異言の賜物(Ⅰコリント14:2-5)

Scripture(聖書の言葉)

2 もしあなたが、聞いたことのない特別なことばである異言を語る場合、それは神への語りかけであって、人々へのことばではありません。人々には、そのことばが理解できないからです。あなたは聖霊の力によって語るのですが、それはみな隠された奥義なのです。 3 しかし、神から託されたことばを語る者は、人々を励まし、慰め、人々の主にある成長を助けます。 4 ですから、異言を語る者は、自分の信仰を成長させますが、神のことばを語って預言する者は、教会全体が成長することと、きよくなることとを助けるのです。 5 私はあなたがたがみな異言を語ることを望んでいますが、それにもまして、神のことばを語って預言することを望みます。なぜなら、聞いたこともないことばで話すよりも、預言することのほうが、はるかにまさっており、有益だからです。もっとも、異言のあとで、その内容をわかるように説明できるなら、それも少しは役立つでしょう。

Observation(観察)

パウロは教会に与えられた賜物は教会の益になる範囲で用いるべきだと言っている。今日本の教会のほとんどでは異言については明確な立場を取っていないが、聖書では「それは神への語りかけであって、人々へのことばではありません。人々には、そのことばが理解できないからです。あなたは聖霊の力によって語るのですが、それはみな隠された奥義なのです。 」と明確に書かれている。一方で、解き明かすものがいない場合は教会ではなく一人で祈りなさいとも書かれている。

一方でパウロは預言の賜物を求めることを薦めている。母国語で語られる神の励ましは、教会にとって大きな励みになるからだ。一方で預言者と称する一団が教会を渡り歩き、教会を混乱させているという事実もある。教会のなかで正しく賜物を育てるシステムができあがってゆく事を臨む。

Application(適用)

私は異言で祈るようになって25年経つ。経験した人にしか伝わりにくいが言語中枢が神に向かって解放されている感覚がある。また外国人の友人に彼女が知らないはずの日本語の異言で祈られたことがある。こう書くと特殊な人のようだが全て私に起きた事実である。

聖書に従い、より優れた賜物である預言を求めるものとなりたい。ただ、求めるものが訓練され、教会の枠の中で正しく用いられる体制が先に作られなければならない。神のお働きに期待しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、少なからずあなたの賜物を経験し、不思議を体験してきました。あらゆるものはあなたの栄光の為です。教会を建てあげるためです。正しく用いることができますように、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

やがて神にお会いする日(Ⅰコリント13:11-12)

Scripture(聖書の言葉)

11 それは、こんなことから説明できるでしょう。子どもの時の私は子どものように話し、子どものように考え、子どものように判断していました。しかし、大人になると考え方も成長し、今では子どもっぽいこととは縁を切りました。 12 同様に、今の私たちの神に対する知識や理解は、そまつな鏡にぼんやり映る姿のようなものです。しかし、やがていつかは、面と向かって神の完全な姿を見るのです。いま私が知っていることは、おぼろげで、ぼんやりしています。しかしその時には、いま神様が私の心を見通しておられるのと同じように、すべてがはっきりわかるでしょう。

Observation(観察)

能力に限界のある人間は、神の全貌を計り知ることは出来ない。このことをパウロは「今の私たちの神に対する知識や理解は、そまつな鏡にぼんやり映る姿のようなものです。」と述べている。私たちが知っていると思っていることもぼんやりとした輪郭に過ぎない。

しかし、仮に私たちの持っている聖書の知識、知恵が本質の断章の様なものであっても、私たちが救いを受け、喜んで生きるには十分なものだ。「さらに」素晴らしいことが待っている、神の本質にやがてお会いする日が来る。このことに期待しよう。

Application(適用)

私たちが神の全貌を今知ることが出来ない一方、「いま神様が私の心を見通しておられるのと同じように、すべてがはっきりわかるでしょう。」とあるとおり、神はしっかりと私を見ていて下さる。子供の時は両親の考え方は理解できなかったが、彼らは私のために最善をしてくれた。同様に今、神は私に最善をなして下さっている。

Prayer(祈り)

イエス様、やがての日にあなたにお会いできる約束を感謝します。いまあなたのことがわからなくても、あなたは私のことをご存じです。いまこのときを感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

賜物という器官(Ⅰコリント12:7-11)

Scripture(聖書の言葉)

7 聖霊は、教会全体の利益のために、私たちを通して神の力を現してくださるのです。 8 聖霊はある人に、賢明な助言者としての賜物を与えておられます。またある人には、研究し、人に教える点ですぐれた賜物を与えておられます。 9 また、ある人には特別な信仰を与え、ある人には病気をいやす力を与えておられます。 10 そのほか、奇跡を行う力が与えられている人もあれば、預言や説教をする力をいただいている人もいます。また聖霊は、ある人には、「自分は神のことばを与えられている」と主張する人がほんとうに神の霊によって語っているかどうか、見分ける力を与えておられます。さらに、ある人には異言(今まで知らなかった特別なことば)で語る能力を与え、別の人にその異言を解き明かす能力を授けておられるのです。 11 こうしたすべての賜物と力は、同一の聖霊が思いのままに、私たちにも与えてくださるものです。

Observation(観察)

パウロは聖霊様の賜物をさして人間の器官、臓器になぞらえた。その賜物はすべて教会という一つの生き物、キリストの御体を生けるものとし、活動させるためのものだ。人間には手足や臓器が各種在るが、その根本である生命が失われては全ての臓器器官は活動を停止し腐ってしまう。

教会も同様に、聖霊様といういのちをうしなっては存続出来ない。私たちは賜物について考えるとき、同時にその根本である聖霊様に目を向けなければならない。

Application(適用)

賜物には派手なものと地味なものがある。パウロは地味なものほどしっかりと保護され働きが続けられるよう守らねばならないことを伝えている「24bそのように神様は、あまり重要視されない部分が特別に重んじられ、注意深く扱われるように、体を組み立ててくださったのです。」私たちにも様々な賜物が与えられている。互いの働きを尊び、尊敬し合う関係でいたい。それでこそ、キリストの体である教会という生き物が協調して良い働きが出来るのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、めだつ個人の賜物に目が行きがちですが、私たち一人一人が重要なイエス様の体の臓器で、大事な働きを担っています。そのために必要な賜物もすでに与えられていると学びました。わたしも、それを生かして、教会を支えてゆきたいと思います。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

悔い改めて聖餐式に臨む(Ⅰコリント11:26-30)

Scripture(聖書の言葉)

26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、「主は私たちのために死んでくださった」という主の死の意味を、くり返し告白するわけです。主が再び来られる時まで続けなさい。 27 ですから、もしふさわしくないままでこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。 28 したがって、聖餐に臨む前に、めいめいが注意深く、自分を省みなければなりません。 29 もしキリストの体を気にもかけず、その意味を考えもせずに、ふさわしくないままでパンを食べ、杯を飲むなら、神のさばきを招くことになります。キリストの死をもてあそんだわけですから。 30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、また死者も出たのはそのためです。

Observation(観察)

聖餐式のパンと葡萄酒について、これは霊的にはキリストの血と体を意味するものであり、『「主は私たちのために死んでくださった」という主の死の意味を、くり返し告白する」とその意義を伝えている。

同時に彼が警告するのは「もしふさわしくないままでこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。」という事だ。罪を抱えたまま凄惨に臨むなら、イエス様のなされた贖いを嘲り否定することになってしまう。

毎月の聖餐式に望むとき、心を点検しよう。罪が残っているならその場で悔い改めよう。どうしても心にひっかかりがあるなら教職の先生方に相談しよう。

Application(適用)

病が続くと、この節を思い出して、これこれの罪のせいで病気になったのかと、心配と恐れが湧いてくることがある。しかしいま立ち戻って悔い改める機会として下さったことに感謝している。またこの節がこれからも悔い改めの恵みを思い出させて下さることに毎月の聖餐式のたびに思いだそう。

Prayer(祈り)

イエス様、罪を犯す弱い人間です。けれどもあなたのパンと葡萄酒を見て、罪の赦しを思い出します。ただあなたの赦しにすがる以外何も出来ないものです。憐れんでください。そしてもう一度立ち上がります。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

なにを選択するか(Ⅰコリント10:23-26)

Scripture(聖書の言葉)

23 もし食べたければ、偶像への供え物を食べても一向にかまいません。それを食べても、神の律法には反しません。しかし、律法に反しないことでも最善とは限らず、また有益とも限りません。 24 自分のことばかり考えてはいけません。他の人を思いやり、何がその人にとって最善か、よく考えなさい。 25 こうすればよいのです。市場で売られている肉は、どれでも自由に食べなさい。それが偶像に供えられた物かどうか、いちいち尋ねなくてよいのです。そうすれば良心を傷つけることもないでしょう。 26 地上にある良いものはみな、主のものであり、あなたがたを楽しませるためにあるのです。

Observation(観察)

「偶像に献げられた肉」について、前節でパウロは偶像の背後には悪霊の働きがあると喝破した上で、そのような肉であると認識しない限りそれは私たちにとって脅威ではないことを語っている。しかし、もしもそれが偶像に献げられたものと私たちが知ったなら、私たちはそれを良心から避けるべきであると強く薦めている。

Application(適用)

食べ物に限らずいま世界に流通している様々なものには、多様なバックグラウンドがある。おそらくはキリスト教的に受け入れがたいものも多く含まれているだろう。しかし、その一つ一つを調べ上げることは不可能だ。しかし、明らかに反キリストに由来するものと一度知ったなら、私たちは頑としてそれを拒むべきと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、必要なことを見分ける力を下さい。世の中には様々なものがあります。時には明らかに神の喜ばれないものもあります。そのようなものを避けることが出来ますように、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

権利を用いない自由(Ⅰコリント9:16-18)

Scripture(聖書の言葉)

“私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。

では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。”

コリント人への手紙 第一 9章16~18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

非常に逆説的な表現を用いているが、この説では、パウロはあらゆる妨げから自由になるために、自分に認められている権利すら用いない。と言っている。具体例として、パウロは福音のために働くものとして得る当然得るべき報酬を挙げている。

キリストによって与えられた罪からの解放、律法からの自由を履き違えて、行きすぎた行いや、信じて間もない人を躓かせるような行動をする人に対して「権利を用いないという自由があるのだ」、という強烈なカウンターパンチのように受け止められる。6章12節には『「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。』と述べている。

福音による魂の自由を守り抜き、伝道するためにはあらゆる困難に耐え、節制するというパウロのストイックな一面が見て取れる。

Application(適用)

私は果たして真の魂の自由を持っているだろうか、自分で手にしたと思っているものに支配されていないだろうか(例えばスマホ)。25節では「競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」とも言っている。神の栄光を共に受けるために、一人でも多くの人の魂を勝ち取るために、あらゆる面で節制する、と書いている。この「競技」とはコロシアムで行われている格闘技を指す用語とも言われている。ギリギリの戦いのために減量して備えるボクサーの様に、自分を制するものでありたい。

Prayer(祈り)

イエス様、パウロの真剣さを僕に下さい。これまでいい加減に生きてきました。残る生涯を、真剣に生きたと振り返ることができる人生にしたいです。

権利を用いないという自由もあることを教えてくださり、感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

伝道について(Ⅰコリント9:20-23)

Scripture(聖書の言葉)

20 私はユダヤ人といっしょにいる時は、ユダヤ人のようにふるまいます。それによって、彼らが福音に耳を傾け、キリストに導かれるためです。また、ユダヤ教の習慣や儀式を守っている外国人といっしょにいる時は、私自身はそのことに同意していなくても、議論したりはしません。何とかして、彼らを助けたいからです。 21 異教徒といっしょにいる時は、できるだけ、彼らに合わせるようにしています。もちろん、クリスチャンとしての正しさだけは失わないように気をつけますが。こうして、彼らに合わせることによって、その信頼を得、彼らをも助けることができるのです。 22 良心を悩ませやすい人たちのそばでは、自分の知識をひけらかすような行動をしたり、「それは考えが足りない」などと指摘したりはしません。すると、彼らのほうでも心を開いてくれます。その人が救われるためには、私はどんな人に対しても同じ立場に立とうと心がけています。 23 これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。

Observation(観察)

パウロの伝道の姿勢について、彼自身が語るのは、「自分の知識を押しつけず」クリスチャンとして間違った行動をしない限り、彼らのそばに居る、というものだ。

「22bその人が救われるためには、私はどんな人に対しても同じ立場に立とうと心がけています。 23 これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。」

伝道にあたっては、自分の経験、知識を押しつけるのではなく、その人に寄り添い、必要な助けの手をのべる、と言うことだ。

自分の知識や正しさで壁をつくって縮こまっていては、教会は成長しないし、「神と人を愛する」ことは実践されない。

私たちの受ける報酬は自己満足ではなく、「23 これは福音を伝えるためであり、また、キリストの救いに導かれる彼らを見て、私自身も祝福を受けるためなのです。」

Application(適用)

未信者の人と教会で話すとき、なかなか福音の話に至ることが出来ないこともある。つい焦って話を飛ばして、「ところでイエス様についてどう感じますか?」などと聞いてしまうこともあり、失敗だったなと感じている。一方で世間話だけをして帰られる方もあり、これで良かったのかなと後悔することもある。

しかし大事なことは、その人に寄り添い、その人の痛みと必要を理解する事だと今は感じる。多くの言葉ではなくても、その姿勢でイエス様を表してゆきたい。

Prayer(祈り)

イエス様、自分勝手な自分主導の伝道ではなく、その人の心に寄り添い、理解することが大事だと分かりました。うまく実践できないかもしれませんが、心を込めてこの働きをしたいと思います。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

知識と愛(Ⅰコリント8:1-3)

Scripture(聖書の言葉)

“次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。”

コリント人への手紙 第一 8章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

パウロは偶像に捧げた肉の例えで、知識による行動よりも愛による行動を取るべきだと述べている。知識を得て、「存在しない無力な神に捧げた肉」は人を害しないとわかっていても、未熟な、異なるバックグラウンドを持つ人にとってはそれを食べることはショックを与えることになる。

知識の正しさに基づいて振る舞うより、愛を持って行動を控える、人々を支える方がより優れた行為なのだ。

この節は知識と愛について、二つの対比を行なっている。

1.知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます

2.自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

知識について、何か知っていると思っているなら、まだ必要な知識には届いておらず、それは高ぶりに通じる。

神を愛するなら、神はその人を愛し、育てて下さる。

神によって私たちが神の愛を知り、知識も得るなら、周りの人々を愛し、育ててゆくことができる。

Application(適用)

私は学ぶことが好きで、知識を得ることを楽しんでいた。しかし、知らず知らずのうちに得た知識で他人を裁く思いを持っていたのかもしれない。

まだ私は、知るべきことの麓にすら至っていない。謙遜になって学びを続けよう。同時に神と人を愛し、神によって、神の子供として育てていただこう。神に愛される事で、人を愛することを学び実践しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、知識と愛について学びました。知識だけではあなたに近づくことはできません。神に愛されていることを知り、神と人を愛し、謙遜になって学ぶところにあなたの知恵があるとわかりました。

これからの歩みを祝福して助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

つまづき(Ⅰコリント8:4-9)

Scripture(聖書の言葉)

4 では、この問題はどうなるでしょう。偶像に供えた肉を食べてもよいのでしょうか。私たちはみな、偶像など実際には神ではなく、神様はおひとりだけで、ほかにはいないことを知っています。 5 ある人は、偉大な神々は天にも地にも数多くいると考えています。 6 しかし私たちは、父なる神ただおひとりであることを知っているのです。この神様が万物を創造し、人間をご自分のものとして造られたのです。また私たちは、ただ一人の主、イエス・キリストがおられることを知っています。この方がすべてのものを造り、私たちにいのちを与えてくださるのです。

7 けれども、クリスチャンの中には、このことがわかっていない人もいます。そういう人はこれまでずっと、偶像を生きているもののように考えてきたので、ただの偶像に供えられたにすぎない物を、あたかも実在する神々に供えたかのように思ってしまうのです。そのため、それを食べることがひどく気になり、傷つきやすい良心が痛むのです。 8 ただ、このことを覚えておいてください。 9 ただし、いくら自由といっても、あなたがたがそれを食べたために、あなたがたよりも良心の傷つきやすいクリスチャンがつまずかないよう、くれぐれも注意してください。

Observation(観察)

偶像に献げた肉を食べて良いかどうかについて、パウロは群像は神ではないのだから「神様は、私たちがそれを食べるか食べないかなど気にかけておられません。食べなくても損にはならないし、食べても得をするわけではありません。」と言っている。しかし、その行動が他の新しいクリスチャンを悩ませるなら、それは正しい行動ではない。

私たちの取る行動は、全て神のために益となるようにしたい。そればかりではなく兄弟を達を悩ませ、苦しめるような言動がないか、自分をチェックしよう。

Application(適用)

ずいぶん昔、クリスチャンのある友人が取った行動で、しばらく躓いたことがあった。今思えば、その人の取った行動も適切ではなかったし、私の反応も過敏すぎた。聖書に照らし合わせずこれは悪だ、と決めつけてしまった。結果何日間かは気まずい思いをし、大切な時間を無駄にしてしまった。

同じ事を繰り返さないためにも、他者の言動には明らかに聖書に反さない限り、寛容で居ようと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、私の行動が人を躓かせるようなことがあれば、改めます。教えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

とどまる(Ⅰコリント7:20-24)

Scripture(聖書の言葉)

20 また人は、神の救いを受けた時にしていた仕事を続けるべきです。 21 あなたが奴隷でも、そのことを気にしてはいけません。もし自由の身になる機会があれば、もちろん自由になりなさい。 22 もし奴隷であって主に招かれたのなら、キリストは恐ろしい罪の力からあなたを解放して、自由の身にしてくださったことを忘れてはなりません。また、もしあなたが自由人であって主に招かれたのなら、今はキリストの奴隷であることを忘れてはなりません。 23 あなたがたは、キリストが代価を払って買い取ってくださった身であり、キリストのものなのです。ですから、こうしたこの世の誇りや恐れのすべてから自由になりなさい。 24 愛する皆さん、それぞれがクリスチャンになった時の状態にとどまっていなさい。主が今、助けてくださるからです。

Observation(観察)

パウロは、救われた状態に留まることを勧めている。たとえそれが奴隷であったとしても、気にしてはいけないとまで言っている。私たちはいつも、少しでも良い仕事や立場を求めてジタバタ足掻いてしまう。

しかし私たちはもっと本質的な所でこの世の中の求めるものから離れた立場に置かれている。言い方を変えればもはやこの世は私たちを評価できない、計測不能な存在なのだ。その事にもっと目を向けよう。

一方でパウロは「キリストは恐ろしい罪の力からあなたを解放して、自由の身にしてくださったことを忘れてはなりません。」と述べている。救われる前の自分が何に囚われていたのか、それを忘れてはいけない。罪に鈍感になると、神の救いにも鈍感になる。真に価値のあるもの、真に忌避すべきものを見分ける目を持とう。

Application(適用)

今の仕事で評価されてもされなくても、出世できても出来なくても、キリストの救いの方が遙かに重要で、その事を喜び続けたい。たとえて言うなら大富豪の相続権を持った人が道ばたの百円玉を拾い損ねたかどうか、という程度の問題だ。

神を喜び、罪を遠ざける生活を取り戻そう。

Prayer(祈り)

イエス様、救われた人を測る量りはもはやこの世のものではありません。私たちを測るのはただ神様だけです。この世を喜ばせることを止め、神を喜ばせることに集中したいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。