聖霊を汚す罪(マルコ3:28-30)

Scripture(聖書の言葉)


28 これは大切なことですから、はっきり言います。人が犯す罪は、どんな罪でも赦してもらえます。たとえ、わたしの父を汚すことばでも。 29 しかし、聖霊を汚す罪だけは、決して赦されません。それは永遠の罪なのです。」 30 こう言われたのは、彼らが、イエスの奇跡を聖霊の力によるものだとは認めず、サタンの力によるのだと言っていたからです。

Observation(観察)


イエス様は聖霊様の力によって癒しと解放の奇跡を行われていた。これを悪魔の力によるものと言っていたユダヤ人教師に対して、イエス様は厳しい言葉で応答された。「聖霊を汚す罪だけは、決して赦されません。それは永遠の罪なのです。」私も十分に気をつけなければならない。聖霊様の働きの表れは多岐にわたり、人間の尺度では理解できないこともあるからだ。その働きの結果生まれる実によって判断しよう。

Prayer(祈り)


イエス様、聖霊様のことをもっと教えてください。世の中には偽物がはびこっているからです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

Solitude(マルコ1:32-37)

Scripture(聖書の言葉)


32 日の沈むころになると、シモンの家の庭は、イエスに治していただこうと連れて来られた病人や悪霊につかれた者たちで、いっぱいになりました。 33 また戸口には、カペナウム中の人たちが詰めかけ、がやがや騒ぎながら中の様子をながめていました。 34 イエスはこの時も多くの病人を治し、悪霊を追い出されました。しかも、悪霊にひとことも口をきかせませんでした。悪霊は、イエスがどういう方か知っていたからです。

35 翌朝、イエスは夜明け前に起き、ただひとり、人気のない所へ行って祈られました。 36 そのうちに、あちらこちらとイエスを捜し回っていたシモンたちが来て、 37 「みんなが先生を捜しています」と言いました。

Observation(観察)


イエス様がガリラヤで宣教を始められ、病人や悪霊につかれた人をいやされると、野次馬も含め多くの人々が集まるようになった。
「翌朝、イエスは夜明け前に起き、ただひとり、人気のない所へ行って祈られました。」とある。イエス様には神と二人だけ過ごす時間が必要だったのだ。神の御子であるイエス様でさえそのような時間を大事にしていたのだから、私にはなおさらそのような時間が必要だ。忙しい日々の生活の中でも、神様に向き合う時間を大事にしよう。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたに向き合う時間をおろそかにしがちです。赦してください。あなたから新しい思いと希望を日々頂いて過ごすことが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

変わらずに伝道する(使徒28:21-24)

Scripture(聖書の言葉)


21 ユダヤ人たちは答えました。「私たちは、あなたのことは何も聞いていません。ユダヤから手紙も来ていませんし、エルサレムから来た人たちからも、そのような報告は受けていません。 22 私たちは、あなたの信じていることを、あなたの口からお聞きしたいのです。クリスチャンについて知っていることと言えば、彼らが至る所で非難の的だということだけなのです。」

23 彼らはこうして日を決め、さらに大ぜいでパウロの家に来ました。パウロは彼らに神の国のことを語り、またモーセの律法から預言者の書に至るまで、聖書のありとあらゆる箇所を使って、イエスのことを教えました。彼の話は、朝から夕方まで続きました。

24 信じる人もいれば、信じない人もいました。

Observation(観察)


困難な旅の果てに、パウロはローマにたどり着いた。これまでの伝道と同様に、パウロはまずユダヤ人達に福音を語った。結果は信じる人もいれば、信じない人もいた。これもこれまでの伝道と変わらない。救いは全ての人に開かれているが、応える人は限られている。それでも福音を聞くことがなければ、信じることも信じないこともできない。私たちに求められているのは、結果について考えずただイエス様を証することなのだ。道が開かれ続けれる限り、福音を伝えよう。

Prayer(祈り)


イエス様、パウロをもってしても信じない人がいるのですから、私に至ってはどの程度伝えたことが響くのか分かりません。けれども結果に頓着するのは止めます。ただ機会を求めて祈ります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

福音に狂う(使徒26:19-24)

Scripture(聖書の言葉)


“こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、
ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。
そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。
このようにして、私は今日に至るまで神の助けを受けながら、堅く立って、小さい者にも大きい者にも証しをしています。そして、話してきたことは、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったことにほかなりません。
すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです。」
パウロがこのように弁明していると、フェストゥスが大声で言った。「パウロよ、おまえは頭がおかしくなっている。博学がおまえを狂わせている。」”
使徒の働き 26章19~24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)


パウロは総督フェストゥスとアグリッパ王の前で証しをする。自身の出自から迫害者であった過去、ダマスコの途上でのイエス様との出会い、異邦人への伝道について、そして最も強調したのは「イエス様の死と復活、そして救いがユダヤ人にも異邦人にも与えられる」点であった。ここでフェストゥスが「博学がおまえを狂わせている。」と叫び証しを中断させようとする。ユダヤ人でもない、またある意味アグリッパ王よりも上位の彼を混乱させたのは何だったのであろう。福音のダイレクトな力が彼に働いたのかもしれない。
伝道していると時として激しい反応を受けるときがある。あるいは頭のおかしい人として扱われる事もある。ファッションではなく、真剣に信じて行動するクリスチャンであるほどそういったことに出くわすことがある。個人的には、キリストに狂っていると扱われて一人前のクリスチャンなのではないかと思う。生ぬるい信仰生活を捨てて、再び歩みだそう。

Prayer(祈り)


イエス様、信仰者であるが故に痛い目に会うことがあります。その時こそ聖霊様が働かれたのだと信じます。改めて前進したいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

エルサレムの騒乱(使徒21:31-36)

Scripture(聖書の言葉)


31 彼らがパウロを殺そうとしていた時、ローマの守備隊司令官のもとに、エルサレムが混乱状態に陥ったという知らせが届きました。 32 司令官は、直ちに兵士と士官を率いて現場に駆けつけました。軍隊が近づいて来たので、人々はパウロをなぐるのをやめました。 33 司令官はパウロをとらえると、まず二重の鎖で縛らせ、次に、「この男は何者で、いったい何をしでかしたのか」と人々に尋ねました。 34 ところが、人々がめいめい勝手なことを叫び続けたので、さっぱり事情がつかめません。ひとまず、パウロを兵営へ連行するように命じました。 35 しかし、階段にさしかかった時には、群衆の暴行を避けるため、兵士たちはパウロをかつぎ上げなければならなくなりました。 36 群衆は、「そいつを殺せ! 殺しちまえ!」とわめきながら、押し寄せて来ました。

Observation(観察)


パウロがエルサレムに戻り請願の儀式をしようとしていたとき、ユダヤ人達の中で騒乱が起き、パウロは殺されるところであった。事情を聞こうとしたローマの守備隊に対し、ユダヤの人々は「めいめい勝手なことを叫び続けた」とある。彼らは何かにとりつかれたようにパウロを殺すように叫び合った。イエス様のピラトの官邸でも、似た光景が起きたことを覚えている。何か神の重要な働きが起きるとき、反作用のように反対者達が起きてくる。その背後にいるのは悪魔である。しかしそのような状況を通っても神のご計画は成った。イエス様は十字架の贖いと復活を成し遂げ、パウロはローマに渡りヨーロッパ伝道の礎を築いた。

Prayer(祈り)


イエス様、反対する声を恐れて止めてしまったことが幾つもありました。神に言われたことは必ず成ると信じて進んでゆく事が出来ますように、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様を受ける

Scripture(聖書の言葉)


パウロは尋ねました。 2 「ところで、信じた時、聖霊を受けましたか。」「いったい何のことでしょう。聖霊のことなど聞いたこともありません。」

3 「では、バプテスマ(洗礼)を受けた時、どんな信仰告白をしたのですか?」「バプテスマのヨハネの教えた……。」

4 これを聞いたパウロは、ヨハネのバプテスマは、罪を離れて神に立ち返る決意を表すものだから、それを受けた者が、ヨハネの証言どおり、あとから来られたイエスを信じるのは当然のことだと説明しました。 5 彼らはすぐ、主イエスの名によってバプテスマを受けました。 6 そして、パウロが彼らの頭に手を置くと、聖霊が下りました。すると彼らは、外国語で話したり、預言したりし始めたのです。 7 みなで十二名ほどでした。

Observation(観察)


エペソのクリスチャン達は、聖霊様のことを知らなかった。まぱ、バプテスマもヨハネのバプテスマであった。彼らに対しパウロはイエス様の名によるバプテスマを授けた。すると聖霊様が下ったとある。
聖霊様を受けずに信仰を持つことは出来る。しかしそこには神の力は無い。また御言葉を想起させる力も与えられない。御言葉にそって、力強くクリスチャン生活を送るには、聖霊様を受けることは必要な物だ。教会によってはこの点を強調しないグループもあるが、それでも聖霊様の必要性は聖書に繰り返し、明確に語られ、ペンテコステの日以来、現在に至るまでその体験をした人たちによって受け継がれているのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、聖霊様の働きを見失わないようにたすけてください。自分中心になってしまうと聖霊様を見失います。助け手としてきて下さった聖霊様とともに働きたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

必要を満たす神(使徒17:24-25)

Scripture(聖書の言葉)


24 この方は、世界と、その中のすべてのものをお造りになった天地の主です。ですから、人の造った神殿にはお住みになりません。 25 また人は、この方の必要を満たすこともできません。第一、この方には、必要なものなど何もありません。かえって、すべての人にいのちを与え、必要なものは何でも、十分に与えてくださるのです。

Observation(観察)


アテネでパウロは、大胆に唯一の神についてメッセージを語る。中心的なことばは「 25 また人は、この方の必要を満たすこともできません。第一、この方には、必要なものなど何もありません」である。神が何かの必要を私たちに求める事は無い。かえって全てを与えてくださるのが、創造主である神なのだ。この神に大いに求めよう。私たちが真に必要な物、求めるべき物を神は教えてくださる。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたが全ての必要を満たされる方です。一方で、私は自分が一体何が必要なのか分かっていないのかもしれません。ですからまず知恵を求めます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

割礼か聖霊か(使徒15:7-9)

Scripture(聖書の言葉)


7 激しい論争が続いたあと、ペテロが立ち上がり、意見を述べました。「皆さん、お忘れですか。ずっと以前、外国人も福音のことばを聞いて信じるために、神様が私をお選びになったことを。 8 人の心の中をご存じの神様は、ご自分が外国人をも受け入れておられることをわからせようと、私たちと同じように、彼らにも聖霊を与えてくださったのではありませんか。 9 神様は、外国人とユダヤ人を少しも差別なさいません。だからこそ、私たちと同じように、信仰によって彼らの心もきよめてくださったのです。

Observation(観察)


外国人のクリスチャンに割礼を受けさせるべきかどうか、エルサレムの教会では議論が続いていた。議論の方向性を決めたのは、このペテロの言葉であった。「 8 人の心の中をご存じの神様は、ご自分が外国人をも受け入れておられることをわからせようと、私たちと同じように、彼らにも聖霊を与えてくださったのではありませんか。」割礼という肉体のしるしではなく、聖霊様を受けるという霊のしるしが救いの証明だとペテロは主張する。「9 神様は、外国人とユダヤ人を少しも差別なさいません。」とも有る。この瞬間にキリスト教はあらゆる国民に向けて門戸が開かれたのだ。

Application(適用)


割礼の例えのように、私の中にも他者に対する壁や差別意識があることを感じる。これを打ち破ってくださるのは聖霊様の働き以外にはない。同じ聖霊様によって動かされるところには理解と一致がある。そのことを追い求めてゆきたい。

Prayer(祈り)


イエス様、私の中から他者に対する壁を打ち砕いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ヨブの嘆き(ヨブ6:1-3)

Scripture(聖書の言葉)


1 ヨブの返答。
2 「ああ、この悲しみと苦しさの重さを
量ることができたらよいのに。
3 まるで海辺の砂を千倍にもしたような重さなのだ。
だから、思わず激しいことばを吐いてしまったのだ。

Observation(観察)


苦しみにあえぐヨブは自分を呪い、励まそうとする友人達にも激しい言葉で反論する。しかしそのような中でもヨブは神を絶対者として決して否定しなかった。一方で自分は人間として限界はあれど精一杯正しく生きた、しかしヨブの身にはこのような悲惨なことが起きた。なぜだ。このような懊悩が人生には確かに起きる。成長のためとか過去の清算とか理屈をつけようとしても解決できない。起きることは起きるのだ。唯一人間に出来ることは神を否定しないこと、ただそれしか残らないのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、なぜこのような苦しみを、と思うことが何度もありました。それでも神を否定することはどうしても出来ませんでした。神を否定することは自分の人生も世界も隣人も、全てを否定することだからです。苦しみの中にこそ、人生の本質があるのかもしれません。まだ分からないことばかりです。助け手下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

弁護してくださる方(ヨブ9:32-33)

Scripture(聖書の言葉)


32-33 神は人間ではないので、
私は自分を弁護することができません。
もし神が人間なら、
対等な立場で話し合えるでしょう。
私たちの間には仲裁人がいません。
仲を取り持つ者がいないのです。

Observation(観察)


ヨブの苦難と神に対する不満は極限に達していた。ヨブは子供の犯したかもしれない罪のために生け贄を捧げていた。言い換えれば罪から来る裁きに対する恐れの思想に凝り固まっていたと言える。ヨブは自分を弁護できる方が居ないことを嘆く、律法と罪、そして裁きだけが神との関係ならば、そこに救いはない。イエスというお方が神と私たちの間に弁護人として仲裁してくださるから、神の厳しさはその本質である愛を表し、私たちの罪は神の愛と赦しを表す機会となった。罪による永遠の裁きはキリストによる赦しにより永遠の御国に変わった。
だれしも本当に苦しい時はある。そのようなときにはこの神の裁きとしか思えないような苦しみにイエス様がどのように関わってくださっているのか考えよう。

Prayer(祈り)


イエス様、ヨブは仲裁人がいないと嘆きましたが、いまわたしにはあなたがおられることが幸せです。罪には受けるべき罰、刈り取るべき結果があります。けれどもイエス様がいれば幸せにその期間を過ごすことが出来ます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。