっすぐ向かって良いとパウロは言っている。そして「神が約束してくださった救いを、希望をもって待ち望むことができ」とある。

Application(適用)

救いとは現状の問題解決であろうか、それとも永遠の魂であろうか。まず待ち望むべきは後者である。しかし後者と前者が分断されているのではない。罪の問題が解決されるのであれば、その実である現状の課題にも神が関与してくださることを信じたい。しかし、順番を決して間違えてはいけない。望んていることを現実のものとして信じること、それが信仰であるとパウロはのちの章でたくさんの例を持って説明している。

Prayer(祈り)

イエス様、救いを待ち望みます。永遠の命を求めます。イエス様が至聖所に一度血を注ぎ、天幕を割いてくださったから、私たちはそこに来ることができます。「間違いなく受け入れられる」とパウロが言っています。この様なものでも受け入れてくださるのであれば、本当にありがたいことです。そして、信仰によって、大胆に求めます。今の経済の問題に神様が関わって、解決してくださいますように。

イエス様のお名前によって、心から期待してお祈りします。アーメン

私は救われなければならない ヘブル5:18

Scripture(聖書の言葉)

18 神は、約束と誓いの両方を与えてくださいました。神は偽りを言われることがありません。そのため、救いを求めて神のもとに逃れて来る人たちは、確かな保証をいただいて、新たな勇気を奮い起こすことができます。そして、神の救いの約束を、少しの疑いもなく確信できるのです。 19 自分は必ず救われるという確かな望みは、私たちのたましいにとって、信頼できる不動の錨です。

Observation(観察)

「救いを求めて神のもとに逃れて来る人たちは、確かな保証をいただいて、新たな勇気を奮い起こすことができます。」とある。今日私は大きな罪の悔い改めをし、何度目かは分からないが人生のやり直しをしようと決断した。今、まさに神に救いを求めて逃れてきたところである。新たな勇気を奮い起こすことができる、という聖書の約束があることに今まで気づかなかった。

Application(適用)

富も貧しさも経験し、病も弱さも通され、ようやく不信仰な自分に気づいた私だ。言葉遊びではないが、結局救い以外に救いはないのだ。24時間365日救いにすがる思いがなくてはすぐにでも転落してしまうことが身に染みて分かった。今しも絶望に転落しそうな心持ちであるが、「確かな保証」が与えられ「新たな勇気」を持ち直すことが約束であるのだから、それを信じようと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたの救い以外に頼るものは何一つないことが身に染みてわかりました。何度も同じ失敗を繰り返す私ですが、もう一度あなたに身を避けます。聖書の約束通り確かな保証を頂けることを信じます。新たな勇気を持ち直せることを信じます。今、応えてください。イエス様のお名前で求めて、お祈りします。