パウロの召し(使徒21:10−14)

Scripture(聖書の言葉)

10-11 数日そこに世話になっているあいだに、やはり預言する力のあるアガボという人の訪問を受けました。この人は、わざわざユダヤから来たのです。アガボはパウロの帯を取り、それで自分の手足を縛ってから言いました。「聖霊が告げられました。『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人からこのように縛り上げられ、ローマ人に引き渡される。』」 12 これを聞いた者はみな、この町のクリスチャンも、同行していた私たちも、声をそろえてパウロに、エルサレムへは行かないでほしいと涙ながらに訴えました。

13 しかし、パウロは言いました。「なぜ泣いたり、私の心をくじいたりするのですか。私は主イエスのためなら、エルサレムで投獄されてもかまわないと、いや、殺されてもいいとさえ覚悟しています。」 14 もうこれ以上何を言ってもむだで、私たちは、「主のお心のままに」と言って、黙るほかありませんでした。

Observation(観察)

エルサレムへ、そしてローマに渡ろうとするパウロに対し、人々は彼の安全を願うが、明らかに状況は厳しい。この旅に同行していたルカでさえも、泣いて止めるほどの状況だった。

しかしパウロの決意はゆるがず「なぜ泣いたり、私の心をくじいたりするのですか。私は主イエスのためなら、エルサレムで投獄されてもかまわないと、いや、殺されてもいいとさえ覚悟しています。」とすら言っている。

何をしてパウロをここまで突き動かすのか、もはや人間的な意欲では無いことは確かだ。パウロに未来が見えていただけでは無い、しかし彼は明らかに神の意志(福音をローマに、ヨーロッパに)を受け取っていた。自らが犠牲になることも厭わないほどの意思を自分の思いとして持ったのだ。

Application(適用)

わたしはどうだろう。私は神から「どうしても、これをやってほしい」という何かを受け取っているだろうか。それともそのような頼み事を神から受けるにはまだ信頼が足りないのだろうか。

召しには様々なものがあると思う。教会に留まり、ある時、ある人に、特定の事を伝えることだけが使命の人も居るかもしれない。それが結果的に世界を動かす結果にもなるかもしれない。

かつて結核で死にかけていたチョーヨンギ師を伝道するために聖書を置いていった女学生の話がある。彼女の存在が無ければ、現在のキリスト教地図は大分変わっていただろう。(後でずいぶん探したが、結局彼女は何者だったのかわからなかったそうだ)

教派を問わず、膨大な数の、ピンポイントで召された人が確実にパスをつなぐようにして、神の働きはなされているように思う。私もそのパスが来たとき、確実にそれを受け、つないでゆく事ができるようにしたい。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたがせよと言われたことを誠実に進めることが出来るように、気力、体力を回復させて下さい。任されたことを喜び、成し遂げることをもっと喜びたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

監督者の役割(使徒20:28-31)

Scripture(聖書の言葉)

28 注意しなさい。あなたがたは、神の羊たち〔神がキリストのいのちと引き替えに買い取った教会〕を養い育てる立場にあるのです。このことをしっかり肝に銘じておきなさい。いいですか、聖霊があなたがたに、監督者としての責任をお与えになったのです。 29 私が去ったあと、狂暴な狼のような偽教師たちが忍び込み、群れを荒らし回るでしょう。 30 それだけではありません。あなたがたの中からも、弟子を自分の側に引き込みたいばかりに真理を曲げる者が出るでしょう。 31 だから、よく見張っていなさい。私といっしょに過ごした三年間を忘れてはいけません。昼も夜も目を離さず、あなたがたのために流してきた私の涙を思い出してください。

Observation(観察)

エルサレムに向かうパウロが、エペソの教会の長老達に別れを告げた際の言葉である。

監督者には、教会という群れを養い育てる立場と責任があること、そして外的から群れを守ること、内部の分裂を避け、教えを曲げないこと、これらのことをパウロは長老達に引き継いだ。

教会がある程度の規模になってくると、これまで無かった色々なことが起きてくる。色々な考えを持った来訪者への対応、信徒が苦しんでいる試練に寄り添うこと、極端な聖書理解による分派の発生を防ぐなど、教会を健康に保つための奉仕者が必要だ。多くの教会では長老がそれをになっている。普段見えない形でこれらの働きを助けている人々もいる。彼らのためにも祈り支えなければならない。

Prayer(祈り)

イエス様、各教会が健康であり続けることが出来ますように。そのために立てられた長老の方々に守りを下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様について聞く(使徒19:2-7)

Scripture(聖書の言葉)

アポロがコリントにいる間に、パウロはトルコを通ってエペソに来ました。そこで会った何人かの弟子たちに、パウロは尋ねました。 2 「ところで、信じた時、聖霊を受けましたか。」「いったい何のことでしょう。聖霊のことなど聞いたこともありません。」

3 「では、バプテスマ(洗礼)を受けた時、どんな信仰告白をしたのですか?」「バプテスマのヨハネの教えた……。」

4 これを聞いたパウロは、ヨハネのバプテスマは、罪を離れて神に立ち返る決意を表すものだから、それを受けた者が、ヨハネの証言どおり、あとから来られたイエスを信じるのは当然のことだと説明しました。 5 彼らはすぐ、主イエスの名によってバプテスマを受けました。 6 そして、パウロが彼らの頭に手を置くと、聖霊が下りました。すると彼らは、外国語で話したり、預言したりし始めたのです。 7 みなで十二名ほどでした。

Observation(観察)

アポロは信仰に満ちた、有能な教師であったが、バプテスマのヨハネ以降の事柄を知らずに神の道を説いていた。昨日の聖書箇所のように、プリスキラとアクラによって福音を伝えられてから、彼は大胆にイエス様を伝えるものとなった。

さて、そのアポロによって教えられていたであろう弟子達にパウロが聖霊様のことについて尋ねると、やはり彼らは全く情報も無く、経験も無かった。

そこでパウロは彼らに、イエス様を信じること、バプテスマを受けることを勧め行った。そして彼らにも聖霊様の傾注が起こった。「パウロが彼らの頭に手を置くと、聖霊が下りました。すると彼らは、外国語で話したり、預言したりし始めたのです。」

ここには聖書の不思議な原則がある。「知らなければ、起こらない」と言うことだ。聖霊様について情報が無ければ、また聖霊体験をした人との接触が無ければ、聖霊様のバプテスマは発現しないと言うことだ。

最初の聖霊様の表れはエルサレムのマルコの二階座敷であった。「分かたれた炎のような舌が一人一人に留まり」と表現されている。この炎が、消えること無く、人から人へ伝えられているのだ。そして大事なことは、伝えられているのは、知識や技術では無く、いのちであり「息」であると言うことだ。二階座敷に現れた聖霊様は本や巻物の形では無かった。人を燃やす炎であり、人にそれを伝えてゆく舌として現れて下さった。いのちの伴わない知識や技術ならその人の心にとどめておくことが出来るだろう。しかし、「炎」であり「息」であり「舌」であるなら私たちはもう内に止めるは出来ない。

Application(適用)

聖霊様について伝えてゆく事の重要性をこの箇所では述べられている。

聖霊様について尋ねられるとき、私は多くを語ることは出来なかった。ただ聖書の箇所を共に読み、自身の経験をお伝えするのみである。正直葛藤はあるが、各教会での決め事があるのだろうから、それを越えないようにしなければならない。

それでも教会に聖霊様が(秩序を持って)強力に働いて下さることを望み、祈るものである。

Prayer(祈り)

イエス様、聖霊様について見聞きしたとき、聖書を読んだとき、聖霊様と共に働きたい、という願いを心に起こして下さり感謝します。その願いを確かにかなえて下さり、現在があります。あなたの存在は私個人が秘めていることは難しいです。どうか貴方を知らせる機会を下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

教え合う関係(使徒18:24-28)

Scripture(聖書の言葉)

24 そのころ、すばらしい聖書教師で、説教者としても有能なアポロというユダヤ人が、エジプトのアレキサンドリヤからエペソに来ました。 25-26 アポロはエジプトにいたころ、バプテスマのヨハネのことと、ヨハネがイエスについて語ったことを聞いた以外、何も知りませんでした。それでも大胆に、また熱心に、「メシヤ(救い主)がもうすぐ来られます。お迎えの準備をしなさい」と会堂で説教しました。プリスキラとアクラも、その力強い説教を聞きました。二人はあとでアポロに面会を求め、ヨハネの預言以後、イエスの身に起こったことと、その意味を正確に説明しました。

27 アポロの希望はギリシヤへ行くことでした。エペソのクリスチャンたちは賛成して、彼を大いに励まし、コリントの教会に手紙で、アポロのことをよろしくと伝えました。アポロはそこで、神のためにいかんなく力を発揮し、教会を励ましました。 28 また公の場では、ユダヤ人たちを論破し、聖書によって、イエスこそキリストであることを力強く示しました。

Observation(観察)

パウロの伝道旅行の中に、アポロという人物が出てくる。彼はリアルタイムにイエス様を体験した人では無かったが、バプテスマのヨハネの話から、メシアの到来と悔い改めを説いていた。断片的な情報から正しい道を見いだした人物である。

彼をケアしたのは、有名なプリスキラとアクラだ。彼にバプテスマのヨハネ以降に何がおこったのか、それがどのような意味なのかを正確に説明したとある。その後のアポロは大胆に御言葉を語ったとされている。

どのようなセンスと才能に富んだ人であっても、アドバイスとメンタリングを受ける必要がある。一人では行き詰まってしまう様な状況でも、助言者の言葉で道が拓かれる事もある。

Application(適用)

助言をする方もされる方も、大事なのは心の柔らかさだ。意固地になって知恵や知識を出し惜しんだり、受け取るのを拒絶するのでは、発揮できるパフォーマンスは個人に依存したままだ。互いに教え合える環境が互いの成長を加速するのだ。

わたしも心を柔らかくし、教えられやすい心を持とうと思う。また良い知識や考えは、積極的に伝えてゆきたい。

Prayer(祈り)

イエス様、プリスキラとアクラ、そしてアポロの関係に見るように、謙遜に教え学ぶ思いを私にも下さい。いつでも柔らかい心で知恵や知識を受け止めて、イエス様のことがもっと分かるように変えられたいです。自分の思想、経験に囚われるのを止めます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

パラドックスを超えて(使徒17:26-29)

Scripture(聖書の言葉)

26 神様は全人類を、一人の人間アダムから造り、すべての国民を全世界に散らされました。あらかじめ、どの国が興り、どの国が滅びるか、いつそうなるか、何もかも決め、国々の境界をもお定めになったのです。

27 これもみな、人々が神を求め、神を探し出すためでした。事実、神様は私たちから遠く離れておられるのではありません。 28 私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです。あなたがたの詩人の一人が、『私たちは、神の子孫だ』と言ったとおりです。 29 もしこのとおりなら、神を、金や銀、あるいは石のかけらなどで人間が造った偶像のようなものと考えるべきではありません。

Observation(観察)

アテネにやってきたパウロは、ギリシア人達にイエス様を証する。ギリシア人達は多神教の文化と、高度に発展した学問、特に哲学の中に居た。そのようななか、パウロが証するイエス様の話は、彼らにとっては数ある神、宗教のひとつに過ぎなかったかもしれない。しかしパウロの姿勢は一貫している。神は思考や哲学のなかの概念では無く「神様は私たちから遠く離れておられるのではありません。」と神は私たちと関わられる方だと明言し、彼らにとって親しみのあるクレタ島のエピメニデス(BC600年頃)の詩を引用し「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」と語り、神は偶像の様なものにはお住みにならないと、明言している。

アテネでの人々の反応は冷笑的なものではあったが、それでも幾人かの重要な人がクリスチャンになったと伝えられている。

どのようなシチュエーションでも、異なる文化背景に対してであっても、自身の信じることを明確に伝える姿を私は見習いたい。

エピメニデスは「私を含むクレタ人は皆嘘つきだ。さてこれは真実か?」というパラドックスで有名な人である。

人間の思考の枠の中で考えると簡単にパラドックスに陥ってしまう。こんな例ですら解決できないほど、人間の思考の力には限界がある。

わたしは、ただ「アーメンである方」「在りて在る方」である神に仕え、証し生きてゆきたい。

Prayer(祈り)

イエス様、高度に発展した学問も、神の実存を理解することは出来ません。ただ神だけが神を人に伝えたのです。イエス様が来られたから、私たちは自分が何者なのか理解できました。ただ感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

異なった火を献げる(レビ10:1-11)

Scripture(聖書の言葉)

さて、アロンの子ナダブとアビフは、自分の香炉に神聖でない火を盛り、香をくべ、主の前にささげました。これは主の命令に反することでした。 2 たちまち主の前から火が吹き出し、二人を焼き殺してしまいました。 3 「『わたしに近づく者によってわたしのきよさを現し、すべての人々の前で栄光を現す』と主が言われたのは、こういうことなのだ」と言うモーセのことばに、アロンはただ黙ってうなだれるだけでした。 4 モーセはただちに、アロンのおじウジエルの子のミシャエルとエルツァファンとを呼び、「あなたがたの親族の遺体を神の幕屋の前から宿営の外に運び出しなさい」と命じました。 5 彼らは言われたとおり、式服のままの二人の遺体を外に運びました。

6 それからモーセは、アロンと残った二人の子エルアザルとイタマルに言いました。「気をしっかり持ちなさい。このことを悲しんではいけない。髪を乱したり、服を引き裂いたりして嘆いてはいけない。そんなことをしたら、あなたがたまで殺されてしまう。そうなれば、主の怒りはすべての民に下るだろう。ほかの者が、主の下された恐るべき火のことで、ナダブとアビフのために嘆き悲しむのはかまわない。 7 だが、あなたがたはだめだ。たとえ家族の者が主の罰を受けて死んだときでも、幕屋での務めを離れてはならない。あなたがたは油を注がれた者だからだ。」

彼らは命令どおりにしました。

8-9 次に、主はアロンに命じました。「幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。さもないといのちはない。あなただけではない。息子たちも同じだ。このおきては、末代までも守らなければならない。 10 人々に代わって正しい判断を下すことが、あなたがたの務めだからだ。神聖なものと俗なもの、きよいものと汚れたものの区別を示し、 11 わたしがモーセに与えたすべてのおきてを教えなさい。」

Observation(観察)

ナダブとアビブは、なんらかの正しくない手段、状況で神の火と香をを献げようとした。任職されて僅か一日での事であった。不慣れだったことも有るのかもしれないが、役職に対する軽視があったようにも文面からは読み取れる。

モーセはアロンと残った二人の息子について、このような状況でも幕屋の勤めを止めてはならないと強く命じている。

神の臨在を求め保つのはそれほど重要なことなのだ。これを軽く扱ってはならない。私たち一人一人に神の幕屋がある。これをいい加減に扱ってはならない。

また、主はアロンに対し「10 人々に代わって正しい判断を下すことが、あなたがたの務めだからだ。神聖なものと俗なもの、きよいものと汚れたものの区別を示し、 11 わたしがモーセに与えたすべてのおきてを教えなさい。」と、祭司のもう一つの定めである汚れたもの、聖いものの区別をし、民が汚れからはなれる事についても教えている。これは人間本来の「なんでもあり」な属性を棄て、聖別されて神の民として生きる、ことを教えている。

Application(適用)

私の幕屋はちゃんとしているだろうか。朝聖書を読んでそれっきりになっては居ないだろうか。何度でも開いて思い返して、神に思いを向ける時間をさらに持ちたい。

気がつくとこの世の価値観に飲み込まれ、脱出が難しくなりかけるときがある。神に助けをもとめ、這々の体で逃げ出したことも何度もある。

罪の贖いはイエス様によってなされた。そして聖霊様の火が私たちに点けられた。

だから、心の内の幕屋の火を大事にしなければならない。するべき事、すべきで無いことを心に教え込ませるために御言葉を読まねばならない。

Prayer(祈り)

イエス様、うまく言葉で表現できませんが、心の中を大事にしたいです。色々なことがあって荒れ果てていますが、聖所から立て直したいです。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

彼らにも聖霊を与えてくださったのではありませんか。(使徒15:7-12)

Scripture(聖書の言葉)

7 激しい論争が続いたあと、ペテロが立ち上がり、意見を述べました。「皆さん、お忘れですか。ずっと以前、外国人も福音のことばを聞いて信じるために、神様が私をお選びになったことを。 8 人の心の中をご存じの神様は、ご自分が外国人をも受け入れておられることをわからせようと、私たちと同じように、彼らにも聖霊を与えてくださったのではありませんか。 9 神様は、外国人とユダヤ人を少しも差別なさいません。だからこそ、私たちと同じように、信仰によって彼らの心もきよめてくださったのです。 10 それなのにどうして、私たちも、私たちの先祖も負いきれなかった重荷を、彼らに負わせようとするのですか。そんなことをしたら、それこそ、神様がなさったことを訂正するようなものです。 11 私たちは、すべての人が同じ方法で、すなわち、主イエスが一方的に与えてくださった恵みによって救われる、と信じているのではありませんか。」

12 これを聞くと、あえてそれ以上議論する者はいなくなりました。そして一同は、神が外国人の間で行われた奇跡について語るバルナバとパウロの話に、耳を傾けました。

Observation(観察)

この箇所は、ユダヤ人以外のクリスチャンが、どこまで当時のユダヤ人の慣習に従うべきか、という議論の場である。ペテロはここで、「8 人の心の中をご存じの神様は、ご自分が外国人をも受け入れておられることをわからせようと、私たちと同じように、彼らにも聖霊を与えてくださったのではありませんか。 9 神様は、外国人とユダヤ人を少しも差別なさいません。」と述べている。聖霊様の働きの表れは、すなわち神がイエス様による救いをユダヤ以外の国々にも示し、お与えになったことのしるしであると言うことだ。

この聖霊様の働き、という一点の共通項でエルサレム教会と異邦人教会は結ばれ、分裂の危機から回避された。

しかし現在、日本のキリスト教会では聖霊様の働きについてオープンに語られるのは極一部のグループに限られている。個人的な聖霊体験は許容するがそれを伝えるのは歓迎されない雰囲気だ。その理由は僕には分からない。ただ分かるのは私をいま生かし、立たせ、御言葉を読ませ理解させてくれているのは聖霊様だと言うことだ。二千年前と変わらない方法で私を生かし動かして下さった、それだけで私にとって聖書は全て信じるべきもの、受け入れるべきものとなったのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたが約束され、教会の誕生と共にお送り下さった聖霊様を私は歓迎します。私の心深くに働き、私を変え、御言葉を気づかせて下さり、共に歩んで下さい。貴方のみ業が働かれるときはどうぞ自由に私を使って下さい。栄光はすべて主のものです。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

祝福を失わないように(レビ記5:14-16)

Scripture(聖書の言葉)

14 さらに、主はモーセに告げて言いました。 15 「不実なことを行い、過って神聖なものを汚したときは、その罪を償うのに見合ういけにえとして、傷のない雄羊を一頭ささげなさい。 16 そのほかに、自分が汚した神聖なものや、ささげるのを怠った十分の一のささげ物の償いをしなければならない。自分が与えた損害額に二割を加えた額を、祭司に納める。祭司は罪を償ういけにえの雄羊で償いをし、その者は赦される。

Observation(観察)

誤って犯した罪についての贖いの方法の記述だ。

わたしたちは余程の悪意を持たなければ意思を持って悪をおこなうことは無い。(ごくまれに善悪の基準が自分の利益不利益のみで決まるサイコパスと呼ばれる人も一部居る)特殊な例外は除いて、私たちは元来善を望み、クリスチャンであるなら神を喜ばせたいと願うものだ。

しかし何らかの過ちで、神を悲しませてしまうことはある。そのようなときにもその贖いは旧約にも予表されている。新約の現代であれば勿論イエス様による贖いにおすがりしよう。そして再び過ちを犯さずに誠実に神の民として生きてゆこう。

Application(適用)

神の民とは、神の目的なすために神と共に生きるものだ。生涯を掛けて旅に出ているようなもので楽な道を歩くときもあれば、猛吹雪の中断崖絶壁を上るような時もある。神の加護無しでは一歩も進めない。だからこそ、神の祝福を受け続けることを軽く考えてはいけないのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、これまで何回も色々な失敗をしてきました。

貴方の十字架での死と復活、聖霊様による励ましでこれまで立ち直ってきました。もう失敗はすまいと思いますが、人間ですので何があるか分かりません。これからもおすがりします。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

犠牲と福音(使徒13:26-30)

Scripture(聖書の言葉)

26 アブラハムの子孫の方々、ならびに、神を敬う外国人の皆さん。この救いは、私たちみんなのものです。 27 エルサレムにいるユダヤ人とその指導者たちは、イエスを処刑することで、皮肉にも、預言を実現させたのです。彼らは安息日ごとに預言者のことばが読まれるのを聞きながら、イエスこそ、その預言されたお方であることを認めようとしませんでした。 28 そして、罰せられる正当な理由は何一つなかったのに、どうしても死刑にするようピラトに要求したのです。 29 こうして、預言どおりにイエスは死なれたのです。そのあと、イエスの遺体は十字架から降ろされ、墓に葬られました。

30 しかし神様は、このイエスを復活させてくださったのです。

Observation(観察)

アンテオケの教会でパウロは薦められてイエス様を証する。神の救いはイエス様によってなされるが、その実現はご自身が献げ物として十字架で死なれ、生き返ることであった。なんとその実現は救いを受けるはずのユダヤ人とその指導者達によるイエス様の殺害によってなされた。

救われる当人が、身代わりになってくれようとしている人を殺害するとは、なんという皮肉だろうか。この一節だけでも、人間という存在の情けなさ、救いの無さに愕然とする。

しかし、罪ある人間では人間を救えないのだから、このような特殊な方法でイエス様は私たちの贖いとなって下さったのだ。

Application(適用)

年齢を重ねるほど(内省する時間が増えたせいか)人間というものの弱さ、情けなさ、心の醜さがはっきり見えてくる。それと同時に、イエス様の救いがいかに重要で、罪の贖いは簡単なものでは無かったのだと理解出来るようになった。

私が若い頃、イエス様の救いをどう感じたかを例えるなら軽い防水ジャンパーくらいに感じていたと思う。今どう感じているかといえば、血の染みたずっしりと重い毛布をかぶっている様な感覚である。罪の重さを理解せずにイエス様を知ることは出来ない。ハッピーなことでは無いが、どうしても必要なことだと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、福音は貴方の犠牲と復活で成り立っています、とくに犠牲のことを思うとき、あなたが代わりになってくれた痛みと苦しみを思い、申し訳ない気持ちと感謝と、なんとも重たい気分になります。軽い思いで受け取って、カジュアルにクリスチャンを名乗って生きる人も居るかもしれませんが、わたしはそうなることは出来ません。いつもイエス様の死と犠牲を思い、復活を思うものとなりたいです。結果少数派となっていてもかまいません。貴方のそばに居させて下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

さばくよりも執り成しを(出エジプト40:12-15)

Scripture(聖書の言葉)

12 次に、アロンと息子たちを幕屋の入口に連れて来て沐浴させ、 13 アロンに聖なる装束を着せて油を注ぎなさい。祭司としてわたしに仕えることができるように、彼をきよめなさい。 14 次に、彼の息子たちを連れて来て祭司の式服を着せ、 15 父親と同じように彼らにも油を注いで祭司とする。その『油注ぎ』は何代にもわたり、永遠に続く。息子たちも、そのまた息子たちも、永遠にわたしの祭司となるからだ。」

Observation(観察)

アロンとその息子達に対する祭司の油注ぎについて書かれている。この油注ぎは「任職」を意味し、彼とその一族がは生涯神と人との間に立ち、人々の犯す過ちについて赦しの為の犠牲を払い、神の怒りを避ける働きに就いたことを意味している。

イエス様が来られ、十字架で犠牲を払い、永遠の大祭司となられた後は、イエス様ご自身が永遠の献げ物となられたので、私たちクリスチャンもアロンとその子らと同様に神に近づき、(新たな生け贄を携えず、手ぶらで)神に奉仕することが出来る。これが万人祭司という考えだ。私たちもこの任職の油を受けているのだ。

Application(適用)

しかし私たちは祭司として立つとき、誰と神とのの間に立って執り成しをするのだろう。自分の気に入った人のためであろうか?あるいは自分に敵対する人のためだろうか?自分自身のためであろうか?

もはやその区別は無い。イエス様は全ての人のために死なれた。そのイエス様という献げ物をもって聖所に私たちが入るのなら、私たちが執り成すのは私たちの関わる全ての人のためであるべきだ。

私たちは裁きつかさであるまえに祭司であろう。互いの弱さを知って執り成そう。そして共同体として前進してゆこう。

Prayer(祈り)

イエス様、気に入らない情報を見聞きすると、ついさばきたくなります。排斥したくなります。けれどもこれでは神の民は成り立ちません。互いを尊敬し、執り成し、仕え合う群れとして下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。