栄光(Ⅱコリント3:9-18)

Scripture(聖書の言葉)

9 死に通じる計画にも栄光があったのなら、人々を神との正しい関係に導く計画には、なおさら栄光が満ちあふれるのです。 10 事実、モーセの顔の最初の栄光は、新しい契約の圧倒的な栄光に比べれば、取るに足りないものです。 11 もし消え去ってゆく古い方法にも天の栄光が満ちていたとすれば、私たちの救いのために立てられた、永遠に続く神の新しい契約には、はるかにまさった栄光があるはずです。

12 この新しい栄光は決して消え去らないと確信しているので、私たちはきわめて大胆に語れるのです。 13 そしてモーセのように、栄光の消えていく様子をイスラエルの人々から隠すため、顔に覆いをかけたりはしません。

14 覆いがかけられたのは、モーセの顔だけではありません。イスラエルの人々の霊的理解力も覆われたのです。今でも、聖書が朗読される時、ユダヤ人の思いには、厚い覆いがかかっているように思えます。というのは、聖書のほんとうの意味を知ることも、理解することもできないからです。この覆いは、キリストを信じて初めて取り除かれるのです。 15 確かに今日でも、彼らがモーセの書を朗読する時、その心には覆いがかかったままです。

16 しかし、だれでも罪に背を向け、主のほうに向く時、その覆いは取り除かれます。 17 主は、いのちを与えてくださる御霊です。御霊のおられるところには自由があります。 18 私たちには顔の覆いがありません。鏡のように、主の栄光をはっきり映すことができます。そして、主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、私たちはますます主に似た者にされていくのです。

Observation(観察)

長い引用になってしまったが、モーセに与えられた律法による栄光と、イエス様によって神に立ち返ったものに与えられてる栄光を比較している。

モーセの顔の覆いは取り去られた栄光を隠すためであったが、私たちに対してパウロは、「だれでも罪に背を向け、主のほうに向く時、その覆いは取り除かれます。」と述べている。

私たちの放つ栄光の光は、主に似たものとなり、主の鏡のように変えられた私たちが、主の栄光を映し出すことなのだ。

Application(適用)

私たちは主の栄光を表しているだろうか、顔を覆い、うつむいて神の方を向くことすら躊躇してはいないだろうか。私たちがどのような状況にあろうと、神は私たちが顔を向けることを拒絶なさらない。だから神の方を向こう。御顔を拝し栄光の受け、自ら輝きを映し出すクリスチャンになろう。

Prayer(祈り)

イエス様、病気であっても経済が苦しくても、犯罪者であっても神に向ける顔がないなどということはありません。いつでも罪に背を向けるならあなたに会うことを許して下さいます。ダビデが苦しみの中でも主を仰ぎ、賛美したように、私もあなたを見上げます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

キリストの福音の香り(Ⅱコリント2:14-17)

Scripture(聖書の言葉)

今、神様は私たちを通して、キリストの福音の香りを放ってくださいます。 15 私たちの生活には、かぐわしい香りが漂っています。それは、私たちのうちにあるキリストの香りであって、救われる人々にも、滅びる人々にも、一つの香りなのです。 16 滅びる人々にとっては、私たちは死と滅びの恐れに満ちた香りですが、キリストを知る人々にとっては、いのちを与える香りなのです。このような任務にふさわしい者とは、いったいどんな人でしょう。 17 それは、私たちのように神から遣わされて、真心から語る者、キリストの力によって神の前で語る者だけです。私たちは、多くの人がするように神のことばをつごうよく曲げて、売り歩くようなことはしません。

Observation(観察)

「15 私たちの生活には、かぐわしい香りが漂っています。それは、私たちのうちにあるキリストの香りであって、救われる人々にも、滅びる人々にも、一つの香りなのです。」と在る。私たちがイエス様の香りを発するのだ。クリスチャンにとっては救いと慈愛の香りだが、「16 滅びる人々にとっては、私たちは死と滅びの恐れに満ちた香りです」とパウロは言っている。死と罪、滅びについて考えること、触れることを禁忌と考える人は多い。だからといって、この要素を除いて伝道は出来ない。一部新興宗教に見られるような「神のことばをつごうよく曲げて、売り歩く」一見キリスト教だが、罪と死、イエス様の十字架と救いについて語らない、異端の宗教は数多くある。

Application(適用)

私たちは福音に対してまっすぐなものであろう。離れる人は離れてゆくし、時には非難を浴びることもあるかもしれない。しかしイエス様を紹介し、その香りを放つことを止めずにいよう。

Prayer(祈り)

イエス様、自分の中に福音に対する妥協や、いい加減に取り組んでいた部分を悔い改めます。私から伝わる福音が、イエス様のあかしが間違ったもの、ずれたもの、大事なことが隠れたものになりませんように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

苦しみに耐える力(Ⅱコリント1:3-4)

Scripture(聖書の言葉)

3-4 私たちの神様は、なんとすばらしいお方でしょう。神様は主イエス・キリストの父であり、あらゆる慈愛の源です。そして、私たちが苦しみや困難にあえいでいる時、慰めと励ましを与えてくださるお方です。それは、苦しみの中にあって慰めと励ましを必要としている人々に、私たちも、神から受ける助けと慰めを与えることができるためです。 5 私たちがキリストのために苦しめば苦しむほど、より豊かにキリストから慰めと励ましが与えられることは確かです。 6-7 私たちが大きな苦しみに会うのも、あなたがたが神の慰めと救いを受けるためです。現に神様は、苦しんでいる私たちを慰めてくださいました。それは、あなたがたのためでもあるのです。つまり、あなたがたが私たちと同じような苦しい境遇に立たされた時、神の慰めがどれほどやさしさに満ちたものであるかを知ることができるのです。神様は必ず、苦しみに耐え抜く力を与えてくださいます。

Observation(観察)

コリントの人々に対しパウロは、神は彼らの苦しみの中にこそ神の慰めと優しさをしめし、必ず耐え抜く力を与えて下さる、と言っている。

重要なのは「キリストのために」と前置きされていることだ。私たちが、苦難だ、試練だ、と言っているとき、それは本当にキリストのために行った結果と言えるだろうか。

ときには自分勝手な罪の行動の結果として、痛みを刈り取ることもある。もちろんそのような中にも神の励ましはあるが、同じ苦しみ、痛みを負うなら、キリストのための苦難を負う者でありたいと願う。

Prayer(祈り)

イエス様、罪によるものよりも、あなたのために労し、苦しむものでありたいと願います。あなたの慰めを受け、ますますあなたを愛するものとなりたいのです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

罪に隙を与えない(Ⅰコリント16:13-14)

Scripture(聖書の言葉)

13 目を覚まして、霊的な危険に身構えていなさい。いつも主に忠実でありなさい。男らしく行動し、強くありなさい。 14 すべての点で、親切と愛から出た行動をとりなさい。

Observation(観察)

パウロのコリントの教会に宛てた手紙の結びの一部である。短い言葉だが、重要な事柄があげられている。「目を覚まして、霊的な危険に身構えていなさい。」とある。私たちはいつも霊的な危険にさらされていることを認識しなくてはならない。気づいて居れば避けることができても、注意していなければ気づくと罪は懐深く入り込み、大きく傷つくことになる。罪の誘惑はいつもやって来る。それに心を許すことなくはねつけ、距離を取り、心を保とう。

Application(適用)

獅子身中の虫、という言葉がある(仏教用語だが…)。罪は本当に私たちを躓かせようと、すぐそばで機会を伺っている。私たちはその罪よりも更に近く、御言葉に近づかなければならない。「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」私たちはみことばを行い、悪いものを追い払うことが出来るのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、罪よりも御言葉に近づくものにして下さい。御言葉を行うものにして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

復活と栄光の体(Ⅰコリント15:20-23)

Scripture(聖書の言葉)

20 しかし、事実、キリストは死者の中から復活しました。そして、復活が約束されているすべての人の初穂(その年の収穫の最初の束)となられたのです。 21 一人の人(アダム)の行為によって、死がこの世に入って来ました。そして、このもう一人の人(キリスト)の行為によって、死者の復活が入って来たのです。 22 罪深いアダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるのです。 23 ただし、その順番があります。最初にキリストが復活なさいました。次に、キリストが帰って来られる時に、キリストに属する全員が復活します。

Observation(観察)

最初の人アダムの罪によって人は死ぬものとなった。そして「このもう一人の人(キリスト)の行為によって、死者の復活が入って来たのです。 」と在る。

私たちの肉は罪に死んでいて、物質としての活動停止を待つばかりだ。一方キリストによって生かされた霊はみことばによって日々新しくなり、強くなって行く。

聖書の言う死者の復活は「栄光の体」を私たちがキリストの再臨に際し受け取る事だ。パウロは植物の種と発芽し成長した植物との違いをもって、この死の体と栄光の体の違いについて語っている。まだ種子にすぎない私たちであっても、信仰という命は持っている。この命をしっかりともって、神にお会いできる日を楽しみに待とう。

Application(適用)

生き物である私たちにとって、生命という存在はあまりに当たり前で、近すぎて、意識することは少ない。一方で霊的いのちである信仰はどうだろうか?意識しないほどに近いのならまだ良いが、遠ざけてしまって見えなくなっていることが度々ある。いつも信仰に帰ってくる時間、聖書を黙想する時間をもって自分の持っているいのちを再確認しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたの復活にあずかるものとさせていただき感謝します。いまは肉の体の中で信仰が時に葛藤するときがあります。しかし福音という新しい命に目を向け、あなたの再臨まで、誠実なこどもで在りたいと願います。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

異言の賜物(Ⅰコリント14:2-5)

Scripture(聖書の言葉)

2 もしあなたが、聞いたことのない特別なことばである異言を語る場合、それは神への語りかけであって、人々へのことばではありません。人々には、そのことばが理解できないからです。あなたは聖霊の力によって語るのですが、それはみな隠された奥義なのです。 3 しかし、神から託されたことばを語る者は、人々を励まし、慰め、人々の主にある成長を助けます。 4 ですから、異言を語る者は、自分の信仰を成長させますが、神のことばを語って預言する者は、教会全体が成長することと、きよくなることとを助けるのです。 5 私はあなたがたがみな異言を語ることを望んでいますが、それにもまして、神のことばを語って預言することを望みます。なぜなら、聞いたこともないことばで話すよりも、預言することのほうが、はるかにまさっており、有益だからです。もっとも、異言のあとで、その内容をわかるように説明できるなら、それも少しは役立つでしょう。

Observation(観察)

パウロは教会に与えられた賜物は教会の益になる範囲で用いるべきだと言っている。今日本の教会のほとんどでは異言については明確な立場を取っていないが、聖書では「それは神への語りかけであって、人々へのことばではありません。人々には、そのことばが理解できないからです。あなたは聖霊の力によって語るのですが、それはみな隠された奥義なのです。 」と明確に書かれている。一方で、解き明かすものがいない場合は教会ではなく一人で祈りなさいとも書かれている。

一方でパウロは預言の賜物を求めることを薦めている。母国語で語られる神の励ましは、教会にとって大きな励みになるからだ。一方で預言者と称する一団が教会を渡り歩き、教会を混乱させているという事実もある。教会のなかで正しく賜物を育てるシステムができあがってゆく事を臨む。

Application(適用)

私は異言で祈るようになって25年経つ。経験した人にしか伝わりにくいが言語中枢が神に向かって解放されている感覚がある。また外国人の友人に彼女が知らないはずの日本語の異言で祈られたことがある。こう書くと特殊な人のようだが全て私に起きた事実である。

聖書に従い、より優れた賜物である預言を求めるものとなりたい。ただ、求めるものが訓練され、教会の枠の中で正しく用いられる体制が先に作られなければならない。神のお働きに期待しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、少なからずあなたの賜物を経験し、不思議を体験してきました。あらゆるものはあなたの栄光の為です。教会を建てあげるためです。正しく用いることができますように、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

やがて神にお会いする日(Ⅰコリント13:11-12)

Scripture(聖書の言葉)

11 それは、こんなことから説明できるでしょう。子どもの時の私は子どものように話し、子どものように考え、子どものように判断していました。しかし、大人になると考え方も成長し、今では子どもっぽいこととは縁を切りました。 12 同様に、今の私たちの神に対する知識や理解は、そまつな鏡にぼんやり映る姿のようなものです。しかし、やがていつかは、面と向かって神の完全な姿を見るのです。いま私が知っていることは、おぼろげで、ぼんやりしています。しかしその時には、いま神様が私の心を見通しておられるのと同じように、すべてがはっきりわかるでしょう。

Observation(観察)

能力に限界のある人間は、神の全貌を計り知ることは出来ない。このことをパウロは「今の私たちの神に対する知識や理解は、そまつな鏡にぼんやり映る姿のようなものです。」と述べている。私たちが知っていると思っていることもぼんやりとした輪郭に過ぎない。

しかし、仮に私たちの持っている聖書の知識、知恵が本質の断章の様なものであっても、私たちが救いを受け、喜んで生きるには十分なものだ。「さらに」素晴らしいことが待っている、神の本質にやがてお会いする日が来る。このことに期待しよう。

Application(適用)

私たちが神の全貌を今知ることが出来ない一方、「いま神様が私の心を見通しておられるのと同じように、すべてがはっきりわかるでしょう。」とあるとおり、神はしっかりと私を見ていて下さる。子供の時は両親の考え方は理解できなかったが、彼らは私のために最善をしてくれた。同様に今、神は私に最善をなして下さっている。

Prayer(祈り)

イエス様、やがての日にあなたにお会いできる約束を感謝します。いまあなたのことがわからなくても、あなたは私のことをご存じです。いまこのときを感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

賜物という器官(Ⅰコリント12:7-11)

Scripture(聖書の言葉)

7 聖霊は、教会全体の利益のために、私たちを通して神の力を現してくださるのです。 8 聖霊はある人に、賢明な助言者としての賜物を与えておられます。またある人には、研究し、人に教える点ですぐれた賜物を与えておられます。 9 また、ある人には特別な信仰を与え、ある人には病気をいやす力を与えておられます。 10 そのほか、奇跡を行う力が与えられている人もあれば、預言や説教をする力をいただいている人もいます。また聖霊は、ある人には、「自分は神のことばを与えられている」と主張する人がほんとうに神の霊によって語っているかどうか、見分ける力を与えておられます。さらに、ある人には異言(今まで知らなかった特別なことば)で語る能力を与え、別の人にその異言を解き明かす能力を授けておられるのです。 11 こうしたすべての賜物と力は、同一の聖霊が思いのままに、私たちにも与えてくださるものです。

Observation(観察)

パウロは聖霊様の賜物をさして人間の器官、臓器になぞらえた。その賜物はすべて教会という一つの生き物、キリストの御体を生けるものとし、活動させるためのものだ。人間には手足や臓器が各種在るが、その根本である生命が失われては全ての臓器器官は活動を停止し腐ってしまう。

教会も同様に、聖霊様といういのちをうしなっては存続出来ない。私たちは賜物について考えるとき、同時にその根本である聖霊様に目を向けなければならない。

Application(適用)

賜物には派手なものと地味なものがある。パウロは地味なものほどしっかりと保護され働きが続けられるよう守らねばならないことを伝えている「24bそのように神様は、あまり重要視されない部分が特別に重んじられ、注意深く扱われるように、体を組み立ててくださったのです。」私たちにも様々な賜物が与えられている。互いの働きを尊び、尊敬し合う関係でいたい。それでこそ、キリストの体である教会という生き物が協調して良い働きが出来るのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、めだつ個人の賜物に目が行きがちですが、私たち一人一人が重要なイエス様の体の臓器で、大事な働きを担っています。そのために必要な賜物もすでに与えられていると学びました。わたしも、それを生かして、教会を支えてゆきたいと思います。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

悔い改めて聖餐式に臨む(Ⅰコリント11:26-30)

Scripture(聖書の言葉)

26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、「主は私たちのために死んでくださった」という主の死の意味を、くり返し告白するわけです。主が再び来られる時まで続けなさい。 27 ですから、もしふさわしくないままでこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。 28 したがって、聖餐に臨む前に、めいめいが注意深く、自分を省みなければなりません。 29 もしキリストの体を気にもかけず、その意味を考えもせずに、ふさわしくないままでパンを食べ、杯を飲むなら、神のさばきを招くことになります。キリストの死をもてあそんだわけですから。 30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、また死者も出たのはそのためです。

Observation(観察)

聖餐式のパンと葡萄酒について、これは霊的にはキリストの血と体を意味するものであり、『「主は私たちのために死んでくださった」という主の死の意味を、くり返し告白する」とその意義を伝えている。

同時に彼が警告するのは「もしふさわしくないままでこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。」という事だ。罪を抱えたまま凄惨に臨むなら、イエス様のなされた贖いを嘲り否定することになってしまう。

毎月の聖餐式に望むとき、心を点検しよう。罪が残っているならその場で悔い改めよう。どうしても心にひっかかりがあるなら教職の先生方に相談しよう。

Application(適用)

病が続くと、この節を思い出して、これこれの罪のせいで病気になったのかと、心配と恐れが湧いてくることがある。しかしいま立ち戻って悔い改める機会として下さったことに感謝している。またこの節がこれからも悔い改めの恵みを思い出させて下さることに毎月の聖餐式のたびに思いだそう。

Prayer(祈り)

イエス様、罪を犯す弱い人間です。けれどもあなたのパンと葡萄酒を見て、罪の赦しを思い出します。ただあなたの赦しにすがる以外何も出来ないものです。憐れんでください。そしてもう一度立ち上がります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

なにを選択するか(Ⅰコリント10:23-26)

Scripture(聖書の言葉)

23 もし食べたければ、偶像への供え物を食べても一向にかまいません。それを食べても、神の律法には反しません。しかし、律法に反しないことでも最善とは限らず、また有益とも限りません。 24 自分のことばかり考えてはいけません。他の人を思いやり、何がその人にとって最善か、よく考えなさい。 25 こうすればよいのです。市場で売られている肉は、どれでも自由に食べなさい。それが偶像に供えられた物かどうか、いちいち尋ねなくてよいのです。そうすれば良心を傷つけることもないでしょう。 26 地上にある良いものはみな、主のものであり、あなたがたを楽しませるためにあるのです。

Observation(観察)

「偶像に献げられた肉」について、前節でパウロは偶像の背後には悪霊の働きがあると喝破した上で、そのような肉であると認識しない限りそれは私たちにとって脅威ではないことを語っている。しかし、もしもそれが偶像に献げられたものと私たちが知ったなら、私たちはそれを良心から避けるべきであると強く薦めている。

Application(適用)

食べ物に限らずいま世界に流通している様々なものには、多様なバックグラウンドがある。おそらくはキリスト教的に受け入れがたいものも多く含まれているだろう。しかし、その一つ一つを調べ上げることは不可能だ。しかし、明らかに反キリストに由来するものと一度知ったなら、私たちは頑としてそれを拒むべきと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、必要なことを見分ける力を下さい。世の中には様々なものがあります。時には明らかに神の喜ばれないものもあります。そのようなものを避けることが出来ますように、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。