イエス様と一緒にいたから(使徒4:13)

Scripture(聖書の言葉)

8 その時、ペテロは聖霊に満たされ、落ち着きはらって答えました。「わが国の名誉ある指導者、ならびに長老の方々。 9 お尋ねの件は、あの足の悪い男のことで、どのようにして彼が治ったかということでしょうか。 10 そのことなら、あなたがた、いやイスラエルのすべての人たちに、はっきりお話ししたいのです。この出来事は、あなたがたが十字架につけ、神様が復活させてくださった、あのメシヤ(救い主)、ナザレのイエスの名と力とによるのです。 11 メシヤのイエスは、まさに『建築士たちの捨てた石が、最も重要な土台石になった』(詩篇118・22)と聖書にある、その石なのです。 12 この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」

13 あまりにも大胆なペテロとヨハネのことばに、議員たちは驚き、たじたじとなりました。二人は明らかに、教育も受けていなければ、宗教の専門家でもないのです。とうとう、イエスといっしょにいたからそうなったのだ、と認めないわけにはいかなくなりました。

Observation(観察)

足萎えの男の癒しの件で尋問を受けたペテロとヨハネは、聖霊様によって言葉を与えられ、公然と反論する。そして「12 この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」とはっきりと宣言する。

議員達は驚いた。無学なガリラヤの漁師に過ぎない男達が、力あることばで理路整然と語っている。そしれ彼らの最終的な理解は「イエスといっしょにいたからそうなったのだ」いうことであった。イエス様と共に過ごしたことが彼らの内面を変化させ、さらに聖霊様によって語るべき言葉を与えられたのだ。

Application(適用)

人は人によって育てられる。弟子たちは3年間という短い時間だったかもしれないが、イエス様によって彼らの内面を確実に変化された。

今の私の人格もこれまで関わってきた人々と交わした言葉によって作られたものだ。良い影響を与えてくれた人も多いが、悪い考え方を植え付けて行った人もいる。

今私は、もう一度みことばと聖霊様の語りかけによって、自分を作り直したい。

特に時として現れる卑しい発想や言葉を追い出し、前向きな愛に満ちた言葉を用いるように変えられたい。自ら発した言葉で、私の思想、考え方の癖を神様に喜ばれるものに立てあげてゆきたい。

Prayer(祈り)

イエス様、自分の内面を覗き込むたびに、その醜さ、愚かさを感じます。私は家族のためにも自分自身のためにも変化されなければならないと感じます。毎日一歩ずつ、みことばを受け取って自分を作り上げている言葉を置き換えてゆきたいです。自分はこれで良いと開き直る事をやめます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の教えに親しむ(出エジプト17:13-16)

Scripture(聖書の言葉)

13 翌日、モーセはいつものように座って、朝から夕方まで人々の間の不平や訴えを聞いていました。 14 全く息つく暇もありません。モーセのあまりの忙しさに驚いたイテロが聞きました。「一日中こんなに大ぜいの人が、あなたに相談しにやって来るとは。どうして、この山のような仕事を一人だけで片づけようとするのか。」

15-16 「それは、難しい問題が起きると、みな私のところへ来て判断を仰ぐからです。裁判官のように、どちらが正しいか、どちらが間違っているかを決めたり、神様が求める生き方はどういうものかを教えたりします。みんなのために神のおきてを実際問題に当てはめて裁くのです。」

Observation(観察)

この箇所では、モーセがイスラエル人一人一人の問題に面談して解決を与えていたことが描かれている。舅のイテロは驚き、民を組織化して小さな問題は自分たちで解決することを提案する。民族の自治の方法としては妥当な方法だ。

一方、注目すべきはこの時点でモーセには十戒が与えられていなかったことだ。神の教えは明文化されておらず、イスラエル人に数百年伝わる伝承が信仰の基準になっていたと考えられる。

それでは人々は自分の考え通りにしか行動しない。神の民を率いるには明確な基準が必要であった。(それでも彼らは言うことを聞かず40年間荒野をさまよったのだが)

新薬の時代はどうであろうか、ヘブル書では「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。(8:10)」と書かれている。「思い」と「心」感情と理性に神は働きかけて下さるのだ。

Application(適用)

心が乱れたり、悩んでいるときは御言葉が遠くになってしまう事がある。聖句が思い出せなかったり、実際に聖書を開くことが億劫になってしまうことがしばしばだ。しかし、御言葉はこころに書き付けられている。私たちに必要なのはちょっとした行動なのだ。SNSを開く前に通読箇所のブックマークを開く。休憩の時に過去のデボーションを読み返す、どんなことでも良いので神様に一歩近づこう、そうすれば神様も大きな一歩で近づいて下さる。

Prayer(祈り)

イエス様、人間ですので元気のあるときも無いときもあります。でもどんなときでも変わらないのは御言葉です。自分の気持ちよりも御言葉にすがりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様の働き(使徒2:2-6)

Scripture(聖書の言葉)

2 さて、イエスの死と復活から、七週間が過ぎました。五旬節(ユダヤ教の祭りの一つ)の日のことです。信者たちが一堂に集まっていると、 2 突然、天からものすごい音がしました。まるで、激しい風が吹きつけるような音です。それが、家全体にごうごうと響き渡ったのです。 3 そして、めらめら燃える炎の舌のようなものが現れ、みなの頭上にとどまりました。 4 するとどうでしょう。その場にいた人たちは、みな聖霊に満たされ、知りもしない外国語で話し始めたではありませんか。聖霊が、それだけの力を与えてくださったのです。

5 その日エルサレムには、たくさんの敬虔なユダヤ人が、祭りのために、世界のあちこちから集まっていました。 6 この大音響に、人々はいったい何事かと駆けつけましたが、弟子たちの話していることばを聞いて、すっかり面食らってしまいました。まぎれもなく自分たちの国のことばだったからです。

Observation(観察)

ペンテコステの日、集まっている弟子達の所に炎の舌が下った。「その場にいた人たちは、みな聖霊に満たされ、知りもしない外国語で話し始めたではありませんか。聖霊が、それだけの力を与えてくださったのです。」とある。

聖霊様の働きについては諸派によって全く扱いが違っている。が、わたしは、個人的に聖霊様を体験し、異言で祈ることを覚え、また、日本語を全く分からない人から、異言で日本語での言葉を聞いた経験から、この聖書の箇所を否定することは出来ない。

他国の言葉で語る、という現象は、福音を全世界に持って行くということの現れだ。すなわち、聖霊様の登場によって、キリスト教の舞台は、ユダヤの一地域から全世界に拡大することになる。

Application(適用)

聖霊様を体験することは、今の私を支えている大きな柱だ。いのりのことばを導き、御言葉を示し、どん底に落ちたときに再び立ち上がる力を与えて下さったのは聖霊様に他ならない。苦しい状況に合っても私は一人では無い。もう一度立ち上がろう。

Prayer(祈り)

イエス様、聖霊様を約束どおり送って下さって感謝します。今も望みをもって信仰を守れているのは、聖霊様の働きに他なりません。今、苦しいところを通っていますが、私の心を新しくして、立ち上がることが出来るようにして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊のバプテスマを思い出す(使徒1:4-7)

Scripture(聖書の言葉)

4 そんなある時のことです。イエスは使徒たちに、こうお命じになりました。「エルサレムから離れてはいけません。前にも言ったように、父が約束を果たしてくださるまで、待っていなさい。 5 バプテスマのヨハネは水でバプテスマ(洗礼)を授けましたが、もうすぐ、あなたがたは聖霊によるバプテスマを受けるからです。」

6 そこで、またイエスが姿を現された時、使徒たちは心躍らせながら、「主よ。今こそイスラエルを解放し、独立国として再興なさるのですか」と尋ねました。

7 「それがいつかは、父がお決めになります。あなたがたが、あれこれ言うことはできません。 8 しかし、聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは大きな力を受け、エルサレムからユダヤ全土、そしてサマリヤから地の果てまで、わたしの死と復活を伝える証人となります。」

Observation(観察)

イエス様が昇天なさる前、聖霊によるバプテスマについて言及される。「もう一人の助け主」(ヨハネ14:16)として聖霊様による満たしを受ける、ということだ。私たちの受けた洗礼を思い出してみよう。全身をくまなく水に沈め、新しい人生の始まりを記念した。同様に頭の先から足先まで、聖霊様が満たして新しい人として生かして下さると聖書は言っている。

そればかりではない、「エルサレムからユダヤ全土、そしてサマリヤから地の果てまで、わたしの死と復活を伝える証人となります。」とも言われた。聖霊様の力はイエス様を証する力なのだ。もしも聖霊を受けたと主張していながらイエス様を証するのを拒んでいるなら、そこには何らかの欺瞞が有る。もしもまだ力が無いと感じるなら、イエス様に求めよう。イエス様は必ず求めに応じて、聖霊様を注いで、明確に体験として、私たちがバプタイズされたことを理解させて下さる。

Prayer(祈り)

イエス様、聖霊様が注がれた日のことは忘れたことがありません。この日からイエス様を証ししたいという気持ちで生きてきました。この気持ちがぼやけることが決してありませんように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

エルサレムに戻る(ルカ24:28-34)

Scripture(聖書の言葉)

28 そうこうするうち、エマオに近づきましたが、イエスはまだ旅を続ける様子です。 29 二人は、じきに暗くなるから、今晩はここでいっしょに泊まってくださいと熱心に頼みました。それでイエスもいっしょに家に入りました。 30 食卓に着くと、イエスはパンを取り、神に祝福を祈り求め、ちぎって二人に渡しました。 31 その瞬間、二人の目が開かれ、その人がイエスだとわかりました。と同時に、イエスの姿はかき消すように見えなくなりました。 32 二人はあっけにとられながらも、「そう言えば、あの方が歩きながら語りかけてくださった時も、聖書のことばを説明してくださった時も、不思議なほど私たちの心が燃えていたではないか」と語り合いました。33-34 そして、すぐエルサレムへ取って返しました。

Observation(観察)

十字架に架けられたイエス様が復活されたという噂を聞きながらも、弟子達はエルサレムを逃れ、エマオへの道を歩いていた。その途上、復活されたイエス様に出会う(しかし彼らはそれと気づかなかった)。宿に着き、パンをちぎって渡した途端、彼がイエス様だと理解した。パンをちぎる行為は、生ける御言葉であるイエス様の身が裂かれる、という意味でもあり、沢山の教会が植えられ(聖餐式がなされ)、御言葉が全世界に広げられるという意味でもある。あるいは弟子が最初に連想したのは、山上の垂訓の際のパンの増殖の奇跡であったのかもしれない。

彼らがイエス様だと気づくとと共に、イエス様のお姿は消えてなくなった。しかし彼らの心に残ったのは寂しさや絶望では無く、御言葉に対する熱い思いであった。彼らは踵を返し、再びエルサレムを目指すのであった。

Application(適用)

失敗したときや、どうしようもない事情で悪い選択をしてしまうとき、私たちには罪悪感が芽生える。あらゆる責任を投げ出して、布団をかぶってやり過ごしたい気分だ。しかしそのようなときでも、ふと心が軽くなる瞬間がある。御言葉を思い出すときもあれば、過去に経験した何か楽しいことの事もある。そのような心を切り替えて下さる瞬間に、イエス様がそばにおられると信じたい。人生はとても長い、重荷は重く、そして苦も楽も沢山ある。けれども、みことばを思い出したなら、私はエマオに逃げるのでは無く、エルサレムに取って帰りたい。仮に苦しみが同じであっても、神の近くに居たいのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、悲しみに沈むときは目がかすみ、御言葉も心に留まりません。しかし弟子達に現れて下さったように、思いを再びあなたに向けるチャンスを下さい。

御教えから逃げること、信仰を棄てることも出来たかもしれません。けれども私はあなたにすがります。楽な人生などはじめから有りません、ならばせめて貴方の荷を負いたいのです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

どうしてもしなければならない事(ルカ23:50-52)

Scripture(聖書の言葉)

50-52 そのころ、ユダヤの最高議会の議員で、アリマタヤ出身のヨセフという人が、ピラトのもとに行き、イエスの遺体を引き取りたいと願い出ました。彼はメシヤが来るのをひたすら待ち望んでいた神を敬う人物で、他の議員たちの決議や行動には同意していませんでした。 53 ヨセフはイエスの遺体を十字架から降ろし、長い亜麻布に包んで、まだだれも葬ったことのない、岩をくり抜いた新しい墓に納めました。

Observation(観察)

罪人として十字架に付けられたイエス様に積極的に関わろうとする人はもう居なかった。弟子達ですらそうだった。彼らは指導者を失った喪失感で崩れ落ちていたかもしれない。しかし、一人の人物だけがイエス様の葬りの準備を進める。アリマタヤのヨセフである。共観福音書ごとに記述は異なるが、イエス様のシンパであり、信仰深い人物であったようだ。

他のユダヤ人達の狂騒的なイエス様への害意のなかで、彼の行動には非常に危険が伴ったと思う。それでも彼は自分のなすべき事をした。彼の立場も危ういものになったのかもしれないが、どうしてもこの時、彼がすべきことはこれだったのだ。このヨセフのように、ピンポイントで重要な働きをすえう人物が聖書には登場する。(クレネ人シモンや聖骸布のヴェロニカ)

Application(適用)

先日のロバの子の話にも共通するが、歴史にはその瞬間「どうしても起きなくてはならない事柄」があるような気がしてならない。言い換えれば、神の計画は必ず成る、と言うことだ。

もしも私たちがその場に居合わせ、その働きをするよう促されたなら、恐れずにそれをしよう。そのために私たちは生まれてきたのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、星々に各々役割があるように、人々にも各々役割があると分かりました。長く光り続ける星もあれば、一瞬夜空を照らす働きの星もあるかもしれません、あるいは何十年もたってから理解される彗星の様な星もあるかもしれません。

私の時、私の役割は分かりませんが、それと分かったとき、命も賭してそれを成し遂げられますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の働きをする為に(出エジプト記4:11-12)

Scripture(聖書の言葉)

11 「人間の口を造ったのはだれか。神であるわたしではないか。人が話せたり話せなかったり、目が見えたり見えなかったり、耳が聞こえたり聞こえなかったりするのは、だれの力によることか。 12 さあ、ぐずぐず言わず、わたしの言うとおりにしなさい。はっきり話せるように助け、何を話すかも教えよう。」

Observation(観察)

燃える柴の所でエジプトからイスラエル人を救い出す召命を受けたモーセであったが、くちべたであることを理由に断ろうとする。神はこの聖書の箇所のように、人間の能力を強めることも弱めることも神にはお出来になることを告げ、モーセを励ます。

(それでもモーセは譲らず、代わりに兄アロンを代弁者としてもらうようにする)

Application(適用)

私たちが神にあれをしなさい、と明確に示されるとき、自分の実力が明らかに足りないときがある。出来ません、と断ってしまうことも過去にはあった様に思う。

しかし、いまは、多少時間がかかっても、実力が足りない課題でも、まずは分かりました、と答えるようにしている。肯定的な答えから道が拓かれ、必要なリソースが集まることを経験的に知っているからだ。

神は丸投げの神では無い。せよと言ったことにはそれが出来る根拠があり、助けの用意が必ずある。それを信じて神の働きを共に喜ぶか、退いて指をくわえて眺めるか、それは私たちの選択だ。わたしはいつも「はい、やります」と答えたい。

Prayer(祈り)

イエス様、このときのモーセはもう80歳であったと聞いています。心も体もこわばっていたかもしれません。私も若くは無いですが、神様の呼びかけには応えられる様に自分を整えたいです。心身の健康を求めます。病の中に放っておかないで下さい。私はまだ役に立てるものです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

水から引き出される(出エジプト記2:10)

Scripture(聖書の言葉)

10 やがてその子は大きくなり、養子として正式に王女の屋敷へ引き取られました。王女はその子をモーセ〔「引き出す」の意〕と名づけました。水の中から引き出した子だったからです。

Observation(観察)

ゴシェンの地に移り住んだイスラエルは何世代かを経て、巨大な民族になっていた。それを恐れた後代の王は、イスラエル人の男子を川に投げ入れ殺すように命じる。しかし、モーセは瀝青で防水された葦の船で流される。それは不思議な巡り合わせでエジプトの王女の目にとまり、モーセ(水の中から引き上げる)と名付けられ、生母を乳母として雇うこととなる。

水の中から引き出す、決定づけられていた死から生が与えられることを意味する。バプテスマのヨハネも、イエス様も、過去の自分に死んで新しく生きることを教えられた。モーセの時から、この原則は予表されていたのだ。

Application(適用)

モーセの人生は奇跡と困難の連続ではあったが、神の与えられた働きを誠実に行った人生であった。私も今一度過去に死んで、昨日の失敗は横に置いて、今日新しい一日を誠実に生きようと思う

Prayer(祈り)

イエス様、過去を捨て、新しい日を精一杯、誠実に生きようと思います。あちこちに罠や落とし穴があって、いつも失敗しますが、注意深く行動とことばを選んで参ります。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖書を曲解しないために(ルカ20:37-38)

Scripture(聖書の言葉)

37-38 しかし、あなたがたがほんとうに聞きたいのは、復活があるかないかということでしょう。モーセ自身は何と書き残していますか。燃えさかる柴の中に現れた神とお会いした時、モーセは神を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』(出エジプト3・6)と呼びました。主を彼らの神と呼んでいる以上、彼らは生きているはずです。神は死んだ者の神ではありません。神に対して、みなが生きているのです。」

Observation(観察)

復活は無いと考えているサドカイ人がイエス様に無理難題を押しつける所の場面だ。サドカイ派に関する情報は歴史にほとんど残っていない。彼らが「復活は無い」と考えるに至った経緯も不明である。ただ彼らは神殿に仕える祭司のグループであったことは確かだ。そのような彼らが聖書をどのように読み間違えて復活を否定する教義を持ってしまったのかは分からない。

Application(適用)

重要なのは、聖書を曲解させ誤った結論に向かわせるバイアスは私たちの内面にもあることを忘れてはいけない。そうならないためには、日々聖書を開き、聖霊様によって思いを正しくされる事だ。またメンターのアドバイスもとても重要だ。

イエス様は「神に対して、みなが生きているのです。」これまでの全ての死者にとっても、今生きている人、これから生まれてくる子供達にとっても、神は神なのだ。神の教えを理解し、神から与えられた命を生きよう。

Prayer(祈り)

イエス様、みことばをそのまま受け止め、聖霊様によって理解を与えられるよう、まっすぐな心を私に下さい。「こう解釈した方が〜」という誘惑はいつも来ます。しかしあくまでみことばにとどまって恵みを受け取りたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ロバの子という特異点(ルカ19:30-35)

Scripture(聖書の言葉)

30 「さあ、あの村へ行って、道ばたにつないであるろばの子を捜しなさい。まだだれも乗ったことのないろばの子です。見つけたら、綱をほどいて連れて来るのです。 31 もしだれかにとがめられたら、『主がお入用なのです』とだけ答えなさい。」 32 二人は、言われたとおりろばの子を見つけました。 33 綱をほどいていると、持ち主が来て、「何をしているのだ。おれたちのろばの子をどうしようというのだ」と聞きただしました。 34 弟子たちは、「主がお入用なのです」と答え、 35 ろばの子を連れて来ました。

Observation(観察)

日曜学校で良く題材になる箇所である。イエス様は弟子にロバの子を探すように命じる。だれも乗ったことの無いロバの子だ。この時点では名の用途に使うかも説明されていない。言われたのは「だれかにとがめられたら、『主がお入用なのです』とだけ答えなさい。」」と言うことだ。どうにも理屈の通らない指示だが、弟子達は従った。すると、ロバの子を発見し、持ち主に予定通りとがめられ、「主がお入用なのです」と答えだ。なぜかその後は議論も騒ぎも無く、持ち主はロバの子を提供した。

Application(適用)

神の計画のなかでは、チェックポイントのようにどうしてもここを通過しなくてはならない、という箇所があるような気がしている。ここではロバの子を得ることである。これはゼカリア9:9で「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」という預言が実現するためだ。

弟子達はなんだか分からなくても従った。イエス様はロバを強奪してこいと言われたのでは無く、持ち主に説明する内容も指示している、いささか奇妙な内容だが持ち主も納得している。歴史の力が彼を納得させたのでしょうか?

わたしも歴史の必然の場に居て、神の働きが進む瞬間を見届けたい。できればイエス様の働きを進める側に立って。

Prayer(祈り)

イエス様、人間の目と脳では図れない不思議な業をあなたはなさいます、今世界で起きていることは私には何も分かりません、論評することも恐ろしくて出来ません。ただ主のみ旨がなりますようにと願うばかりです。ずっと後になって、あそこが歴史の分岐点だった、あそこに私が居た、と気づけるように理解力を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。