聖霊様の働き(使徒2:2-6)

Scripture(聖書の言葉)

2 さて、イエスの死と復活から、七週間が過ぎました。五旬節(ユダヤ教の祭りの一つ)の日のことです。信者たちが一堂に集まっていると、 2 突然、天からものすごい音がしました。まるで、激しい風が吹きつけるような音です。それが、家全体にごうごうと響き渡ったのです。 3 そして、めらめら燃える炎の舌のようなものが現れ、みなの頭上にとどまりました。 4 するとどうでしょう。その場にいた人たちは、みな聖霊に満たされ、知りもしない外国語で話し始めたではありませんか。聖霊が、それだけの力を与えてくださったのです。

5 その日エルサレムには、たくさんの敬虔なユダヤ人が、祭りのために、世界のあちこちから集まっていました。 6 この大音響に、人々はいったい何事かと駆けつけましたが、弟子たちの話していることばを聞いて、すっかり面食らってしまいました。まぎれもなく自分たちの国のことばだったからです。

Observation(観察)

ペンテコステの日、集まっている弟子達の所に炎の舌が下った。「その場にいた人たちは、みな聖霊に満たされ、知りもしない外国語で話し始めたではありませんか。聖霊が、それだけの力を与えてくださったのです。」とある。

聖霊様の働きについては諸派によって全く扱いが違っている。が、わたしは、個人的に聖霊様を体験し、異言で祈ることを覚え、また、日本語を全く分からない人から、異言で日本語での言葉を聞いた経験から、この聖書の箇所を否定することは出来ない。

他国の言葉で語る、という現象は、福音を全世界に持って行くということの現れだ。すなわち、聖霊様の登場によって、キリスト教の舞台は、ユダヤの一地域から全世界に拡大することになる。

Application(適用)

聖霊様を体験することは、今の私を支えている大きな柱だ。いのりのことばを導き、御言葉を示し、どん底に落ちたときに再び立ち上がる力を与えて下さったのは聖霊様に他ならない。苦しい状況に合っても私は一人では無い。もう一度立ち上がろう。

Prayer(祈り)

イエス様、聖霊様を約束どおり送って下さって感謝します。今も望みをもって信仰を守れているのは、聖霊様の働きに他なりません。今、苦しいところを通っていますが、私の心を新しくして、立ち上がることが出来るようにして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊のバプテスマを思い出す(使徒1:4-7)

Scripture(聖書の言葉)

4 そんなある時のことです。イエスは使徒たちに、こうお命じになりました。「エルサレムから離れてはいけません。前にも言ったように、父が約束を果たしてくださるまで、待っていなさい。 5 バプテスマのヨハネは水でバプテスマ(洗礼)を授けましたが、もうすぐ、あなたがたは聖霊によるバプテスマを受けるからです。」

6 そこで、またイエスが姿を現された時、使徒たちは心躍らせながら、「主よ。今こそイスラエルを解放し、独立国として再興なさるのですか」と尋ねました。

7 「それがいつかは、父がお決めになります。あなたがたが、あれこれ言うことはできません。 8 しかし、聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは大きな力を受け、エルサレムからユダヤ全土、そしてサマリヤから地の果てまで、わたしの死と復活を伝える証人となります。」

Observation(観察)

イエス様が昇天なさる前、聖霊によるバプテスマについて言及される。「もう一人の助け主」(ヨハネ14:16)として聖霊様による満たしを受ける、ということだ。私たちの受けた洗礼を思い出してみよう。全身をくまなく水に沈め、新しい人生の始まりを記念した。同様に頭の先から足先まで、聖霊様が満たして新しい人として生かして下さると聖書は言っている。

そればかりではない、「エルサレムからユダヤ全土、そしてサマリヤから地の果てまで、わたしの死と復活を伝える証人となります。」とも言われた。聖霊様の力はイエス様を証する力なのだ。もしも聖霊を受けたと主張していながらイエス様を証するのを拒んでいるなら、そこには何らかの欺瞞が有る。もしもまだ力が無いと感じるなら、イエス様に求めよう。イエス様は必ず求めに応じて、聖霊様を注いで、明確に体験として、私たちがバプタイズされたことを理解させて下さる。

Prayer(祈り)

イエス様、聖霊様が注がれた日のことは忘れたことがありません。この日からイエス様を証ししたいという気持ちで生きてきました。この気持ちがぼやけることが決してありませんように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の働きをする為に(出エジプト記4:11-12)

Scripture(聖書の言葉)

11 「人間の口を造ったのはだれか。神であるわたしではないか。人が話せたり話せなかったり、目が見えたり見えなかったり、耳が聞こえたり聞こえなかったりするのは、だれの力によることか。 12 さあ、ぐずぐず言わず、わたしの言うとおりにしなさい。はっきり話せるように助け、何を話すかも教えよう。」

Observation(観察)

燃える柴の所でエジプトからイスラエル人を救い出す召命を受けたモーセであったが、くちべたであることを理由に断ろうとする。神はこの聖書の箇所のように、人間の能力を強めることも弱めることも神にはお出来になることを告げ、モーセを励ます。

(それでもモーセは譲らず、代わりに兄アロンを代弁者としてもらうようにする)

Application(適用)

私たちが神にあれをしなさい、と明確に示されるとき、自分の実力が明らかに足りないときがある。出来ません、と断ってしまうことも過去にはあった様に思う。

しかし、いまは、多少時間がかかっても、実力が足りない課題でも、まずは分かりました、と答えるようにしている。肯定的な答えから道が拓かれ、必要なリソースが集まることを経験的に知っているからだ。

神は丸投げの神では無い。せよと言ったことにはそれが出来る根拠があり、助けの用意が必ずある。それを信じて神の働きを共に喜ぶか、退いて指をくわえて眺めるか、それは私たちの選択だ。わたしはいつも「はい、やります」と答えたい。

Prayer(祈り)

イエス様、このときのモーセはもう80歳であったと聞いています。心も体もこわばっていたかもしれません。私も若くは無いですが、神様の呼びかけには応えられる様に自分を整えたいです。心身の健康を求めます。病の中に放っておかないで下さい。私はまだ役に立てるものです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

水から引き出される(出エジプト記2:10)

Scripture(聖書の言葉)

10 やがてその子は大きくなり、養子として正式に王女の屋敷へ引き取られました。王女はその子をモーセ〔「引き出す」の意〕と名づけました。水の中から引き出した子だったからです。

Observation(観察)

ゴシェンの地に移り住んだイスラエルは何世代かを経て、巨大な民族になっていた。それを恐れた後代の王は、イスラエル人の男子を川に投げ入れ殺すように命じる。しかし、モーセは瀝青で防水された葦の船で流される。それは不思議な巡り合わせでエジプトの王女の目にとまり、モーセ(水の中から引き上げる)と名付けられ、生母を乳母として雇うこととなる。

水の中から引き出す、決定づけられていた死から生が与えられることを意味する。バプテスマのヨハネも、イエス様も、過去の自分に死んで新しく生きることを教えられた。モーセの時から、この原則は予表されていたのだ。

Application(適用)

モーセの人生は奇跡と困難の連続ではあったが、神の与えられた働きを誠実に行った人生であった。私も今一度過去に死んで、昨日の失敗は横に置いて、今日新しい一日を誠実に生きようと思う

Prayer(祈り)

イエス様、過去を捨て、新しい日を精一杯、誠実に生きようと思います。あちこちに罠や落とし穴があって、いつも失敗しますが、注意深く行動とことばを選んで参ります。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖書を曲解しないために(ルカ20:37-38)

Scripture(聖書の言葉)

37-38 しかし、あなたがたがほんとうに聞きたいのは、復活があるかないかということでしょう。モーセ自身は何と書き残していますか。燃えさかる柴の中に現れた神とお会いした時、モーセは神を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』(出エジプト3・6)と呼びました。主を彼らの神と呼んでいる以上、彼らは生きているはずです。神は死んだ者の神ではありません。神に対して、みなが生きているのです。」

Observation(観察)

復活は無いと考えているサドカイ人がイエス様に無理難題を押しつける所の場面だ。サドカイ派に関する情報は歴史にほとんど残っていない。彼らが「復活は無い」と考えるに至った経緯も不明である。ただ彼らは神殿に仕える祭司のグループであったことは確かだ。そのような彼らが聖書をどのように読み間違えて復活を否定する教義を持ってしまったのかは分からない。

Application(適用)

重要なのは、聖書を曲解させ誤った結論に向かわせるバイアスは私たちの内面にもあることを忘れてはいけない。そうならないためには、日々聖書を開き、聖霊様によって思いを正しくされる事だ。またメンターのアドバイスもとても重要だ。

イエス様は「神に対して、みなが生きているのです。」これまでの全ての死者にとっても、今生きている人、これから生まれてくる子供達にとっても、神は神なのだ。神の教えを理解し、神から与えられた命を生きよう。

Prayer(祈り)

イエス様、みことばをそのまま受け止め、聖霊様によって理解を与えられるよう、まっすぐな心を私に下さい。「こう解釈した方が〜」という誘惑はいつも来ます。しかしあくまでみことばにとどまって恵みを受け取りたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ロバの子という特異点(ルカ19:30-35)

Scripture(聖書の言葉)

30 「さあ、あの村へ行って、道ばたにつないであるろばの子を捜しなさい。まだだれも乗ったことのないろばの子です。見つけたら、綱をほどいて連れて来るのです。 31 もしだれかにとがめられたら、『主がお入用なのです』とだけ答えなさい。」 32 二人は、言われたとおりろばの子を見つけました。 33 綱をほどいていると、持ち主が来て、「何をしているのだ。おれたちのろばの子をどうしようというのだ」と聞きただしました。 34 弟子たちは、「主がお入用なのです」と答え、 35 ろばの子を連れて来ました。

Observation(観察)

日曜学校で良く題材になる箇所である。イエス様は弟子にロバの子を探すように命じる。だれも乗ったことの無いロバの子だ。この時点では名の用途に使うかも説明されていない。言われたのは「だれかにとがめられたら、『主がお入用なのです』とだけ答えなさい。」」と言うことだ。どうにも理屈の通らない指示だが、弟子達は従った。すると、ロバの子を発見し、持ち主に予定通りとがめられ、「主がお入用なのです」と答えだ。なぜかその後は議論も騒ぎも無く、持ち主はロバの子を提供した。

Application(適用)

神の計画のなかでは、チェックポイントのようにどうしてもここを通過しなくてはならない、という箇所があるような気がしている。ここではロバの子を得ることである。これはゼカリア9:9で「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」という預言が実現するためだ。

弟子達はなんだか分からなくても従った。イエス様はロバを強奪してこいと言われたのでは無く、持ち主に説明する内容も指示している、いささか奇妙な内容だが持ち主も納得している。歴史の力が彼を納得させたのでしょうか?

わたしも歴史の必然の場に居て、神の働きが進む瞬間を見届けたい。できればイエス様の働きを進める側に立って。

Prayer(祈り)

イエス様、人間の目と脳では図れない不思議な業をあなたはなさいます、今世界で起きていることは私には何も分かりません、論評することも恐ろしくて出来ません。ただ主のみ旨がなりますようにと願うばかりです。ずっと後になって、あそこが歴史の分岐点だった、あそこに私が居た、と気づけるように理解力を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の国に入る(ルカ18:24-30)

Scripture(聖書の言葉)

「金持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことでしょう。 25 それよりは、らくだが針の穴を通るほうが、よほどやさしいのです。」 26 これには弟子たちも驚き、思わずことばを返しました。「そんなにむずかしいのですか。だとしたら、救われる人などいるでしょうか。」 27 「人にはできません。だが、神にはできるのです。」 28 すかさずペテロが口をはさみました。「私たちは家も捨てて、お従いしました。」 29 「そうです。あなたがたのように、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者はだれでも、 30 この世ではその何倍もの報いを受け、やがて来る世では、永遠のいのちまでいただけるのです。」

Observation(観察)

「全財産を施した後、弟子としてついて来なさい」と言われた金持ちのパリサイ人は、がっかりして帰って行った。救いというものを人間側の努力で勝ち取ることの難しさをイエス様は「金持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことでしょう。 25 それよりは、らくだが針の穴を通るほうが、よほどやさしいのです。」と表現されている。一方で、「人にはできません。だが、神にはできるのです。」とも言われている。

救いは100%神のあわれみによるものだ。(人間の目線で)正しいことをしたから救いを受けるというものでは無い。

救いは人間の力で行き着けるところでは無い、という認識にたどり着かずに、謙遜になって神に恵みを求めることは出来ない。冒頭の金持ちも、私には出来ません、救って下さい。と答えれば、イエス様は、彼を弟子に加え、救いについて詳しく教えて下さったのかもしれない。

Application(適用)

逆に私は救いを受け入れてから、人間的な不足と弱さに打ちのめされることが多い。「こんなに駄目なのに見放されないことはなぜだろう」と真剣に考えた事がある。

答えは、これがイエス様からの一方的な「契約」だからだ。自分の状況の如何を問わず、救いは与えられ続けている。私たちは対価を払わず、膨大な神の祝福を受け続けているのだ、これは、大変なことだ。私たちがお返しできることは何も無い。私たちが出来ることはただ感謝と賛美のみなのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、昔、貧乏で何もかも失ったときにイエス様を信じました。今も金持ちではありませんが、当時の気持ちに戻って、謙遜な心で今日もあなたのところに行きます。恵みを喜んで感謝し賛美します。今日もあなたと過ごさせて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の国の領地を拡大する(ルカ17:20-21)

Scripture(聖書の言葉)

20 ある日、パリサイ人たちがイエスに尋ねました。「神の国はいったい、いつ来るのですか。」イエスは答えて言われました。「神の国は、目に見える形では来ません。 21 『ここに来た』とか、『あそこに来た』とか言えるものではないのです。はっきり言いましょう。神の国は、あなたがたの中にあるのです。」

Observation(観察)

イエス様は神の国の到来について何度も話されている。ユダヤの人々はそれをローマ支配からの独立ととらえたり、新しい王制の勃興を期待していたようだ。

けれどもイエス様は、神の国は私たちの中にある、と言われている。いつ来る、とかどのように来る、という観点でとらえるべきものでは無く、「すでにこられているものを再発見する」のだと言われているのだ。

神から離れている人であっても、「創造主である神」という概念が残っているなら「霊の残り(マラキ2章)」が未だ神を求めているのだ。

ましてイエス様を信じ受け入れたものであるなら、私たちの内面の主体をイエス様に明け渡したいと願う。イエス様を王とした神の国は、私たちの内にすでにあり、私たちの人間的属性、原罪に対峙している。しかし私たちが自分を明け渡し、歓迎するならば、私たちは神の国の民となる。

Application(適用)

イエス様が自分の代わりに生きて下さい、と何度も叫んで願った事がある、それは大概自分で抱えきれない失敗をしたときだ、明け渡すと言うより丸投げに近い。逆に成功しているときは、明け渡す、という概念がピンとこなくなる、それほどに自我が肥大してしまうのだ。

中庸な今こそ、イエス様を中心にした生き方を実践しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたの喜ばれる生き方を選びたいです。緊急事態の時では無くても、あなたに頼りあなたを喜ぶものになりたいです。足ることを知り、平安を保ち、助けあうひとになりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

御言葉に聞く(ルカ16:27-31)

Scripture(聖書の言葉)

27 金持ちは言いました。『ああ、アブラハム様。それならせめて、ラザロを私の父の家にやってください。 28 まだ五人の兄弟が残っているのです。彼らだけは、こんな目に会わせたくありません。どうぞ、この恐ろしい苦しみの場所があることを教えてやってください。』 29 『それは聖書が教えていることではないか。その言うことを聞くべきです。』 30 金持ちはあきらめません。『でも、アブラハム様。彼らは聖書を読みたがらないのです。ですが、もしだれかが死人の中から遣わされたら、彼らも罪深い生活を悔い改めるに違いありません。』 31 アブラハムはきっぱり言いました。『モーセと預言者たちのことばに耳を貸さないのなら、だれかが生き返って話したところで、彼らは聞き入れないだろう。』」

Observation(観察)

神を敬わず、死後地獄に行った金持ちは、天国にいるアブラハムに懇願する。金持ちの五人の兄弟達に、地獄があること、としてこんなところに来ないように罪深い生活をやめるように伝えてほしいということだ。

しかしアブラハムは『それは聖書が教えていることではないか。その言うことを聞くべきです。』 と断る。金持ちは『もしだれかが死人の中から遣わされたら、彼らも罪深い生活を悔い改めるに違いありません。』と食い下がっている。

最終的にアブラハムは『モーセと預言者たちのことばに耳を貸さないのなら、だれかが生き返って話したところで、彼らは聞き入れないだろう。』と答えている。これはイエス様の復活を指している。実際にイエス様の復活を見ても神を信じない者は大勢居た。現代でもイエス様の誕生や復活を多くの人は喜んで祝うが、イエス様に従おうとする人は本当に少ない。

Application(適用)

神の正しさと生きるべき指針は、聖書の中に明らかに示されている。その中でもイエス様の死と復活についてが中心的なテーマだ。グーテンベルグの発明以来、創造を絶する量の聖書が印刷され世界中に届けられている。にもかかわらず敬虔に生きようとする者の数は少ない。

アブラハムの言う、「モーセと預言者に耳を貸す」とは、実際に聖書を開いて、神の言葉として心に届ける、という意味だ。ただ持っていたり、気まぐれにあちこちページを開くだけでは神の言葉は届かない。

もしも裁判所から一冊の本が届いて、「これを一年間きちんと読まなければ無期懲役で投獄されます」と言われたらどうだろう。一字一句落とさず必死に読むのでは無いだろうか。もちろん神はそのような条件を出すことはされないが、自分の魂の糧をないがしろにする事は避けたい。

もしも神を信じている、というのであれば、神の言葉に誠実に向き合いたいのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、御言葉を読んでいます。けれどあなたの語られる事をより深く知りたいです。聖霊様、助けて下さい。聖書全体を通して語られるテーマと箇々の節が私の中で有機的につながりますように、生きておられる神の言葉が私の中で生きる者となって働いて下さいますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

見付けられた者(ルカ15:8-10)

Scripture(聖書の言葉)

8 別のたとえで話してみましょう。女が銀貨を十枚持っていて、もし一枚なくしてしまったら、女はランプをつけ、家の中をすみからすみまで掃除して、その一枚を見つけるまで、必死で捜し回るでしょう。 9 そして見つけ出したら、友達や近所の人を呼び、いっしょに喜んでもらうでしょう。 10 同じように、一人の罪人が罪を悔いて神のもとに帰った時、天使たちはたいへんな喜びにわくのです。」

Observation(観察)

イエス様が取税人や罪人達と食事をすることをパリサイ人達に批判されたイエス様は、失ったと思われる物が戻ってくることを例えに話をされた。100匹の内の一匹の羊、10枚の銀貨の内の一枚、そして有名な放蕩息子の例えだ。

大事にしている人や物を失ってしまうことはとても辛く悲しいものだ。いつ見つかるのか、果たして帰ってくるのか、どのように暮らしているのか、想像するだけ悲しくなる。ヨセフを失った(死んだと思った)ヤコブは何週間も慰めを拒んで食事もとらず嘆き悲しんだとある。

Application(適用)

私たちも失う側に立つときがある。家族を失ったときの喪失感は本当に耐えがたい。不完全な私のような人間ですらそうなのだから、父なる神がイエス様を十字架に付けたときの悲しみはどれほどであっただろうか。

また私たちは見つける側になることもある。先日家内がお気に入りの眼鏡を無くし、一ヶ月以上、家中を探し悲しんでいた。しかしふとした時に、突然出現したかのように無くなったはずの眼鏡が見つかった。このときの家内の喜びようはすごかった。

イエス様が失われていた私たちを再発見されたときは、どれほど喜ばれたことだろう。

イエス様に喜ばれているものであることを忘れないようにしよう。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたに立ち返ったとき、あなたは「死んだものとあきらめていた息子が生き返り、行方の知れなかった息子が帰って来たのだから。」と喜んで下さいました。放蕩息子が父の家に帰り住んだ様に、私もあなたのところにずっと住まわして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。