霊と肉(マルコ8:31-36)

Scripture(聖書の言葉)

“それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。”

マルコの福音書 8章31~36節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

ペテロはこの前の節で、イエス様がキリストである事を告白した。しかし、十字架の死と復活について語られたとたん、イエス様を諌め始めた。

ここでペテロは、イエス様の神性とミッションよりも、人としての、リーダーとしてのイエス様を心配したのだ。

Application(適用)

私たちは霊と肉で出来ている。肉である私は、時としてこの世の心配が先に立ってしまい、神の事を考えることが出来ないこともある。それでも、毎日少しずつ神の事を考える時間、領域を広めていけたらと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたは肉に過ぎない私を憐れみ、貴方を信じた霊の部分を尊いとしてくださいます。霊肉合わせての私です。不完全な存在です。でも、イエス様を優先したいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

賜物が尽きた後に(Ⅰコリント13:8-10)

Scripture(聖書の言葉)

8 神からいただいた賜物や能力は、いつかは尽きます。しかし、愛は永遠に続きます。預言すること、異言で語ること、知識などの賜物は、やがて消え去ります。 9 たとえ特別な賜物が与えられていても、いま私たちの知っていること、預言することは、ほんの一部にすぎません。 10 しかし、私たちが完全な存在とされる時、これら不完全な賜物は不要になり、消え去ってしまうのです。

Observation(観察)

御霊の賜物はいつか私たちが完全な存在とされるとき消え去る、とある。同様に、「8 神からいただいた賜物や能力は、いつかは尽きます。」とも書かれている。気力、体力、記憶力、それらですさ私たちは止めておくことは厳しい、若い頃に出来たことが出来なくなってきて、衰えや悲しさを感じることがしばしばだ。

ただ、神を知ることだけは違う。聖書を読み黙想すれば無限の神の知恵が心に注がれ、神の思いが私の思いに変わってゆく。「私たちが完全な存在とされる時」それがいつになるのかは分からない。ただこの道を進んでゆこう。

Application(適用)

逆説的になるが、20代からあれもこれもと奉仕してきたが、結局大きな身を結ぶことはできて居ない。事をなす中身が空っぽだった、という事なのだろう。今になって中身を埋めるように聖書を読んでいる。少しでもイエス様のお考えに近づきたい。

Prayer(祈り)

能力や賜物と感じていたものが小さくなって、私の心の中で、ようやくイエス様がクローズアップされてきました。これが神様の望まれた私のありようなのかは分かりません。ただ神様は賜物を喜ぶのでは無く、神と人を愛することを喜ばれることが分かりました。そのようなものに私を変えて下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

イエス様の話を聞く(マルコ6:1-6)

Scripture(聖書の言葉)

まもなくイエスはその地方を去り、弟子たちを連れて故郷の町ナザレに帰られました。 2-3 次の安息日に、イエスが会堂に出かけて話をされると、聴衆はその教えに驚きました。イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思っていたからです。

「あれのどこがおれたちと違うというんだ。ただの大工のせがれじゃないか。母親はマリヤだし、ヤコブやヨセやユダやシモンは兄弟だ。妹たちだって、われわれとこの町に住んでいるじゃないか。」こうして、町の人たちはイエスに背を向けました。 4 そこで、イエスは言われました。「預言者(神に託されたことばを語る人)はどこででも尊敬されます。ただ、自分の故郷、親族、家族の中ではそうではありません。」 5 そのため、わずかの病人に手を置いて治されただけで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができませんでした。 6 イエスは、ナザレの人たちの不信仰に驚かれました。

Observation(観察)

イエス様は宣教を始められた故郷のナザレに帰られた。会堂で説教をすると。「聴衆はその教えに驚きました。イエスのことを、自分たちと同じ、ただの田舎者だと思っていたからです。」とある。かつての知り合いが、立派に神の教えを告げている姿に、理解しがたい思いを持ったのだろう。「町の人たちはイエスに背を向けました。」とある。彼らはイエス様のことを聞こうとしなかった。

Application(適用)

「あれのどこがおれたちと違うというんだ。ただの大工のせがれじゃないか。母親はマリヤだし、ヤコブやヨセやユダやシモンは兄弟だ。妹たちだって、われわれとこの町に住んでいるじゃないか。」神を神とするには、信仰が必要だ。ナザレの人々は、イエス様と真剣に向き合うことをせず、イエス様も力ある働きが出来なかった。

わたしたちはどうだろうか、イエス様を、良い教えを説いた人、の枠で片付けてしまっては居ないだろうか。生ける力ある神の子、として心の中心に居てくださることを怠っていないだろうか。イエス様の力ある技を人生を求めるなら、イエス様に聞こう、期待しよう

Prayer(祈り)

イエス様、貴方を中心にして生きたいと願うものですが、なかなかうまく行きません。我が強いもので、あなたに心の中心を明け渡すことを見失います。毎朝こころを新しくして、貴方を礼拝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

長血の女に学ぶ(マルコ5:27-34)

Scripture(聖書の言葉)

27 イエスがこれまでに行ったすばらしい奇跡を耳にした彼女は、人ごみにまぎれて近づき、背後からイエスの着物にさわりました。 28 「せめて、この方の着物にでも手を触れさせていただけば、きっと治る」と考えたのです。 29 さわったとたん、出血が止まり、彼女は病気が治ったと感じました。

30 イエスはすぐ、自分から病気を治す力が出て行ったのに気づき、群衆のほうをふり向いて、「今、わたしにさわったのはだれですか」とお尋ねになりました。 31 「こんなに大ぜいの人がひしめき合っているのです。それなのに、だれがさわったのかと聞かれるのですか。」弟子たちはけげんな顔で答えました。

32 それでもなおイエスは、あたりを見回しておられます。 33 恐ろしくなった女は、自分の身に起こったことを知り、震えながら進み出てイエスの足もとにひれ伏し、ありのままを正直に話しました。 34 イエスは言われました。「娘さん。あなたの信仰があなたを治したのです。もう大丈夫です。いつまでも元気でいるのですよ。」

Observation(観察)

長血を患った女は、イエス様に触れることが出来ると信仰を持って、こっそり近づき、イエス様の着物に触れた。結果彼女は癒やされた。

ここで、イエス様側の反応に注目したい。イエス様は「自分から病気を治す力が出て行ったのに気づき」とあり、癒しの力はイエス様が感覚としてもっておられたことが分かる。

私たちが神に触れるとき、神も触れられていることを認識して下さるのだ。このことでも、信仰は一方通行のものでは無く、人格的な交わりであることが理解できる。今も、私たちがイエス様に心を向け、祈るとき、イエス様は私たちのことを感じ、理解してくださっているのだ。

Application(適用)

先週はひどく体調が悪い中多忙が重なり、心配事も多い日々を過ごした。大きな問題が二つあったが、イエス様に助けを求め祈った後、不思議な方法でどちらも解決された。順調なときには気づかない神の恵みと守りが、ピンチになって改めて分からせて頂いた。平穏な日々であっても、神に守りと癒しを願うものでありたい。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたは私たちのことを知っておられます。もはや貴方と私たちの間には隔てがなく、貴方に自由に会いに行けることを感謝します。どうか貴方との人格的な交わりの中に置いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

耳のある人になろう(マルコ4:9-13)

Scripture(聖書の言葉)

9 聞く耳のある人はよく聞きなさい。」

10 その後、イエスが一人になられると、十二人の弟子とほかの弟子たちが、そろってイエスに尋ねました。「先生。さっきのお話はどういう意味でしょう。」

11 イエスはお答えになりました。「あなたがたには、神の国の真理を知ることが許されていますが、ほかの人には隠されているのです。 12 預言者イザヤが言ったように、『彼らは見もし、聞きもするが、悔い改めて神に立ち返り、その罪を赦していただくことはない』(イザヤ6・9)のです。 13 それにしても、こんな簡単なたとえがわからないのですか。そんなことで、これから話すほかのすべてのたとえは、どうなることでしょう。

Observation(観察)

イエス様は御国の真理を喩えでで話された。一つはパリサイ派や祭司達に訴えの口実を与えないためもあったかもしれないが、「聞く耳のある人」に対して話されていた、という側面もあるのかもしれない。イエス様から直接お話を聞く機会があっても、ぼんやり表面上だけ聞いている人は喩えだけ聞いて首を傾げて去って行ったかもしれない。同様の喩えを聞いても、何を意味しているか真剣に聞く人は悟ってますますイエス様に聞き従うようになったであろう。

Application(適用)

現代でもぼんやりと時々聖書を開き、日曜日にぼんやりメッセージを聞いて過ごしてしまうなら、イエス様の私たちに本当に伝えたいことを聞きそびれてしまう。毎朝の聖書を読む時間、礼拝でメッセージを聞く時間に集中しよう。

また、無意識に理解しないようにしていることもあるかもしれない。心に秘めた負い目があるときには、メッセージが余りに鋭く、まぶしく、受け止めることを避けてしまう。私にもそのような経験がある。まっすぐに聖書に向き合い、イエス様のお話を聞くには、へりくだった、悔いた心が心が必要だ。

Prayer(祈り)

イエス様、自分の心をごまかさず、まっすぐに聖書に向き合う生涯を与えてください。先週は体調が悪くて大変でしたが、それでも聖書だけは離さずに過ごせたことを感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

イエス様の兄弟として(マルコ3:31-35)

Scripture(聖書の言葉)

31 さて、イエスの母と弟たちが、教えを聞く人々でごった返す家に来て、イエスに話があるから出て来るようにと、ことづけました。 32 「お母様と弟さんたちが、お会いしたいと外でお待ちです」と言われて、 33 イエスはこうお答えになりました。「わたしの母や兄弟とは、いったいだれのことですか。」 34 それから、ぐるりと回りを見渡し、「この人たちこそわたしの母であり兄弟です。 35 だれでも、神のお心のままに歩む人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われました。

Observation(観察)

急激に有名になってゆくイエス様に対し、母マリアや兄弟たちは不安を持った。パリサイ派などの現行勢力に阿る事なく、かえって敵対しているからだ。彼女らはイエス様がなさろうとしていることはこの時点ではわからなかった。彼女らの呼びかけに対するイエスの反応は厳しい。「わたしの母や兄弟とは、いったいだれのことですか。」と言われている。また、群衆に対し「この人たちこそわたしの母であり兄弟です。 35 だれでも、神のお心のままに歩む人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われている。神の家族は、血縁よりも神の御心を求め、歩むものがそれだとイエス様は言われた。

Application(適用)

私は神の家族だろうか。教会でできる範囲であれこれ手伝っているが、体の問題もあり、十分なは働きはできていない。しかしそれ以上に、どれだけ神を見上げ、御心を求めて働いたかと問われたら、黙って俯くしかない。

中途半端な私だが、それでも神は御心をなすよう、呼びかけて下さる。今度こそそれに答えよう。小さな働きでも一つ一つ、心を込めて務めよう。

Prayer(祈り)

イエス様、やりますと言って出来なかったことがたくさんあります。ここが僕の限界かと泣きたくなることもしばしばです。でも、御心を求めます、小さなものですから小さなことからやり直します。小さなことでも誠実に努めます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

病人こそ医者が必要(マルコ2:13-17)

Scripture(聖書の言葉)

13 イエスはまた湖畔に行き、集まって来た群衆にお教えになりました。 14 岸辺を歩いておられると、税金取立て所にアルパヨの子レビ(マタイ)が座っていました。「ついて来て、わたしの弟子になりなさい。」イエスの呼びかけに、レビはさっと立ち上がり、あとに従いました。

15 その夜、レビはイエスを夕食に招待しました。その席には、取税人仲間や、評判の悪い人たちも多く招かれていました。イエスに従う者には、こういう人々も多かったのです。 16 これを見たパリサイ派(特に律法を守ることに熱心なユダヤ教の一派)の律法学者は、弟子たちに詰め寄りました。「おまえたちの先生は、どうして、こんなどうしようもない連中といっしょに食事をするのか。」 17 彼らの非難に、イエスはこうお答えになりました。「丈夫な者に医者はいりません。病人こそ医者が必要なのです。わたしは、自分を正しいと思っている人たちのためにではなく、罪人を神に立ち返らせるために来たのです。」

Observation(観察)

イエス様の弟子達には、漁師の他、収税人達や、評判の悪い人たちが居た。体面を気にするパリサイ派に人々は、イエス様の行動が理解できず非難した。イエス様の答えは「丈夫な者に医者はいりません。病人こそ医者が必要なのです。わたしは、自分を正しいと思っている人たちのためにではなく、罪人を神に立ち返らせるために来たのです。」出会った。

罪を罪と認識しなければ永遠に悔い改めることは出来ない。しかし病を負い、社会的に苦しめられ、疎外される寂しさを知っているものの心の皮は薄い。自分が罪あるもので、救いを必要とするものであることが理解できる。

Application(適用)

私が救われた時は、心身共に絶望のどん底の中であった。自殺を企てるほどの絶望の中でイエス様に出会った。沢山の新しくイエス様を信じる人を見てきたが、順風満帆の中で自身いっぱいにイエス様を受け入れる人を見たことがない。皆何らかの悩みと重荷を負い、救いを探して教会にたどり着くのだ。かつて自分がそうだったように、イエス様がそうされたように、受け入れることが大事だ。積極的に関わり、(その人の厭では無い範囲で)励ますことが出来たらと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、沢山の傷ついた人が教会に来ます。イエス様の弟子として、どう行動したら良いでしょう。緊張して固まってしまう事も多いです。なすべき事を教えてください。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

あわれみ、癒やされる主(マルコ1:39-42)

Scripture(聖書の言葉)

39 こうしてイエスは、ガリラヤ中をくまなく回り、会堂で教え、悪霊につかれた人を大ぜいお助けになりました。

40 ある時、一人のツァラアト(皮膚が冒され、汚れているとされた当時の疾患)に冒された人がやって来て、イエスの前にひざまずき、熱心に頼みました。「お願いでございます。どうか私の体をもとどおりに治してください。先生のお気持ちひとつで治るのですから。」 41 イエスは心からかわいそうに思い、彼にさわって、「そうしてあげましょう。さあ、よくなりなさい」と言われました。 42 するとたちまち、ツァラアトはあとかたもなくなり、完全に治ってしまいました。

Observation(観察)

イエス様の働き、天の御国を伝えることは、癒しと悪霊追い出しが絶えずセットのように伴っていた。重い皮膚病にかかった人が出てくるが、モーセの律法では汚れた人とされ、離れたところで暮らさなければならない差別された人であった。その病の人がイエス様に懇願すると、「イエスは心からかわいそうに思い、彼にさわって」下さった。本来ならば汚れが移るとされ触ることを禁じられた人に対してである。その直後、癒しが起こり、彼の病は完全に治った。

Application(適用)

まず忘れてはいけないのは、イエス様は癒しの働きをされると言うことだ。病気や患いをいやし、また霊的な要因の病も悪霊を追い出すことで癒やされた。またイエス様は差別された人に対しても憐れんでくださり、手を取ってくださる方でもある、と言うことだ。

病に苦しんでいるときは、自分の価値がなくなってしまい、役に立たない自分は全ての人から疎まれていると感じてしまうときがある。イエス様はそうでは無い。自分の人生がどのような状態であっても手を取り、癒し回復してくださる方なのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、病にあって、ようやくイエス様のことを思い出すような私ですが、どうか憐れんでください。貴方の癒しが必要です。助けてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

大胆に伝道する(使徒28:30-31)

Scripture(聖書の言葉)

30 パウロはそれからまる二年の間、借家に住み、訪れる人たちを歓迎し、 31 大胆に神の国と主イエス・キリストのことを語りました。それを妨げる者はだれもいませんでした。

Observation(観察)

ついにパウロはローマにやってきた。彼は軟禁状態であったが、人と会うことを許された。彼はこの地でイエス様を証することが出来た。彼がカイザルの前で証するところは書かれていないが、後の日にローマがキリスト教国となる礎は、間違いなくパウロの働きであった。

Application(適用)

クリスチャン生活には困難や制限は必ずある。そのような中でもパウロはイエス様を伝えることが出来た。牢屋にいても難破船の中であっても、裁判中でもイエス様を主と信じるならば証することが出来るのだ。自分の今置かれている状況とイエス様のなさったことは関係ない。自分が困難であるから証が出来ない、ということは無い。その事を自分に言い聞かせて伝道したい。

Prayer(祈り)

イエス様、自分の困難な状況を伝道出来ない言い訳にしません。いつでも伝える準備をします。伝えるべき人の前に導いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ユーラクロンのさなかで(使徒27:21-26)

Scripture(聖書の言葉)

21パウロは船員たちを呼び集め、こう言いました。「皆さん。最初から私の忠告を聞いて、『良い港』を出なければよかったのです。そうすれば、こんな目に会わなくてすんだのです。 22 でも、元気を出しなさい。船は沈みますが、だれも死にはしません。

23 ゆうべ、天使がそばに立ち、こう知らせてくれたのです。 24 『恐れることはない。パウロ。あなたはまちがいなく、カイザルの前で裁判を受けるのです。そればかりか、神はあなたの願いを聞き届け、同船の人たち全員のいのちも救ってくださいます。』

25 さあ、元気を出して。私は神を信じています。神様がおっしゃることにうそはありません。 26 やがて、私たちはある島に打ち上げられるでしょう。」

Observation(観察)

パウロら囚人を乗せた船はユーラクロンと呼ばれる嵐に遭い、二週間も漂流し続けた。

しかしこのような絶望的な状況でもパウロは心折れること無く船員達を励ます。パウロにはローマに行き、カイザルの前で証をするという使命があった。それが果たされない事は決して無いという確信がパウロにはあった。また天使が励ましたともある。超自然的な天からの励ましをパウロは受けていた。果たしてパウロの言葉通り、船員も囚人もだれも命を落とすこと無く後の節で島にたどり着くことが出来た。

Application(適用)

私たちも困難なときや、時には絶望的な状況に陥るときがある。私の場合は慢性の病の悪化が心を蝕み、全てを失う恐怖で混乱し、固まってしまう事が度々ある。

私はパウロの姿勢に学びたい。彼は自分を取り巻く状況よりも神からの使命に信頼した。どれだけの困難に遭っても怯まず、堂々とあらゆる局面で神を証しした。

艱難はこれからの人生、何度も来るだろう。けれどもそれ以上に私は神を信頼したい。神が下さる使命の故に生き抜くという決断をしたい。

Prayer(祈り)

イエス様、人生では何度も大嵐がやってきます。翻弄され絶望の淵に立たされます。しかし私はそれ以上に貴方に信頼したいのです。私には貴方に任された、生涯掛けて成し遂げるべき事があると信じます。それを明らかにしてください。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。