この方はほんとうに神の子だった(マルコ15:38-39)

Scripture(聖書の言葉)

38 するとどうでしょう。神殿の幕が、上から下まで真っ二つに裂けたのです。 39 十字架のそばに立っていたローマ軍の士官は、イエスの死の有様を見て、「この方はほんとうに神の子だった」と言いました。

Observation(観察)

イエス様は十字架につけられ、亡くなった。その瞬間には神殿の幕が裂けたとも、大きな地震があったとも伝えられている。ここにローマ軍の士官(百人隊長)がおり、「この方はほんとうに神の子だった」と述べたと書かれている。ローマの士官として、エルサレルムの敬語にあたる役職であるから、町中の噂はいやでも耳に入ってくるだろう。当然イエス様にかかわる良い噂も悪い噂も、殺害の計画も聞かされていたであろう。

彼は生前にはイエス様の交流はなかったかもしれない。しかし、彼の死に様を通して「この方はほんとうに神の子だった」と自分の実感をこめて語ることが出来た。もしかするとイエス様が最後に伝道されたのは彼かもしれない。

Application(適用)

イエス様について聞くことや映画をみることは現代でもよく在ることかもしれない(最近教会関係の映画が多い)ここではイエス様がどんな方だったのか、知ることが出来る。しかし、実際にイエス様にお会いしないと分からないこと、感じえないことが確かにある。

わたしは教会に行くことや聖書を読むことでイエス様に会える、と言っているのではない。

あなたが望むならば、定められた場所、時間にかならずイエス様との出会いがある。それは物理的ではないかもしれないし、麗しいシチュエーションではないかもしれない。しかし、確実に存在するものとしてイエス様を認知する時が来る、どうかその時はイエス様をご自身の紙として受け入れてほしい。

Prayer(祈り)

イエス様、百人隊長はあなたを神の子として告白しました。あなたと出会ったとき、あなたのことが分かったのです。私たちも心を開いて、イエス様が来られたときにあなたですとはっきりわかるようにしてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

信仰の挫折(マルコ14:66-72)

Scripture(聖書の言葉)

66 一方ペテロは、下の中庭にいました。大祭司の女中の一人が、 67 火にあたっているペテロに気づき、じっと見つめて言いました。「あら、あんた。あのナザレ人イエスといっしょにいた人じゃないの?」 68 ペテロはそのことばを打ち消し、「変な言いがかりはよしてくれ」と言って、出口のほうへ行きかけました。その時、鶏が鳴きました。

69 すると女中は、またもペテロをしげしげと見て、そばに立っている人たちに、「ほら、あの人。あの人はイエスの弟子よ」と言いふらしました。 70 ペテロはあわててそれを打ち消しました。しばらくすると、火のそばに立っていたほかの男たちも、「おまえは確かにイエスの仲間だ。ガリラヤ人だからな」と騒ぎだしました。 71 ペテロは、「そんな男のことなど知らない。これがうそだったら、どんな罰があたってもかまわない」と叫びました。

72 するとすぐ、鶏が二度目に鳴くのが聞こえました。その瞬間ペテロは、「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないと言います」という、イエスのことばを思い出したのです。ペテロは激しく泣きくずれました。

Observation(観察)

イエス様が査問を受けている間、ペテロは神殿の中庭にいた。ここでペテロはイエス様が言われたとおり鶏が二度鳴くまでに三度イエス様を否む、という言葉の通りにイエス様を否定する。

Application(適用)

命をも投げ出すと言ってはばからなかったペテロはなぜイエス様の弟子であることを証ししなかったのだろうか。彼はイエスさまをメシアであると告白したが、同時にこの世でも王であることを期待したのだろうか。王であるはずのイエス様が捕縛され裁判にかけられていることが彼の恐れを増幅したのかもしれない。

一方、彼の挫折は挫折だけでは終わらない。彼の見せた人間的な弱さは後世に信仰の挫折を経験した沢山の人を励ました。骨折した後の接合した骨はより頑丈になると聞いたことがある。私たちも沢山の挫折と痛みを経験して生きてきた。その分強くなって、人々を励ますものになれると信じたい。

Prayer(祈り)

イエス様、何度も信仰の挫折を経験してきました。都度立ち上がらせてくださり感謝します。ますます肉は弱くなりますが、あなたの支えはますます強くなることを覚えます。いつかの世の、誰かの励ましになれればと、この挫折も痛みも感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

再臨(マルコ13:32-37)

Scripture(聖書の言葉)

32 しかしだれも、天の使いも、わたし自身でさえも、その日、その時がいつかは知りません。ただ、父なる神だけが知っておられます。 33 だから、いつ終わりが来ても困らないように、わたしの帰りを目を覚まして待っていなさい。

34 こう言えば、もっとはっきりわかるでしょう。ちょうど、外国旅行に出かける人が、使用人たちに留守中の仕事の手配をし、門番には、主人の帰りを見張っているようにと命じて出かけるのと同じです。 35 だから、しっかり目を覚ましていなさい。いつわたしが帰って来るか、夕方か、夜中か、明け方か、それともすっかり明るくなってからか、わからないのですから。 36 不意をつかれて、居眠りしているところを見られないようにしなさい。 37 あなたがただけでなく、すべての人にも念を押しておきます。わたしの帰りを、抜かりなく見張っていなさい。」

Observation(観察)

イエス様の再臨について、イエス様ご自身もそれがいつになるのかわからない、父なる神だけがそれをご存じだと言われている。

だからといって再臨までイエス様の教えを実践せず、神を愛せず、人も愛せず、だただらと怠惰に過ごして良いだろか?イエス様は「しっかり目を覚ましていなさい。 36 不意をつかれて、居眠りしているところを見られないようにしなさい。 」と言われている。また、とくにこの箇所では、弟子達にだけで無く読者に対しても「すべての人にも念を押しておきます。わたしの帰りを、抜かりなく見張っていなさい。」と警告している。

Application(適用)

かつて色々な国で(日本でも)再臨運動があった。いついつにイエス様が来るから備えよう、というものだ。人々は慌てて財産を処分し、仕事を辞め、屋根に上っていつイエス様が来るかを見上げ続けた。結果はご存じの通りである。イエス様が私たちに求めたのは、日々の生活をイエス様に忠実に生きる、と言うことであって、狂騒的に再臨を望むことでは無かった。今この瞬間をイエス様に恥ずかしくないように生きているか、そのことを自省しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、早く来て下さいという気持ちもありますが、それ以上に自分の心を見張るという命令に忠実でありたいです。誠実と真実のなかに、イエス様の属性があり、それを受け取りたく思います。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

宮きよめ(マルコ11:15-17)

Scripture(聖書の言葉)

15 エルサレムに着くと、イエスは宮に入り、境内で商売をしていた者たちを追い出しにかかって、両替人の机や、鳩を売っていた者たちの台をひっくり返されました。 16 また、いろいろな荷物を持って境内を通り抜けることも、お許しになりませんでした。

17 そういう人たちに、イエスは、このように言われました。「聖書には、『わたしの家は、世界中の人たちの祈りの場所と呼ばれる』(イザヤ56・7)と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはここを強盗の巣にしてしまったのです。」

Observation(観察)

有名な宮きよめのシーンだ。同時の宮殿の入り口付近は礼拝に献げるものを買うための場所にもなっていた。いまば罪のための献げ物をコンビニ感覚で買っていたのかもしれない。そのような献げ物には何の真心も悔い改めも存在しない。

イエス様は商売しているという行為そのものばかりでは無く、形式化された献げ物にたいしての怒りで有ったのでは無いだろうか。

Prayer(祈り)

イエス様、私の内にも形骸化してしまって心の伴わない教えや戒めが在るかもしれません。真剣にその意味を考えるものになりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

離婚(マルコ10:2-8)

Scripture(聖書の言葉)

2 そこへ何人かのパリサイ人たちが来て、イエスに、「あなたは離婚をお認めになりますか」と尋ねました。もちろん、これはわなでした。

3 「モーセは、離婚について何と言いましたか。」反対に、イエスがお尋ねになりました。

4 「離婚してもさしつかえないと言いました。ただその時は、男が女に離縁状を書くのが決まりですが。」

5 「なぜモーセはそう言ったのか、考えてみなさい。あなたがたの心が邪悪で強情だったから、しかたなく認めたのです。 6-7 離婚は神の意思に反します。神は創造の初めから、人を男と女とに造られたのです。ですから、人は両親から離れて、 8 妻と一体となるのです。もはや二人ではなく一人なのです。 9 神が一つにしてくださったものを、だれも引き離してはなりません。」

Observation(観察)

イエス様は結婚は単に男女の関係を意味するのでは無く、「人は両親から離れて、 8 妻と一体となるのです。もはや二人ではなく一人なのです。」と教えられた。結婚は肉的なものばかりでは無く、霊的な結合なのだ、それは日常生活の一致ばかりでは無く、物事の捉えかたの相互理解、霊的一致に至る。そのように結びつかれた人々を、法律が許すからと言って引き剥がすのはその人の人生をボロボロにしてしまう、

Application(適用)

僕は離婚家庭にそだった。片親故に十分な愛情を感じずに成長し、いまでも人格のどこかに足りないものを感じている。母自身も悲しみをずっと抱えて生きていた。かといって神の介入なしではこの離散は食い止められなかった、と思う。そうで無ければ一家心中の二者択一であっった。この時イエス様に頼ることが出来れば、と思うと悔しくて仕方が無い。おなじような悲しみを繰り返さないためにも、少しでも機会を用いてイエス様を紹介しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、昔のことを思うと苦しくなります。癒やしてください。おなじ苦しみに遭う人がすこしでも少なくなりますように。あなたのあわれみを求めます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

だれにでも仕える人(マルコ9:33-37)

Scripture(聖書の言葉)

33 カペナウムに着き、泊まることになっていた家に入ってしばらくすると、イエスは弟子たちに、「ここへ来る途中、何を言い合っていたのですか」とお尋ねになりました。

34 弟子たちは顔を真っ赤にして、うつむいてしまいました。実は、自分たちの中でだれが一番偉いかと言い合っていたからです。

35 イエスは腰をおろし、弟子たちを回りに呼び寄せると、「だれでも一番偉くなりたい人は、一番小さい者となり、だれにでも仕える者となりなさい」と教えられました。 36 それから、小さな子どもを真ん中に立たせ、腕に抱いて言われました。 37 「見なさい。だれでもわたしの名のゆえに、このような小さい者をも受け入れる人は、わたしを受け入れているのです。そして、わたしを受け入れるなら、わたしを遣わされたわたしの父をも受け入れているのです。」

Observation(観察)

教会に沢山の人が集まるようになると、長く居る人、最近来た人、いろいろな奉仕をしている人、静かな人、若い人、年老いた人、様々な人がやって来る。こころの状態も様々だ。ご機嫌な人、落ち込んで居る人、満足している人、絶望している人。このような人の中で誰が一番偉いか?と聞かれたらどう答えるだろう。僕は間違った選択をしてしまいそうに感じる。イエス様の答えは、一番謙遜で人々に仕える人が一番偉い、と言うことだ。

今の時代、週の内で教会に居られる時間は限られている。せめてその時間だけでも互いに仕え合う関係を築きたい。

また気がつくと人間は自分が一番偉い、という心理が働く。理由は分からないが集団から退いて俯瞰すると、なにか自分が偉くなったような錯覚を持ちがちだ。もっと集まりに近づき交わろう。

Prayer(祈り)

イエス様、相変わらず上手に人と関われない私ですが、せめて高ぶることの無いように助けてください。少しでも人の助けになるような行動が出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

毎日きちんと献げる(民数記28:1-2)

Scripture(聖書の言葉)

28 1-2 主はまた、モーセに告げて言いました。「人々にこう伝えなさい。祭壇で焼いてささげるいけにえは、わたしの食物だから、毎日きちんと、わたしが教えたとおりにささげなさい。わたしはその香りによるささげ物を喜ぶ。

Observation(観察)

祭壇で献げられる献げ物は、特別なとき悔い改めや例祭の時ばかりでは無かった。毎日祭壇で献げるべき生け贄もきちんと決められていた。勿論イエス様が永遠の献げ物となってくださった故に、この生き物をささげることは不要となったが、私たちの心を献げる、という献げ物は変わることは無い。

Application(適用)

昨日は閏日で、各通読プランで2/29分の記述のないものも在るものも在り、大いに迷ったが聖書を読むことを止めてはならないと思い、3/1分の箇所で昨日と今日、二回デボーションをすることになった。どうであれ神の御言葉に触れ、黙想することが私には必要なのだ。願わくばこの献げ物を神様が喜んでくださるように。

Prayer(祈り)

イエス様、貴方は曆を問わず、居てくださるお方です。わたしはイエス様に真実を尽くしたいです。力も頭も足りないものですが御言葉だけは読み、貴方を思うことを続けます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

霊と肉(マルコ8:31-36)

Scripture(聖書の言葉)

“それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。”

マルコの福音書 8章31~36節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

ペテロはこの前の節で、イエス様がキリストである事を告白した。しかし、十字架の死と復活について語られたとたん、イエス様を諌め始めた。

ここでペテロは、イエス様の神性とミッションよりも、人としての、リーダーとしてのイエス様を心配したのだ。

Application(適用)

私たちは霊と肉で出来ている。肉である私は、時としてこの世の心配が先に立ってしまい、神の事を考えることが出来ないこともある。それでも、毎日少しずつ神の事を考える時間、領域を広めていけたらと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたは肉に過ぎない私を憐れみ、貴方を信じた霊の部分を尊いとしてくださいます。霊肉合わせての私です。不完全な存在です。でも、イエス様を優先したいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

賜物が尽きた後に(Ⅰコリント13:8-10)

Scripture(聖書の言葉)

8 神からいただいた賜物や能力は、いつかは尽きます。しかし、愛は永遠に続きます。預言すること、異言で語ること、知識などの賜物は、やがて消え去ります。 9 たとえ特別な賜物が与えられていても、いま私たちの知っていること、預言することは、ほんの一部にすぎません。 10 しかし、私たちが完全な存在とされる時、これら不完全な賜物は不要になり、消え去ってしまうのです。

Observation(観察)

御霊の賜物はいつか私たちが完全な存在とされるとき消え去る、とある。同様に、「8 神からいただいた賜物や能力は、いつかは尽きます。」とも書かれている。気力、体力、記憶力、それらですさ私たちは止めておくことは厳しい、若い頃に出来たことが出来なくなってきて、衰えや悲しさを感じることがしばしばだ。

ただ、神を知ることだけは違う。聖書を読み黙想すれば無限の神の知恵が心に注がれ、神の思いが私の思いに変わってゆく。「私たちが完全な存在とされる時」それがいつになるのかは分からない。ただこの道を進んでゆこう。

Application(適用)

逆説的になるが、20代からあれもこれもと奉仕してきたが、結局大きな身を結ぶことはできて居ない。事をなす中身が空っぽだった、という事なのだろう。今になって中身を埋めるように聖書を読んでいる。少しでもイエス様のお考えに近づきたい。

Prayer(祈り)

能力や賜物と感じていたものが小さくなって、私の心の中で、ようやくイエス様がクローズアップされてきました。これが神様の望まれた私のありようなのかは分かりません。ただ神様は賜物を喜ぶのでは無く、神と人を愛することを喜ばれることが分かりました。そのようなものに私を変えて下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

イエス様の話を聞く(マルコ6:1-6)

Scripture(聖書の言葉)

まもなくイエスはその地方を去り、弟子たちを連れて故郷の町ナザレに帰られました。 2-3 次の安息日に、イエスが会堂に出かけて話をされると、聴衆はその教えに驚きました。イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思っていたからです。

「あれのどこがおれたちと違うというんだ。ただの大工のせがれじゃないか。母親はマリヤだし、ヤコブやヨセやユダやシモンは兄弟だ。妹たちだって、われわれとこの町に住んでいるじゃないか。」こうして、町の人たちはイエスに背を向けました。 4 そこで、イエスは言われました。「預言者(神に託されたことばを語る人)はどこででも尊敬されます。ただ、自分の故郷、親族、家族の中ではそうではありません。」 5 そのため、わずかの病人に手を置いて治されただけで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができませんでした。 6 イエスは、ナザレの人たちの不信仰に驚かれました。

Observation(観察)

イエス様は宣教を始められた故郷のナザレに帰られた。会堂で説教をすると。「聴衆はその教えに驚きました。イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思っていたからです。」とある。かつての知り合いが、立派に神の教えを告げている姿に、理解しがたい思いを持ったのだろう。「町の人たちはイエスに背を向けました。」とある。彼らはイエス様のことを聞こうとしなかった。

Application(適用)

「あれのどこがおれたちと違うというんだ。ただの大工のせがれじゃないか。母親はマリヤだし、ヤコブやヨセやユダやシモンは兄弟だ。妹たちだって、われわれとこの町に住んでいるじゃないか。」神を神とするには、信仰が必要だ。ナザレの人々は、イエス様と真剣に向き合うことをせず、イエス様も力ある働きが出来なかった。

わたしたちはどうだろうか、イエス様を、良い教えを説いた人、の枠で片付けてしまっては居ないだろうか。生ける力ある神の子、として心の中心に居てくださることを怠っていないだろうか。イエス様の力ある技を人生を求めるなら、イエス様に聞こう、期待しよう

Prayer(祈り)

イエス様、貴方を中心にして生きたいと願うものですが、なかなかうまく行きません。我が強いもので、あなたに心の中心を明け渡すことを見失います。毎朝こころを新しくして、貴方を礼拝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。