カラスに学ぶ(ルカ12:19-24)

Scripture(聖書の言葉)


19 ひとり満足した金持ちは、われとわが身に言い聞かせたのです。『もう何も心配はいらないぞ。これから先何年分もの食料がたっぷりある。さあ、食べて、飲んで、楽しくやろう。』 20 しかし神は、こう言われました。『愚か者よ! あなたのいのちは、今夜にもなくなる。そうしたら、ここにある物は、いったいだれのものになるのか。』 21 いいですか。この地上でいくらため込んでも、天国に財産を持っていない者は、愚か者なのです。」

22 それからまた、弟子たちのほうを向き、先を続けられました。「ですから、言っておきましょう。食べ物は十分か、着る物はあるか、といったことでいちいち心配するのはやめなさい。 23 人のいのちは、食べ物や着る物よりどれだけ価値があるか知れないのです。 24 からすを見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉を持っているわけでもありません。それでもゆうゆうと構えていられるのは、神が養ってくださるからです。神の目には、からすなどより、あなたがたのほうが大切なのです。

Observation(観察)


イエス様の金持ちの例話である。成功した金持ちはこの世の持ち物で満足し安心するが、それは天国には持って行けない。大事な物は目に見えない、天に持って行ける財産だ。

一方で、その日暮らしでも楽しく生きているカラスを見て、この世の財産に右往左往するのでは無く、神が養ってくれることに目を向けるようお話になっている。私たちは神にはカラスよりもずっと大切な物とも言われた。

Application(適用)


勿論、財産を持つことを否定されているのでは無い。この世の財産以上に、霊的な財産を豊かに持つことをイエス様は薦められたのだ。困っている人を助けること、神と人とを愛すること、御言葉を愛し御言葉に生きること、他にもあるかもしれない。そのような宝物を見つけてゆこう。

Prayer(祈り)

イエス様、この世に生きることは簡単ではありませんが、イエス様が養ってくれることが分かりました。もっと天に持って帰れる財産の為に心を使います。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

祝福を大事にする(創世記27:33-37)

Scripture(聖書の言葉)

33 なんということでしょう。イサクは見る間にぶるぶる震えだしました。「では、ついさっき鹿の肉を持って来たのはだれだったのだ。私はそれを食べて、その男を祝福してしまった。いったん祝福した以上、取り消すことはできない。」

34 あまりのショックに、エサウは気が動転し、激しく泣き叫びました。「そんな、ひどいですよ、お父さん。私を、この私を祝福してください。ね、どうかお願いします、お父さん。」

35 「かわいそうだが、それはできない。おまえの弟が私をだましたのだ。そして、おまえの祝福を奪ってしまった。」

36 「ヤコブときたら、全く名前どおりだ。『だます者』〔ヤコブという名には『つかむ人』(25・26)以外に、この意味もある〕とは、よく言ったものだ。あいつは長男の権利も奪った。それだけでは足りず、今度は祝福までも盗んだってわけか。お父さん、念のため聞きますが、私のためには祝福を残してくれていないのですか。」

37 「すまんが、私はあれを、おまえの主人にしてしまった。おまえばかりではない。ほかの親類の者もみな、あれの召使になるようにと祈った。穀物やぶどう酒が豊かに与えられるとも保証してしまったし……、ほかにいったい何が残っているというのだ。」

Observation(観察)

イサクがエサウに与えるべき祝福を、ヤコブに与えてしまった件である。エサウの暗愚さとか、ヤコブの狡猾さ、リベカの歪んだ愛情、いろいろ背景はあるが、ここでは「祝福」について考えたい。

イサクの言葉には「いったん祝福した以上、取り消すことはできない。」「穀物やぶどう酒が豊かに与えられるとも保証してしまったし……、ほかにいったい何が残っているというのだ。」という表現がある。

イサクの祝福は一族に与えられた祝福の継承であり、有限の物であった。一方でこれには、一族の長として役割を継承する意味合いもある。ただ家畜や子孫の繁栄を祈るだけでは無く、その背後には神の与えてくれたミッションを引き継ぐ、という重大な意味を含んでいる。

第二コリントには「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」ということばがある。イサクの祝福は有限で引き継がれたら取り返すことも分けることも出来ないが、神の祝福は求めるならば無限に与えられる。と同時に、祝福を受けることは神の働きに立候補するということでもある。

Application(適用)

かつて、色々な聖会に出向き、沢山の牧師に祈っていただいた事を思い出している。勿論先生方は善意で、一生懸命祈って下さった。今の僕を形作ったのは、諸先生方の祈りによるものも大いにあると思う。受け継いだ祝福とミッションを良く祈り受け取り、どのような形であれ今後も神の働きに関わって行きたい。

Prayer(祈り)

イエス様、沢山の祝福を感謝します。あなたから預かっているお働きに誠実に仕えることが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

宣教を迎える(ルカ10:8-12)

Scripture(聖書の言葉)

8-9 喜んで迎えてくれる町では、次のことを守りなさい。出された物は何でも食べることと、病人をいやし、『神の国が、すぐそこまで来ている』と宣言すること、この二つです。 10 しかし、歓迎してくれないような町では、大通りに出て、こう言いなさい。 11 『あなたがたは必ず滅びます。これがそのしるしです。この町のちりは、私の足から払い落として行きます。ただ、神の国がすぐそこまで来ていることは知っておきなさい。』 12 よく言っておきますが、さばきの日には、あの邪悪な町ソドム(悪行のため、神に滅ぼされた町)のほうが、その町より罰が軽いのです。

Observation(観察)

弟子達を宣教に送り出したイエス様は、訪れた先の町の態度に応じた対応を指示された。

よく読むと、弟子を歓迎した町に対しても拒絶した町に対しても、どちらにも『神の国が、すぐそこまで来ている』と告げるよう明示されている。同じことばでも、神の言葉をどう受け取るかによって、祝福の宣言か、さばきの宣言か変わってくる。

私たちにとって『神の国が、すぐそこまで来ている』とは祝福の宣言と受け取れるだろうか。

このような時期にこそ、いつでもアーメンと言って神の働きに期待し感謝できる者となりたい。

Application(適用)

ミッショントリップの皆さんなど、神の働きに就く人に対して、わたしの態度はもしかしたらいつも一歩引いていたかもしれない。

あこがれもあり、うらやましさもあり、複雑な感情だ。人間的には”僕の果たされていない夢を実現した人”と妬む気持ちもきっとある。

宣教する人も、支援する人も、共にイエス様の働きを担っている。自分の召しに対する悩みは横に置いて、一緒に神の働きを笑顔を持って進める者となりたい。

Prayer(祈り)

イエス様、いまもイエス様と一緒に労されている方々がいます。その方々と共に喜び、共に労苦する心を与えて下さい。冷めて傍観するのでは無く、一緒に伝道できるようにして下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

イエス様について行く人(ルカ9:23-27)

Scripture(聖書の言葉)

23 それから、一同に言われました。「いいですか。わたしについて来たい人はだれでも、自分のつごうや利益を考えてはいけません。日々自分の十字架を背負い、わたしのあとについて来なさい。 24 自分のいのちを救おうとする者は、かえってそれを失います。ですが、わたしのために自分のいのちを捨てる者は、それを救うのです。 25 人はたとえ全世界を手に入れても、自分自身を失ってしまったら何にもなりません。 26 わたしが自分と父と聖なる天使との栄光を帯びてやって来る時、わたしとわたしのことばとを恥じるような者たちのことを、わたしも恥じるでしょう。 27 よく言っておきますが、あなたがたの中には、神の国を見ないうちは決して死なない者たちがいます。」

Observation(観察)

何度も取り上げている箇所だが、今日は特にこの点を重視したい。「自分のいのちを救おうとする者は、かえってそれを失います。」「人はたとえ全世界を手に入れても、自分自身を失ってしまったら何にもなりません。 」この二つの文章は、自分の生存の為であっても、自分の利益のためであっても、自分を中心に置いている限り、自分自身を見失い、滅びに至る。と言うことだ。

人間は単体で生きることが出来ない生物であり、家族や社会に頼り成長し、成長して社会を構成することで「種」としての人類を存続させる。この生命のありようも、霊の世界の「型」と見なすことは出来ないだろうか。

教会は生まれたばかりのクリスチャンを教え育て、成長したクリスチャンはイエス様の後を付いて神の働きをする。一人一人が自分の利益よりもイエス様を優先する生き方をしていったとき、クリスチャンとしての「種」が有るべき形に整えられてゆく、そのように考えた。

Application(適用)

私は自分勝手な望みで長く生きていた。イエス様にもう一度私の役割はなんですか、と尋ねよう。

まだ何十年もかかる事かもしれないし、単純なことの繰り返しが役割かもしれない。

それでも、それが神の国の働きになるのなら、それで良い。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたについて行く、という意味を勘違いしていたかもしれません。イエス様の働きを担わせていただくことはどんなことであっても光栄と喜ぶものになりたいです。どんなことにあっても誠実な者となれますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

巻き添えを食わないために(創世記20:14-18)

Scripture(聖書の言葉)

14 アビメレク王は、羊と牛と男女の奴隷をアブラハムに与え、妻のサラを返しました。

15 王は、「さあ、私の領地を見てごらんなさい。どこが気に入りましたか。どこでも好きな所に住んでかまいません」とアブラハムに言うと、 16 サラのほうを向いて続けました。「あなたの『お兄さん』に、弁償金として銀貨一千枚を差し上げることにしよう。それで万事収めてもらえないだろうか。これで、間違いはなかったと認められるだろう。」

17 アブラハムは神に、王と王妃をはじめ、一族のすべての女性の病が治るようにと祈ったので、彼女たちはまた子どもを産むようになりました。 18 というのは、アビメレクがアブラハムの妻を召し入れた罰で、みな子どもができないようにされていたのです。

Observation(観察)

アビメレクはそれとしらずアブラハムの妻サラを召し入れてしまった。結果彼の一族の女性がみな病気になるという事態になってしまう。幸いアビメレクはサラに手出しする前に神の介入があり、アビメレクが土地と賠償金を支払うことで事態は丸く収まった。

アプラハムは以前にも同じ事をエジプトで行っている。推測の域は出ないが妻との関係において何らかの心の弱さがあったのかもしれない。

とばっちりを受けたのはアビメレクである。知らないうちに呪いを受け、一族が根絶やしになるところであった。最終的には当事者であるアプラハムの祈りによって女性達は再び子供を産むようになった、とある。

Application(適用)

わたしたちはどうであろうか、知らずして神の計画に衝突して痛い目に遭ってはいないだろうか。アビメレクはここでは善人とも悪人とも書かれてはいない。ただこの後の記述で土地や井戸のことでアブラハムと利害関係があったことは確かなようだ。

私たちは見た目で神の計画で動かされている人を見分けることは出来ない。若いからとか見た目がわるいからと言って蔑んではいけない。むしろ私たちは彼らの神の計画を妨げることの無いよう祈り、あらゆる人に対しても高ぶらず、謙遜に仕える姿勢を保ちたい。

Prayer(祈り)

イエス様、アビメレクのような無用な苦労や呪いを受けたく有りません。神様のご計画の邪魔をしたくないのです。人間の目ではそれを見分けることは出来ません。ですからさらに謙遜になって仕える者と変えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

破れ口に立つ(創世記18:17-25)

Scripture(聖書の言葉)

17 その時、主は考えました。「わたしの計画をアブラハムに隠しておいていいだろうか。 18 アブラハムの子孫は大きな国になるのだし、世界中の国々が彼のおかげで祝福を受けるのだ。 19 わたしは彼を選んで、主を敬う、正しく善良な者たちを彼の子孫から起こそうとしている。その約束は果たさなければならない。」

20 そこで主は、アブラハムに打ち明けました。「ソドムとゴモラの住民は、すっかり悪に染まってしまったという。ずいぶんひどいことをしているようだ。 21 今、その知らせがほんとうかどうか調べに行くところなのだ。向こうに着けばはっきりわかるだろう。」

22-23 ほかの二人は、そのままソドムへ向かいましたが、アブラハムはなお主の前に立っていました。彼は恐る恐る神に近づいて言いました。「お尋ねしてもよろしいでしょうか。あなたは正しい人も悪人も同じように殺してしまうおつもりですか。 24 もしあの町に正しい人が五十人いたとしても、それでも滅ぼされますか。その人たちのために町を救おうとはなさらないのですか。 25 だとしたら、正義はどこにあるのでしょう。悪人も正しい人もいっしょに殺してしまうなどということを、あなたがなさるはずはありません。もしも、もしもそんなことをされるなら、正しい人も悪人も全く同じ扱いをされることになってしまいます。あなたは決してそんなことはなさらないでしょう。全地をさばかれる方は、公平でなければならないのですから。」

Observation(観察)

悪徳と背徳の町であったソドムとゴモラを滅ぼそうとする神のご計画について知ったアブラハムは僅かにいるであろう正しい人のために執り成しを続ける。神を前にしての交渉は恐ろしい事では無かっただろうか。

神との契約があったとは言え、神に対して異を唱えることの恐ろしさは、最も神を畏れる者であったアブラハムにとってどれほど大変なことであったか。

しかしそれでもアブラハムは退かず、懸命に交渉を続ける。彼をそれほどまでに駆り立てるのは、単に甥ロトのためばかりでは無く、世と神のギャップを埋める、執り成し手としての使命に出会ったのかもしれない。その使命の故に神は、あえてアブラハムに神のご計画を告げたのかもしれない。

この世と神のギャップを埋める、破れ口に立つという行為は、イエス様の十字架の予表の一つでもある。

同時に、私たちにも同様に執り成しの働きが期待されていることを忘れてはならない、

Application(適用)

クリスチャンになってしばらくは、この世から離れることが正しいことだと思っていた。逆にある時期はこの世的に成功しつつ人間的な弱さをオープンにするクリスチャンが正しいあり方だ、とも思っていた。

どちらも今は間違いだと感じる。弱さは神に告白し、謙遜に神に本気で従い、この世と人々のために真剣に祈り執り成す事が神に求められている姿と思う。同時に自分の至らなさを悔い改める日々だ。

Prayer(祈り)

イエス様、足りない者ですが、執り成しの働きに加えてください。イエス様が人々を愛され、救おうとして下さっているからです。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

アブラハム契約(創世記15:17-18)

Scripture(聖書の言葉)

“日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。”

創世記 15章17~18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

アブラハム契約と呼ばれる箇所である。契約の準備として、献げ物を二つに割き、向かい合わせに並べることを主はアブラムに命じられた。本来ならば、契約を結ぶ双方が献げ物の間を通ることで対等な関係としての契約が成立するが、主なる神はその様にせず、アブラムを深い眠りにつかせ、お一人で契約を成立された。これは、アブラム側には何の条件もつけず、神お一人が一方的に祝福を約束される契約であることを意味している。

そしてこれは、無条件の救いを下さるイエス様の十字架の契約の雛形である。

重要なのは祝福に先立って、その後ろ盾として契約が存在することだ。

私たちが苦しい時、神の祝福を求めるが、その時どの様な契約の故に祝福が約束されているのか、思い起こさなければならない。

神の祝福は、神様側、イエス様側100%の好意による一方的な契約によって与えられ、私たち側の努力や熱心による物ではない。唯一私たちがすべきなのは契約を結んでくださった神への感謝である。

Application(適用)

物事がうまくいかないと、「このことで神が怒っているのかも」「これこれが不足しているから祝福が届かないのかも」と思ってしまいがちになる。一方で物事が順調だと神の方に心を向けず、自分が努力したからだ、と思いたくなってしまう。どちらも間違いだ。神を信じた私がすべきことは、あらゆる時に、全てを神からのものと受け取り、契約を信じ、神を賛美し喜ぶことなのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、自分が足りないと思うことも、自分が正しいと思うことも、自分を神よりも上と思う高ぶりから来るものと知りました。

どの様な状況でも、ただ神を讃え、喜び続けるものと変えて下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の国に住む(ルカ6:20-23)

Scripture(聖書の言葉)

20 それからイエスは、弟子たちのほうをふり向き、話し始められました。「あなたがた貧しい人は幸福です。神の国はあなたがたのものだからです。 21 いま空腹な人は幸福です。やがて十分満足するようになるからです。泣いている人は幸福です。もうすぐ笑うようになるからです。 22 わたしの弟子だというので、憎まれたり、追い出されたり、悪口を言われたりするなら、なんと幸いなことでしょう。 23 そんなことになったら、心から喜びなさい。躍り上がって喜びなさい。やがて天国で、目をみはるばかりの報いがいただけるからです。そして、同じような扱いを受けた、昔の預言者たちの仲間入りができるのです。

Observation(観察)

山上の垂訓について、解釈はさまざまあるが、まっすぐに読むなら、報いはすべて永遠の天の御国、神の国にある、と言う物だ。

現世での利益、繁栄について語るキリスト教諸派も多くあるが、イエス様の語られた本質は、あくまで「神の国」であり、この世での癒しも繁栄も、イエス様のあわれみによるギフトである。それは喜んで受け、求めるべき物だが、それでも神の国の素晴らしさに勝る物では無い。

迫害に遭った多くのクリスチャン達は、この世での自身の繁栄をみて迫害に耐えたであろうか?そうではない、天を見上げて喜んだのだ。

イエス様の時代、医療も栄養も十分でなく、ローマの属国でも有った。このような時代に生きる人々にとって死は現代に比べてとても身近な物だっただろう。だからこそ、隣り合っている死に誠実に向き合ったのだ。

Application(適用)

私はどうであろうか、お金のことで一喜一憂し、病気になれば嘆きあちこちに愚痴り、誤解されれば怒り心頭で告発して歩く。。神の国を思うことなど一日に一度もあるだろうか。

私はこれを変えなければならない。日々天のことを思い、天の父なる神を想う者と変えられたい。そうすれば、イエス様の言われたとおり「もうすぐ笑うようになるからです。」という物になれるはずだ。

Prayer(祈り)

イエス様、神の国にふさわしい物に変えて下さい。今この瞬間から神の国の住民にならせてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神を礼拝する旅路(創世記12:7-9)

Scripture(聖書の言葉)

7 その時、主がアブラムに現れ、「この地をあなたの子孫に与えよう」と約束されました。アブラムは喜んで、主とお会いした記念に、そこに祭壇を築きました。 8 彼はそれからさらに南へ向かい、西のベテルと東のアイにはさまれた丘陵地帯に来ました。アブラムは野営をし、主のために祭壇を築いて祈りました。 9 そのあとはまた、時々休みながらゆっくりと南のネゲブへ向けて旅を続けました。

Observation(観察)

アブラムは75才の時に神の語りかけを受け、住み慣れた土地を出発した。宿営した地で主が表れ「この地をあなたの子孫に与えよう」と言われた。アブラムは喜んで、主とお会いした記念に、そこに祭壇を築いた、とある。また旅を続けながら祭壇を築きつつ南に向けて旅を続けた、とある。

Application(適用)

短い節だが、アブラハム(アブラム)と神との関係が垣間見える箇所だ。高齢であてどなく出発したアブラムではあったが、神の語りかけによって正しい方向に向かい祝福されていることを知り、記念に祭壇を気づき、次の目的地に進んでいった。

私ももう、若い、と言われる年齢をとうにこしている。そしてどこに向かっているのか見当が付かない。歩むには神の語りかけが必要だ。道を誤ったら反省し引き返し、正しい道とわかったら喜んで祈りの祭壇を築き神をたたえよう。行く先がどこであれ神をたたえる生涯となりたい。

Prayer(祈り)

イエス様、いまだ迷っている出来の悪いしもべです。一歩一歩「これが道だ、これにすすめ」と教えて下さい。あなたを喜んでその旅路を行く者として下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

(写真はベテルの祭壇と言われる建物)

神の国を求める(ルカ4:42-43)

Scripture(聖書の言葉)

42 翌朝早く、イエスはただ一人、人気のない寂しい所へ行かれました。人々はあちこち捜し回り、やっとのことでイエスを見つけ出すと、もうどこへも行かないように頼みました。 43 しかし、イエスはお答えになりました。「ほかの町々にも、神の福音(救いの知らせ)を伝えなければならないのです。そのために、わたしは来たのですから。」 44 こうしてイエスは、ユダヤ中を旅し、各地の会堂で教えられました。

Observation(観察)

カペナウムでの奇跡の後、イエス様は翌朝、人気の無いところに行かれた、祈るためであっただろうか。奇跡に沸く民衆から離れたかったのかもしれない。案の定人々はイエス様を見つけ出し、ここに留まってくれるよう頼んだ。しかしイエス様の答えは「ほかの町々にも、神の福音(救いの知らせ)を伝えなければならないのです。そのために、わたしは来たのですから。」イエス様の目的は奇跡では無く福音を伝えることであった。人々に様々な必要があることはイエス様は勿論知っていた。けれどもそれ以上に福音は重要な物なのだ。

Application(適用)

生きていれば怪我もするし病気もする、人間関係も煩わしさになやむこともあれば自分の心の問題に悩むことも多い。イエス様に助けてと願うこともしょっちゅうだ。しかし、イエス様の優先順位は福音を伝えることにある。癒しや回復を求めると同時に、神の国を第一に求めよう。苦しいときには難しいかもしれないが、ことしはそれをしてみようと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、弱ったときにはあなたに頼りますが、そのときでも神の国を求めるものであろうと思います。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。