水から引き出される(出エジプト記2:10)

Scripture(聖書の言葉)

10 やがてその子は大きくなり、養子として正式に王女の屋敷へ引き取られました。王女はその子をモーセ〔「引き出す」の意〕と名づけました。水の中から引き出した子だったからです。

Observation(観察)

ゴシェンの地に移り住んだイスラエルは何世代かを経て、巨大な民族になっていた。それを恐れた後代の王は、イスラエル人の男子を川に投げ入れ殺すように命じる。しかし、モーセは瀝青で防水された葦の船で流される。それは不思議な巡り合わせでエジプトの王女の目にとまり、モーセ(水の中から引き上げる)と名付けられ、生母を乳母として雇うこととなる。

水の中から引き出す、決定づけられていた死から生が与えられることを意味する。バプテスマのヨハネも、イエス様も、過去の自分に死んで新しく生きることを教えられた。モーセの時から、この原則は予表されていたのだ。

Application(適用)

モーセの人生は奇跡と困難の連続ではあったが、神の与えられた働きを誠実に行った人生であった。私も今一度過去に死んで、昨日の失敗は横に置いて、今日新しい一日を誠実に生きようと思う

Prayer(祈り)

イエス様、過去を捨て、新しい日を精一杯、誠実に生きようと思います。あちこちに罠や落とし穴があって、いつも失敗しますが、注意深く行動とことばを選んで参ります。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖書を曲解しないために(ルカ20:37-38)

Scripture(聖書の言葉)

37-38 しかし、あなたがたがほんとうに聞きたいのは、復活があるかないかということでしょう。モーセ自身は何と書き残していますか。燃えさかる柴の中に現れた神とお会いした時、モーセは神を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』(出エジプト3・6)と呼びました。主を彼らの神と呼んでいる以上、彼らは生きているはずです。神は死んだ者の神ではありません。神に対して、みなが生きているのです。」

Observation(観察)

復活は無いと考えているサドカイ人がイエス様に無理難題を押しつける所の場面だ。サドカイ派に関する情報は歴史にほとんど残っていない。彼らが「復活は無い」と考えるに至った経緯も不明である。ただ彼らは神殿に仕える祭司のグループであったことは確かだ。そのような彼らが聖書をどのように読み間違えて復活を否定する教義を持ってしまったのかは分からない。

Application(適用)

重要なのは、聖書を曲解させ誤った結論に向かわせるバイアスは私たちの内面にもあることを忘れてはいけない。そうならないためには、日々聖書を開き、聖霊様によって思いを正しくされる事だ。またメンターのアドバイスもとても重要だ。

イエス様は「神に対して、みなが生きているのです。」これまでの全ての死者にとっても、今生きている人、これから生まれてくる子供達にとっても、神は神なのだ。神の教えを理解し、神から与えられた命を生きよう。

Prayer(祈り)

イエス様、みことばをそのまま受け止め、聖霊様によって理解を与えられるよう、まっすぐな心を私に下さい。「こう解釈した方が〜」という誘惑はいつも来ます。しかしあくまでみことばにとどまって恵みを受け取りたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ロバの子という特異点(ルカ19:30-35)

Scripture(聖書の言葉)

30 「さあ、あの村へ行って、道ばたにつないであるろばの子を捜しなさい。まだだれも乗ったことのないろばの子です。見つけたら、綱をほどいて連れて来るのです。 31 もしだれかにとがめられたら、『主がお入用なのです』とだけ答えなさい。」 32 二人は、言われたとおりろばの子を見つけました。 33 綱をほどいていると、持ち主が来て、「何をしているのだ。おれたちのろばの子をどうしようというのだ」と聞きただしました。 34 弟子たちは、「主がお入用なのです」と答え、 35 ろばの子を連れて来ました。

Observation(観察)

日曜学校で良く題材になる箇所である。イエス様は弟子にロバの子を探すように命じる。だれも乗ったことの無いロバの子だ。この時点では名の用途に使うかも説明されていない。言われたのは「だれかにとがめられたら、『主がお入用なのです』とだけ答えなさい。」」と言うことだ。どうにも理屈の通らない指示だが、弟子達は従った。すると、ロバの子を発見し、持ち主に予定通りとがめられ、「主がお入用なのです」と答えだ。なぜかその後は議論も騒ぎも無く、持ち主はロバの子を提供した。

Application(適用)

神の計画のなかでは、チェックポイントのようにどうしてもここを通過しなくてはならない、という箇所があるような気がしている。ここではロバの子を得ることである。これはゼカリア9:9で「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」という預言が実現するためだ。

弟子達はなんだか分からなくても従った。イエス様はロバを強奪してこいと言われたのでは無く、持ち主に説明する内容も指示している、いささか奇妙な内容だが持ち主も納得している。歴史の力が彼を納得させたのでしょうか?

わたしも歴史の必然の場に居て、神の働きが進む瞬間を見届けたい。できればイエス様の働きを進める側に立って。

Prayer(祈り)

イエス様、人間の目と脳では図れない不思議な業をあなたはなさいます、今世界で起きていることは私には何も分かりません、論評することも恐ろしくて出来ません。ただ主のみ旨がなりますようにと願うばかりです。ずっと後になって、あそこが歴史の分岐点だった、あそこに私が居た、と気づけるように理解力を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の国に入る(ルカ18:24-30)

Scripture(聖書の言葉)

「金持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことでしょう。 25 それよりは、らくだが針の穴を通るほうが、よほどやさしいのです。」 26 これには弟子たちも驚き、思わずことばを返しました。「そんなにむずかしいのですか。だとしたら、救われる人などいるでしょうか。」 27 「人にはできません。だが、神にはできるのです。」 28 すかさずペテロが口をはさみました。「私たちは家も捨てて、お従いしました。」 29 「そうです。あなたがたのように、神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者はだれでも、 30 この世ではその何倍もの報いを受け、やがて来る世では、永遠のいのちまでいただけるのです。」

Observation(観察)

「全財産を施した後、弟子としてついて来なさい」と言われた金持ちのパリサイ人は、がっかりして帰って行った。救いというものを人間側の努力で勝ち取ることの難しさをイエス様は「金持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことでしょう。 25 それよりは、らくだが針の穴を通るほうが、よほどやさしいのです。」と表現されている。一方で、「人にはできません。だが、神にはできるのです。」とも言われている。

救いは100%神のあわれみによるものだ。(人間の目線で)正しいことをしたから救いを受けるというものでは無い。

救いは人間の力で行き着けるところでは無い、という認識にたどり着かずに、謙遜になって神に恵みを求めることは出来ない。冒頭の金持ちも、私には出来ません、救って下さい。と答えれば、イエス様は、彼を弟子に加え、救いについて詳しく教えて下さったのかもしれない。

Application(適用)

逆に私は救いを受け入れてから、人間的な不足と弱さに打ちのめされることが多い。「こんなに駄目なのに見放されないことはなぜだろう」と真剣に考えた事がある。

答えは、これがイエス様からの一方的な「契約」だからだ。自分の状況の如何を問わず、救いは与えられ続けている。私たちは対価を払わず、膨大な神の祝福を受け続けているのだ、これは、大変なことだ。私たちがお返しできることは何も無い。私たちが出来ることはただ感謝と賛美のみなのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、昔、貧乏で何もかも失ったときにイエス様を信じました。今も金持ちではありませんが、当時の気持ちに戻って、謙遜な心で今日もあなたのところに行きます。恵みを喜んで感謝し賛美します。今日もあなたと過ごさせて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の国の領地を拡大する(ルカ17:20-21)

Scripture(聖書の言葉)

20 ある日、パリサイ人たちがイエスに尋ねました。「神の国はいったい、いつ来るのですか。」イエスは答えて言われました。「神の国は、目に見える形では来ません。 21 『ここに来た』とか、『あそこに来た』とか言えるものではないのです。はっきり言いましょう。神の国は、あなたがたの中にあるのです。」

Observation(観察)

イエス様は神の国の到来について何度も話されている。ユダヤの人々はそれをローマ支配からの独立ととらえたり、新しい王制の勃興を期待していたようだ。

けれどもイエス様は、神の国は私たちの中にある、と言われている。いつ来る、とかどのように来る、という観点でとらえるべきものでは無く、「すでにこられているものを再発見する」のだと言われているのだ。

神から離れている人であっても、「創造主である神」という概念が残っているなら「霊の残り(マラキ2章)」が未だ神を求めているのだ。

ましてイエス様を信じ受け入れたものであるなら、私たちの内面の主体をイエス様に明け渡したいと願う。イエス様を王とした神の国は、私たちの内にすでにあり、私たちの人間的属性、原罪に対峙している。しかし私たちが自分を明け渡し、歓迎するならば、私たちは神の国の民となる。

Application(適用)

イエス様が自分の代わりに生きて下さい、と何度も叫んで願った事がある、それは大概自分で抱えきれない失敗をしたときだ、明け渡すと言うより丸投げに近い。逆に成功しているときは、明け渡す、という概念がピンとこなくなる、それほどに自我が肥大してしまうのだ。

中庸な今こそ、イエス様を中心にした生き方を実践しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたの喜ばれる生き方を選びたいです。緊急事態の時では無くても、あなたに頼りあなたを喜ぶものになりたいです。足ることを知り、平安を保ち、助けあうひとになりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

御言葉に聞く(ルカ16:27-31)

Scripture(聖書の言葉)

27 金持ちは言いました。『ああ、アブラハム様。それならせめて、ラザロを私の父の家にやってください。 28 まだ五人の兄弟が残っているのです。彼らだけは、こんな目に会わせたくありません。どうぞ、この恐ろしい苦しみの場所があることを教えてやってください。』 29 『それは聖書が教えていることではないか。その言うことを聞くべきです。』 30 金持ちはあきらめません。『でも、アブラハム様。彼らは聖書を読みたがらないのです。ですが、もしだれかが死人の中から遣わされたら、彼らも罪深い生活を悔い改めるに違いありません。』 31 アブラハムはきっぱり言いました。『モーセと預言者たちのことばに耳を貸さないのなら、だれかが生き返って話したところで、彼らは聞き入れないだろう。』」

Observation(観察)

神を敬わず、死後地獄に行った金持ちは、天国にいるアブラハムに懇願する。金持ちの五人の兄弟達に、地獄があること、としてこんなところに来ないように罪深い生活をやめるように伝えてほしいということだ。

しかしアブラハムは『それは聖書が教えていることではないか。その言うことを聞くべきです。』 と断る。金持ちは『もしだれかが死人の中から遣わされたら、彼らも罪深い生活を悔い改めるに違いありません。』と食い下がっている。

最終的にアブラハムは『モーセと預言者たちのことばに耳を貸さないのなら、だれかが生き返って話したところで、彼らは聞き入れないだろう。』と答えている。これはイエス様の復活を指している。実際にイエス様の復活を見ても神を信じない者は大勢居た。現代でもイエス様の誕生や復活を多くの人は喜んで祝うが、イエス様に従おうとする人は本当に少ない。

Application(適用)

神の正しさと生きるべき指針は、聖書の中に明らかに示されている。その中でもイエス様の死と復活についてが中心的なテーマだ。グーテンベルグの発明以来、創造を絶する量の聖書が印刷され世界中に届けられている。にもかかわらず敬虔に生きようとする者の数は少ない。

アブラハムの言う、「モーセと預言者に耳を貸す」とは、実際に聖書を開いて、神の言葉として心に届ける、という意味だ。ただ持っていたり、気まぐれにあちこちページを開くだけでは神の言葉は届かない。

もしも裁判所から一冊の本が届いて、「これを一年間きちんと読まなければ無期懲役で投獄されます」と言われたらどうだろう。一字一句落とさず必死に読むのでは無いだろうか。もちろん神はそのような条件を出すことはされないが、自分の魂の糧をないがしろにする事は避けたい。

もしも神を信じている、というのであれば、神の言葉に誠実に向き合いたいのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、御言葉を読んでいます。けれどあなたの語られる事をより深く知りたいです。聖霊様、助けて下さい。聖書全体を通して語られるテーマと箇々の節が私の中で有機的につながりますように、生きておられる神の言葉が私の中で生きる者となって働いて下さいますように。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

見付けられた者(ルカ15:8-10)

Scripture(聖書の言葉)

8 別のたとえで話してみましょう。女が銀貨を十枚持っていて、もし一枚なくしてしまったら、女はランプをつけ、家の中をすみからすみまで掃除して、その一枚を見つけるまで、必死で捜し回るでしょう。 9 そして見つけ出したら、友達や近所の人を呼び、いっしょに喜んでもらうでしょう。 10 同じように、一人の罪人が罪を悔いて神のもとに帰った時、天使たちはたいへんな喜びにわくのです。」

Observation(観察)

イエス様が取税人や罪人達と食事をすることをパリサイ人達に批判されたイエス様は、失ったと思われる物が戻ってくることを例えに話をされた。100匹の内の一匹の羊、10枚の銀貨の内の一枚、そして有名な放蕩息子の例えだ。

大事にしている人や物を失ってしまうことはとても辛く悲しいものだ。いつ見つかるのか、果たして帰ってくるのか、どのように暮らしているのか、想像するだけ悲しくなる。ヨセフを失った(死んだと思った)ヤコブは何週間も慰めを拒んで食事もとらず嘆き悲しんだとある。

Application(適用)

私たちも失う側に立つときがある。家族を失ったときの喪失感は本当に耐えがたい。不完全な私のような人間ですらそうなのだから、父なる神がイエス様を十字架に付けたときの悲しみはどれほどであっただろうか。

また私たちは見つける側になることもある。先日家内がお気に入りの眼鏡を無くし、一ヶ月以上、家中を探し悲しんでいた。しかしふとした時に、突然出現したかのように無くなったはずの眼鏡が見つかった。このときの家内の喜びようはすごかった。

イエス様が失われていた私たちを再発見されたときは、どれほど喜ばれたことだろう。

イエス様に喜ばれているものであることを忘れないようにしよう。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたに立ち返ったとき、あなたは「死んだものとあきらめていた息子が生き返り、行方の知れなかった息子が帰って来たのだから。」と喜んで下さいました。放蕩息子が父の家に帰り住んだ様に、私もあなたのところにずっと住まわして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

弟子になる対価(ルカ14:27-33)

Scripture(聖書の言葉)

“自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。

そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。”

ルカの福音書 14章27~33節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

イエス様はこの例え話で、物事を完成させるためにはそのために必要な対価、代償を見極めなければならないことをお話しされている。

一見、この例えと33節の「そういうわけで・・」がつながらない様に見えるが、そうではない。イエス様の弟子になるという目的には何が対価なのかを明確にイエス様は説明されている。33節では「自分の財産全てを捨てなければ」とあり、また、26節では「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」とすら言われている。

もしも間違って読むと、全財産を寄付して出家しなさい、という別な宗教のように感じてしまうが、イエス様の求めていることは異なる。イエス様の弟子になる、とは、自分の人生をもはや自分の所有物として好き勝手に生きるのではなく、イエス様に倣ってイエス様を生きる事なのだ。パウロは、「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と言っている。今持っている全てものはイエス様のものでイエス様と共に働くために役立てるためのものと心得たい。

そして、イエス様の弟子として生きることは、その献げた対価に値する。神のご計画に参加して生きる人生以上に価値あるものはない。

Application(適用)

とはいうもの、原罪ある身である私は、どこまで行っても完全になることはできない。また聖人君子の様な生き方をイエス様は望まれているのではない。できないことに理屈をこねるのではなく、ただ、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言えるような素直な心を持ちたいと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたに従いたい、ついてゆきたいと願うものですが、なかなかうまくいきません。古い人間性や過去の痛みが出てきていつも邪魔をします。このような者ですが、私の人生をあなたの弟子となる対価として受け取って下さるなら、差し上げます。改めて、使ってください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

この世との摩擦(創世記34:24-30)

Scripture(聖書の言葉)

24 全員が賛成し、割礼を受けました。 25 しかし、それから三日後、傷がまだ治りきらず、少しでも動けば痛くてたまらない時、ディナの兄シメオンとレビが、剣を振りかざして町を襲ったのです。彼らは何の反撃もできず、男は一人残らず殺されてしまいました。 26 ハモルもシェケムも殺されました。二人はディナをシェケムの家から取り返し、テントに連れ帰りました。 27 そのあと、ヤコブの息子が全員で町を略奪しました。妹がそこで辱められたからです。 28 町の中にある物も外にある物も、羊も、牛も、ろばも何もかも奪い、 29 女や子どもたちは捕虜にし、全財産を取り上げてしまいました。

30 そのやり方のひどさにヤコブは、レビとシメオンを責めました。「おまえたちのおかげで、私はすっかり憎まれ者になってしまった。付近に住むカナン人やペリジ人は、私のことを、さぞかし血も涙もない男だとうわさするだろう。こちらがこんな少人数では、彼らに攻められたらひとたまりもない。」

Observation(観察)

ヤコブの娘ディナがヒビ人シェケムに手籠めにされた。シェケムは有力者の息子で、その父親共々娘をもらえないか、代わりにこの地に定住しないかと持ちかけた。それに対しレビとシメオンは、町の人々が全員割礼を受けることを条件とした。割礼を受けて痛みで彼らが動けなくなっている頃、シメオンとレビは剣で男達を全員殺し、妹を奪還し、町を略奪した。

直接的な殺人について描かれているのはカインによるアベルの殺害の記事についで二回目だ。それがヤコブの息子達によるものであるのは興味深い。

近隣の町の人々から見たら規模は小さいが恐ろしい集団に見えたことだろう。

それでも、ヤコブの一族は神の祝福を受けた特別な存在として保たれた。人間的な視点で見たら復讐者であり殺人者だ。しかしこの時点ではその働きは明らかにされていない。

また、この事件は、ヨセフが長子の権利を得る遠因になっている。

長男のルベンは別な事情で権利を失い、次男であるレビ、三男であるシメオンもこの件で退けられている。

Application(適用)

このような箇所をどう捉えて良いのか悩むが、イスラエルが独立した民族として成立するまでには他の集団との交流や摩擦は数多くあったことだろう。きれい事では済まないことも多数有ったとも思う。ヤコブにとっては、息子達の起こした問題と神の約束の乖離に、苦しんだことは間違いないと思う。

それは私たちにとっても同様だ。日々の生活は決して清らかな物では無い、自分の感情一つ振り返ってもとても人様にみせられる様な物では無い。けれど神の計画は私たち一人一人にあり、自分の居場所を見失いそうなときであっても連れて行ってくれるのだ。自分にでは無く、ただ神に信頼しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、自分ではコントロールできない事態に翻弄され、疲れてしまうときがあります。

けれども神のご計画は進んでゆきます。お任せします。再び立ち上がる気力を下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

策を弄さない(創世記32:6-9)

Scripture(聖書の言葉)

6 使いが戻りました。エサウは四百人の供を引き連れて、出迎えに来る途中だといいます。 7 恐れていたとおりです。手を打たなければなりません。ヤコブは気が動転しながらも策を練りました。自分たちの一行を、家畜の群れやらくだも全部、二つに分けました。 8 「もしエサウが一方に攻撃をしかけても、もう一方は助かるだろう」と考えたのです。

9 やるだけのことはしました。あとは主に祈るだけです。

Observation(観察)

エサウを騙して長男の権利と祝福を得、出奔したヤコブは、親族であるラバンとのだまし合い、確執の末に家族と財産を得、帰郷する。しかしヤコブはエサウの復習を恐れていた。彼は群れを分ける、贈り物として少しずつの家畜を先行させる、家族を分散する、自分が列の最後に残る、と。自分が生き残るためのあらゆる手段を尽くしてゆく。

しかし、「9 やるだけのことはしました。あとは主に祈るだけです。」と彼の神への祈りは最後の最後である。人間的な手段を尽くすことを私たちはしがちで、私自身も身につまされることが幾つもある。

Application(適用)

ヤボクの渡しでの神との格闘の末、ついにヤコブは神にしがみつき、祝福を求める。この瞬間から彼は変えられた。エサウに会うにも行列の先頭に立ち、策を弄せず正面からエサウに詫び、和解をしている。

いま自分はかつてのヤコブのように行列の最後に残って自分が守られる算段をしていないだろうか?無意識にそのような行動をとっていないだろうか。自戒しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、ヤコブは危機の時あなたに祝福を全身で求め、しがみつき、変えられました。

今私もあなたにしがみつくべき時だと感じます。私を変えて下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。