権利を用いない自由(Ⅰコリント9:16-18)

Scripture(聖書の言葉)

“私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。

では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。”

コリント人への手紙 第一 9章16~18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

非常に逆説的な表現を用いているが、この説では、パウロはあらゆる妨げから自由になるために、自分に認められている権利すら用いない。と言っている。具体例として、パウロは福音のために働くものとして得る当然得るべき報酬を挙げている。

キリストによって与えられた罪からの解放、律法からの自由を履き違えて、行きすぎた行いや、信じて間もない人を躓かせるような行動をする人に対して「権利を用いないという自由があるのだ」、という強烈なカウンターパンチのように受け止められる。6章12節には『「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。』と述べている。

福音による魂の自由を守り抜き、伝道するためにはあらゆる困難に耐え、節制するというパウロのストイックな一面が見て取れる。

Application(適用)

私は果たして真の魂の自由を持っているだろうか、自分で手にしたと思っているものに支配されていないだろうか(例えばスマホ)。25節では「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」とも言っている。神の栄光を共に受けるために、一人でも多くの人の魂を勝ち取るために、あらゆる面で節制する、と書いている。この「競技」とはコロシアムで行われている格闘技を指す用語とも言われている。ギリギリの戦いのために減量して備えるボクサーの様に、自分を制するものでありたい。

Prayer(祈り)

イエス様、パウロの真剣さを僕に下さい。これまでいい加減に生きてきました。残る生涯を、真剣に生きたと振り返ることができる人生にしたいです。

権利を用いないという自由もあることを教えてくださり、感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

伝道について(Ⅰコリント9:20-23)

Scripture(聖書の言葉)

20 私はユダヤ人といっしょにいる時は、ユダヤ人のようにふるまいます。それによって、彼らが福音に耳を傾け、キリストに導かれるためです。また、ユダヤ教の習慣や儀式を守っている外国人といっしょにいる時は、私自身はそのことに同意していなくても、議論したりはしません。何とかして、彼らを助けたいからです。 21 異教徒といっしょにいる時は、できるだけ、彼らに合わせるようにしています。もちろん、クリスチャンとしての正しさだけは失わないように気をつけますが。こうして、彼らに合わせることによって、その信頼を得、彼らをも助けることができるのです。 22 良心を悩ませやすい人たちのそばでは、自分の知識をひけらかすような行動をしたり、「それは考えが足りない」などと指摘したりはしません。すると、彼らのほうでも心を開いてくれます。その人が救われるためには、私はどんな人に対しても同じ立場に立とうと心がけています。 23 これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。

Observation(観察)

パウロの伝道の姿勢について、彼自身が語るのは、「自分の知識を押しつけず」クリスチャンとして間違った行動をしない限り、彼らのそばに居る、というものだ。

「22bその人が救われるためには、私はどんな人に対しても同じ立場に立とうと心がけています。 23 これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。」

伝道にあたっては、自分の経験、知識を押しつけるのではなく、その人に寄り添い、必要な助けの手をのべる、と言うことだ。

自分の知識や正しさで壁をつくって縮こまっていては、教会は成長しないし、「神と人を愛する」ことは実践されない。

私たちの受ける報酬は自己満足ではなく、「23 これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。」

Application(適用)

未信者の人と教会で話すとき、なかなか福音の話に至ることが出来ないこともある。つい焦って話を飛ばして、「ところでイエス様についてどう感じますか?」などと聞いてしまうこともあり、失敗だったなと感じている。一方で世間話だけをして帰られる方もあり、これで良かったのかなと後悔することもある。

しかし大事なことは、その人に寄り添い、その人の痛みと必要を理解する事だと今は感じる。多くの言葉ではなくても、その姿勢でイエス様を表してゆきたい。

Prayer(祈り)

イエス様、自分勝手な自分主導の伝道ではなく、その人の心に寄り添い、理解することが大事だと分かりました。うまく実践できないかもしれませんが、心を込めてこの働きをしたいと思います。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

知識と愛(Ⅰコリント8:1-3)

Scripture(聖書の言葉)

“次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。”

コリント人への手紙 第一 8章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

パウロは偶像に捧げた肉の例えで、知識による行動よりも愛による行動を取るべきだと述べている。知識を得て、「存在しない無力な神に捧げた肉」は人を害しないとわかっていても、未熟な、異なるバックグラウンドを持つ人にとってはそれを食べることはショックを与えることになる。

知識の正しさに基づいて振る舞うより、愛を持って行動を控える、人々を支える方がより優れた行為なのだ。

この節は知識と愛について、二つの対比を行なっている。

1.知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます

2.自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

知識について、何か知っていると思っているなら、まだ必要な知識には届いておらず、それは高ぶりに通じる。

神を愛するなら、神はその人を愛し、育てて下さる。

神によって私たちが神の愛を知り、知識も得るなら、周りの人々を愛し、育ててゆくことができる。

Application(適用)

私は学ぶことが好きで、知識を得ることを楽しんでいた。しかし、知らず知らずのうちに得た知識で他人を裁く思いを持っていたのかもしれない。

まだ私は、知るべきことの麓にすら至っていない。謙遜になって学びを続けよう。同時に神と人を愛し、神によって、神の子供として育てていただこう。神に愛される事で、人を愛することを学び実践しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、知識と愛について学びました。知識だけではあなたに近づくことはできません。神に愛されていることを知り、神と人を愛し、謙遜になって学ぶところにあなたの知恵があるとわかりました。

これからの歩みを祝福して助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

つまづき(Ⅰコリント8:4-9)

Scripture(聖書の言葉)

4 では、この問題はどうなるでしょう。偶像に供えた肉を食べてもよいのでしょうか。私たちはみな、偶像など実際には神ではなく、神様はおひとりだけで、ほかにはいないことを知っています。 5 ある人は、偉大な神々は天にも地にも数多くいると考えています。 6 しかし私たちは、父なる神ただおひとりであることを知っているのです。この神様が万物を創造し、人間をご自分のものとして造られたのです。また私たちは、ただ一人の主、イエス・キリストがおられることを知っています。この方がすべてのものを造り、私たちにいのちを与えてくださるのです。

7 けれども、クリスチャンの中には、このことがわかっていない人もいます。そういう人はこれまでずっと、偶像を生きているもののように考えてきたので、ただの偶像に供えられたにすぎない物を、あたかも実在する神々に供えたかのように思ってしまうのです。そのため、それを食べることがひどく気になり、傷つきやすい良心が痛むのです。 8 ただ、このことを覚えておいてください。 9 ただし、いくら自由といっても、あなたがたがそれを食べたために、あなたがたよりも良心の傷つきやすいクリスチャンがつまずかないよう、くれぐれも注意してください。

Observation(観察)

偶像に献げた肉を食べて良いかどうかについて、パウロは群像は神ではないのだから「神様は、私たちがそれを食べるか食べないかなど気にかけておられません。食べなくても損にはならないし、食べても得をするわけではありません。」と言っている。しかし、その行動が他の新しいクリスチャンを悩ませるなら、それは正しい行動ではない。

私たちの取る行動は、全て神のために益となるようにしたい。そればかりではなく兄弟を達を悩ませ、苦しめるような言動がないか、自分をチェックしよう。

Application(適用)

ずいぶん昔、クリスチャンのある友人が取った行動で、しばらく躓いたことがあった。今思えば、その人の取った行動も適切ではなかったし、私の反応も過敏すぎた。聖書に照らし合わせずこれは悪だ、と決めつけてしまった。結果何日間かは気まずい思いをし、大切な時間を無駄にしてしまった。

同じ事を繰り返さないためにも、他者の言動には明らかに聖書に反さない限り、寛容で居ようと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、私の行動が人を躓かせるようなことがあれば、改めます。教えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

とどまる(Ⅰコリント7:20-24)

Scripture(聖書の言葉)

20 また人は、神の救いを受けた時にしていた仕事を続けるべきです。 21 あなたが奴隷でも、そのことを気にしてはいけません。もし自由の身になる機会があれば、もちろん自由になりなさい。 22 もし奴隷であって主に招かれたのなら、キリストは恐ろしい罪の力からあなたを解放して、自由の身にしてくださったことを忘れてはなりません。また、もしあなたが自由人であって主に招かれたのなら、今はキリストの奴隷であることを忘れてはなりません。 23 あなたがたは、キリストが代価を払って買い取ってくださった身であり、キリストのものなのです。ですから、こうしたこの世の誇りや恐れのすべてから自由になりなさい。 24 愛する皆さん、それぞれがクリスチャンになった時の状態にとどまっていなさい。主が今、助けてくださるからです。

Observation(観察)

パウロは、救われた状態に留まることを勧めている。たとえそれが奴隷であったとしても、気にしてはいけないとまで言っている。私たちはいつも、少しでも良い仕事や立場を求めてジタバタ足掻いてしまう。

しかし私たちはもっと本質的な所でこの世の中の求めるものから離れた立場に置かれている。言い方を変えればもはやこの世は私たちを評価できない、計測不能な存在なのだ。その事にもっと目を向けよう。

一方でパウロは「キリストは恐ろしい罪の力からあなたを解放して、自由の身にしてくださったことを忘れてはなりません。」と述べている。救われる前の自分が何に囚われていたのか、それを忘れてはいけない。罪に鈍感になると、神の救いにも鈍感になる。真に価値のあるもの、真に忌避すべきものを見分ける目を持とう。

Application(適用)

今の仕事で評価されてもされなくても、出世できても出来なくても、キリストの救いの方が遙かに重要で、その事を喜び続けたい。たとえて言うなら大富豪の相続権を持った人が道ばたの百円玉を拾い損ねたかどうか、という程度の問題だ。

神を喜び、罪を遠ざける生活を取り戻そう。

Prayer(祈り)

イエス様、救われた人を測る量りはもはやこの世のものではありません。私たちを測るのはただ神様だけです。この世を喜ばせることを止め、神を喜ばせることに集中したいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

依存症を避ける(Ⅰコリント6:12-13)

Scripture(聖書の言葉)

12 キリストが禁じておられること以外、私には、何でもする自由があります。しかしその中には、自分のためにならないこともあります。たとえ、してよいことであっても、それに捕らえられたら最後、やめようとしても簡単にやめられないことには手を出しません。

13 食べることについて考えてみましょう。神様は、物を食べるために食欲を与え、消化するために胃を備えてくださいました。だからといって、必要以上に食べてよいということにはなりません。食べることが第一だなどと考えてはいけません。なぜなら、いつの日か神様は、胃も食べ物も取り上げられるからです。

Observation(観察)

私たちは律法から解放され、罪の赦しも得た存在だ。しかし律法から離れたからと言って何でもしてかまわないというわけではない。神の喜ばれるものと喜ばれないものがあり、聖霊様はそれを教えて下さる。それを無視して自分の好き勝手をして神様を悲しませようとは思わない。

とくに依存性のあるものには本当に注意しなくてはならない。医療に用いるものでも自分の快楽に用いれば簡単に度を超して、身体的にも精神的にも依存症になってしまう。

何を食べ、何をするにしても自分のためにするのか、隣人と神の為にするのか、それによって結果は全く異なってしまう。

たとえば家族の安寧のために適切な量と内容の食事を取れば健康が保たれるが、偏食、暴食は病のきっかけになってしまう。そのような行動の背後には自分を破壊しよとする自己否定の思いがあるのではないかと自分の経験を通して感じている。

Prayer(祈り)

イエス様、何を選ぶか、何を食べるかもあなたの喜ぶものを選びたいです。健全な生き方を選び、神様と楽しんで生きることが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

罪を放置しない(Ⅰコリント5:6-8)

Scripture(聖書の言葉)

6 あなたがたが、このようなことに目をつぶっているかと思うと、ぞっとします。たとえ一人でも、罪を犯すままに放任しておけば、やがてその影響が全員に及ぶことがわからないのですか。 7 その人を、あなたがたの間から除きなさい。そうすれば、きよさを保てます。神の小羊であるキリストは、私たちのためにすでに殺されたのです。 8 ですから、悪意や不正でいっぱいの生活から、完全に離れなさい。しっかりキリストにつながり、クリスチャン生活において、力強く成長しようではありませんか。悪意や不正のまじったパンではなく、誠実と真実という純粋なパンを食べようではありませんか。

Observation(観察)

パウロはコリントの人々に対し、教会中で放置されている罪について厳しく非難した。明白な罪であるにもかかわらず、教会内でなかったことのように扱われていた。パウロは

「悪意や不正のまじったパンではなく、誠実と真実という純粋なパンを食べようではありませんか。」と表現し、教会内の罪を放置することは、罪のパン種を増殖させ腐敗させることだと言っている。

教会内を清く保つことはクリスチャンの使命でもある。ただし罪を暴き辱めるのではなく、罪の芽が小さいうちに教会のリーダーシップがそれを摘み、本人が神に戻って来れるようにすることを望みたい。

教会の罪の問題は、最終的に私たちが日々どのように神と向き合って生きるかに帰結する。「8 ですから、悪意や不正でいっぱいの生活から、完全に離れなさい。しっかりキリストにつながり、クリスチャン生活において、力強く成長しようではありませんか。」とパウロも励ましている。

Prayer(祈り)

イエス様、一人一人が罪に向き合い、それから離れ、あなたに喜ばれる群れで居ることが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神が下さったもの(Ⅰコリント4:7-8)

Scripture(聖書の言葉)

あなたの持ちもので、神からいただかなかったものがありますか。その全部が神からいただいたものなら、どうして、さも偉そうにふるまうのですか。また、どうして自力で何かを成し遂げたような態度をとるのですか。 8 あなたがたは、自分に必要な霊の食べ物はみな、すでに手にしたと思っているようです。十分に満ち足り、霊的に満足しています。私たちを差し置いて、裕福な王様のようになり、王座にふんぞり返っています。

Observation(観察)

神を信じた瞬間から、私たちは自身を神のものとし、自身の所有物も私自身には属さず、神の働きを進めるために賜ったものと変えられる。目に見える財産もそうだが、目に見えない財産、お金で買えない財産も神からのプレゼントだ。家庭、両親、職業、友人、そして健康。

手にしたものを自分が労苦の実だと握りこんでしまえば、それは神が生かして下さることはない。むしろ神にお渡しし、自由に神に用いていただくことで神の働きを共に前進することが出来る。

Application(適用)

パウロが警告しているように、「霊的にも何かを理解した、達した、得た」と自分で考えるならそれは一番危険な状態だ。霊的な不健康な満腹感は神の知恵を拒み、凝り固まった思考になってしまう。

私たちはいつも謙虚に学ぶ姿勢を保とう。私たちはまだ何も知らないといつでも言えるように、いつでも無限の神の知恵をいただけるようにしていよう。

Prayer(祈り)

イエス様、手元に在るものは全てあなたのものです。あなたに用いて下さいと何度も祈りましたが、時として私物化してしまいます。知恵も知識も財産も、あなたにお返しします。どうか用いて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の住まい(Ⅰコリント3:10-17)

Scripture(聖書の言葉)

10 神様は恵みによって、私に、どうしたら腕のよい建築家になれるかを教えてくださいました。私が土台をすえ、アポロがその上に建物を建てました。しかし、その土台の上に建物を建てるには、細心の注意が必要です。 11 私たちがすでに持っている本物の土台、イエス・キリスト以外に、土台をすえることなどだれにもできないのです。 12 しかし、この土台の上には、いろいろの材料で建てることができます。金や銀や宝石を使う人もいれば、また木や草、わらなどを用いる人もあります。 13 やがて、すべてがテストされる、キリストのさばきの日が来ます。その時には、建築家が各自どんな材料で建てたかが明白になります。それぞれの仕事は火でテストされ、なお価値が変わらないかどうか、ほんとうに完璧な建物かどうかが、だれの目にも明らかになります。 14 そして、その土台の上に適切な材料を使って建てた人は、建物がちゃんと残るので報いがあります。 15 しかし、家が焼けてしまった人は、大損害をこうむります。その人自身は、炎の中をくぐり抜けるように、命からがら逃げて救われるでしょうが。

16 あなたがたは自分たちが神の家であり、神の聖霊が自分の内に住んでおられることがわからないのですか。 17 もし神の家を汚したり、こわしたりする人がいれば、神様はその人を滅ぼされます。なぜなら、神の家は聖なるものだからです。あなたがたは、その神の家なのです。

Observation(観察)

かつてイスラエルは会見の天幕で神に会い、時代が下ってダビデとソロモンにより神殿が建てられ、神はそこで栄光を表された。

パウロは、私たちがいまや聖霊様が喜んで住まわれる神の家であると述べている。イエス様の十字架が何よりも重要な土台であり、パウロやアポロ、様々な教師、神学者、牧師が労して建てあげて下さった。私たちは今この時点で、すでに神の作品であり、住まいなのだ。

Application(適用)

その作品を、時に私たちは自ら汚し、痛めつけてしまう事がある。過去の傷や痛みが自分を責め、破壊的な思いを抱いてしまう。しかしここは神の家である事を思い出そう。冷たく固い建物ではなく命のある、安全な、優しい場所なのだ。苦しくなった時、いつもそれを思い出そう。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたが神殿のカーテンを自らのお体と共に割いてくださり、今や私と神様を隔てるものはありません。その恵みに感謝します。イエス様を のお名前によってお祈りします。アーメン。

単純なことば、知恵のことば(Ⅰコリ2:3-7)

Scripture(聖書の言葉)

3 私は弱々しく、おずおずと震えおののきながら、あなたがたのところへ行きました。 4 また私の説教も、説得力ある雄弁なことばや人間的な知恵にはほど遠く、単純そのものでした。しかし、そのことばには神の力があって、聞く人々は、それが神からのことばだとわかったのです。 5 私がそうしたのは、あなたがたの信仰が、人間のすぐれた思想にではなく、神に根ざしてほしかったからです。

6 とはいえ、成長したクリスチャンの間では、私はすぐれた知恵のことばを語ります。しかしそれは、この地上の知恵ではなく、また滅ぶべき運命にある、この世の支配者の気に入る知恵でもありません。 7 私たちのことばに知恵があるのは、それが神から出た教えで、天の栄光に導く、神の知恵に満ちた計画を告げるものだからです。私たちの語ることは、以前は隠されていましたが、世界の始まる前から私たちのために備えられていたものです。

Observation(観察)

パウロはかつて敢えて単純な言葉で説教を語ったとある。福音が人間的な思想や哲学に置き換えられてしまわないようにである。しかし、その言葉には神の力があって、聞く人にはそれが神の福音だと理解できた、とある。根幹がしっかりと神に繋がった言葉には説得力があるのだ。

一方でパウロは「成長したクリスチャンの間では、私はすぐれた知恵のことばを語ります」とも言っている。ベーシックを覚えたものには、更に言葉による知恵の継承がある。「それが神から出た教えで、天の栄光に導く、神の知恵に満ちた計画」と言っている。私たちが御言葉を学ぶのは神の知恵に満ちた計画なのだ。ことばを受け取り用いることは神の働きに加えていただき、一緒に働くという栄光なのだ。

Application(適用)

通読を繰り返していると、同じ箇所、同じ聖句でも感じ方が異なることがある。年を経るにつれ聖書と自分の関係が変化し、より多くを語られるように感じる。御言葉を読むことと、自身に適用し自身を変化することを、止めずに続けてゆきたい。

Prayer(祈り)

イエス様、御言葉を頂き、自らに適用します。日々の学びを通し、正しい御言葉の理解を頂きたいと願うものです。

自身の思惟思索を、自分の経験で積み上げたものから、聖書の真理に置き換えて行けますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。