聖霊様によって生きる(ローマ8:11-14)

Scripture(聖書の言葉)

11 そして、もしイエスを復活させた神の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、神はこの同じ御霊によって、あなたがたの滅ぶべき体をも生かしてくださるのです
12 ですから、愛する皆さん。あなたがたの古い罪の性質がどんなことを要求しても、それに応じる必要は全くありません。 13 もし古い性質に従い続けるなら、道に迷い、やがて滅びるしかありません。しかし、もし御霊の力によってそれを打ち砕くなら、あなたがたは生きるのです。
14 神の御霊によって導かれる者はだれでも、神の子どもだからです。

Observation(観察)

古い罪の性質、すなわち原罪についてパウロは数章に渡って語っている。生まれ持った性質であり、絶えず私たちに罪を犯すように要求し続けてくる。しかしパウロは「それに応じる必要は全くありません。」そして「もし御霊の力によってそれを打ち砕くなら、あなたがたは生きるのです。」と言っている。原罪の誘惑を打ち砕くのは聖霊様なのだ。そしてその力の大きさは「イエスを復活させた神の御霊」とあるように、死すら打ち破るほどに力あるお方なのだ。罪によって死ぬ者では無く、御霊によって生きる者となろう。

Application(適用)

聖霊様のことをいつの間にか見失ってしまうことがよくある。その様な時は、罪と咎に目を覆われて、見えなくなっているのかもしれない。けれども御言葉はいつも聖霊様を思い起こさせて下さる。如何に大きな力が私たちの内にあるのか、気づかないことは本当に勿体ない、そして申し訳ないことだ。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたの御霊である聖霊様を見失うことが多かったように思います。若いことは口癖のように聖霊様のことを語っていたように思います。今一度、その様な者にして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

律法の束縛、キリストの自由(ロマ7:2-5)

Scripture(聖書の言葉)

2 一例をあげれば、女性は結婚すると、夫が生きている限り、律法によって夫に束縛されています。しかし夫の死後は、もはや束縛されません。結婚の規定はもう適用されないのです。 3 ほかの男性と結婚したいなら、結婚してかまいません。そのようなことは、夫が生きているうちは罪ですが、夫の死後なら、やましいことは少しもないのです。

4 同様に、かつて律法は、あなたがたの「夫」すなわち主人でした。しかし、あなたがたはキリストと共に十字架上で死んだのですから、律法との婚姻関係は解消されました。もう律法に支配されることはありません。そして、キリストの復活と同時に、あなたがたも復活し、新しい人になりました。今は、死者の中から復活された方と結ばれているのです。それは、神のために良い実を結ぶためです。 5 私たちの古い性質がまだ生きていた時には、欲望が私たちの中で思うままにふるまい、神の命令に逆らって、罪深い行いという死に至る腐った実を結びました。

Observation(観察)

パウロは律法の支配を婚姻に例えている。結婚している間は婚姻にまつわる律法のゆえに妻は夫に支配されるが、夫の死後は妻はそれらの律法から解放される。

私たちはかつては律法に支配されていたが、イエス様の十字架の死によってその支配から解放されているとパウロは言っている。そればかりか、律法と別れた私たちは、復活されたイエス様に結ばれ、神のための良い実を結ぶことができる様になるとされている。かつて原罪に支配されていた時には、「罪深い行いという死に至る腐った実を結んだ」とされている。誤解を恐れずに言えば、主人を変えるということは生み出す実を変えてゆくということだ。これからの生涯、私たちは何を生み出したいか、神の喜ばれる良い御霊の実か、それとも死に至る腐った実か。選択は私たちに委ねられている。

Application(適用)

私たち人間は何かに頼らなければ、よりかからなければ生きていけない弱い存在なのだと学ばされている。しかし何に寄りかかるかを私は真剣に見極めなければならない。朽ちかけた老木のような自分を頼るか、煌びやかに飾った罪の誘惑に自分を委ねるか、それとも神の知恵を求め、みことばをしたいもとめるか、人生の後半にかかりますますその選択は重要になっている。知恵を呼び求め、真剣に神と共に生きる生涯を選びたい。

Prayer(祈り)

イエス様、律法の支配からイエス様の十字架の下に移され、神の愛を生きる道に移してくださり感謝します。パウロも述べている通り律法そのものは悪ではありませんが、そればかりを見ていては罪を想起させそこにフォーカスしてしまいます。むしろイエス様が何をされどのように人々を愛されたかを見て、神の愛を見続ける者になりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

御声に応答する者(ロマ6:8-11)

Scripture(聖書の言葉)

8 罪を愛する古い性質がキリストと共に死んだのですから、確かに私たちは、キリストの新しいいのちを共有しているのです。 9 キリストは死者の中から復活されたので、もう二度と死ぬことはありません。死には、もはやキリストを支配する力がないのです。 10 キリストは、罪の力にとどめを刺すために、ただ一度死なれました。しかし今では、神との絶えることのない交わりの中に生きておられます。 11 ですから、あなたがたの古い罪の性質も、罪に対して死んだもの、反応しなくなったものとみなしなさい。そして、その代わりに、私たちの主イエス・キリストに結ばれ、神に対して生きる者、神の御声に敏感に応答する者となりなさい。

Observation(観察)

罪の性質は私たちの生まれながらの性質として、長く私たちの人生に同居していた。あらゆる神の御思いに反逆し、肉の欲望に拘束しようとする者。私の仮面を被り、まるで自分の真の欲求であるかのようにこの世の価値観を押しつける者。この難敵にどれほど私たちは苦しめられていることだろう。しかし、もはや罪は力を失っている。イエス様が「罪の力にとどめを刺すために、ただ一度死なれ」たからだ。罪はもはや拘束力を持っていないことを隠して相変わらず私たちを誘惑し続ける。パウロは「あなたがたの古い罪の性質も、罪に対して死んだもの、反応しなくなったものとみなしなさい。」と言っている私たちの古い性質は、罪の誘惑によって励起される必要のないものなのだ。これに対になることばとして「主イエス・キリストに結ばれ、神に対して生きる者、神の御声に敏感に応答する者となりなさい。」
罪の誘惑ではなく、神の御声に応答する者となるのだ。神の御声を求めよう。罪の呼ぶ声が聞こえなくなるくらい神の御声で満たされよう。

Prayer(祈り)

イエス様、御言葉にはいつも希望があります。困難や罪の誘惑、自分の弱さでへこたれそうになっていても、御言葉はいつも私を励まし、再び立ち上がる力を与えて下さいます。今日も明日も御言葉を頼りに生きます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

肉体の死と霊的ないのち(ロマ5:17-19)

Scripture(聖書の言葉)

17 アダム一人の罪により、死はすべての人を支配するようになりましたが、神から、罪の赦しと無罪放免という無償の贈り物をいただく人はみな、イエス・キリスト一人によって、いのちに支配されるようになります。 18 アダムの罪はすべての人に刑罰をもたらしましたが、キリストの義は、人々を神の前に正しい者とするのです。それで、人々は生きることができるのです。 19 神に従わなかったアダムは多くの人を罪人にしましたが、神に従ったキリストは、多くの人を神に受け入れられる者としてくださいました。

Observation(観察)

パウロは、アダムの罪は、人々に肉体の死をもたらした、と言っている。ではアダム以来の人間の罪はどう精算されるのだろうか、それは霊的な死、すなわち地獄にゆく事を意味する。しかし、「神から、罪の赦しと無罪放免という無償の贈り物をいただく人はみな、イエス・キリスト一人によって、いのちに支配されるようになります。」と書かれており、イエス様による贖いを受け入れる物は霊的な死を逃れ、罪の赦しを得ることになる。肉体的にはアダムの子孫である私たちはやがてその肉の死を迎える。しかし霊的ないのちをイエス様から頂いているなら、死は終わりではない。新しい霊的ないのちの始まりなのだ。

Prayer(祈り)

イエス様、神に従わなかったとき、私の霊的な命は死んだ物となって今明日。イエス様を受け入れたとき、それは再び生きた者となったのです。肉の求める欲望ではなく、霊がすることを求める神への捧げ物を生涯を通してして行けますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神に信頼する物(ローマ4:16-17)

Scripture(聖書の言葉)

16 そういうわけで、神の祝福は、無償の贈り物として、信仰によって与えられるのです。ユダヤ人の慣習に従うか否かに関係なく、アブラハムと同じ信仰を持っているなら、神の祝福を確実にいただけるのです。信仰の面から言えば、アブラハムは、私たちすべての者の父です。 17 聖書に、「神はアブラハムを多くの国民の父とされた」とあるのは、この意味にほかなりません。神はどこの国の人でも、アブラハムと同じように、神に信頼する者をみな受け入れてくださるのです。神ご自身が、すなわち死者を生き返らせ、未来の出来事をすでに実現したかのような確実さでお語りになる神ご自身が、そう約束しておられるのです。

Observation(観察)

信仰義認、すなわち行いによってではなく神に全面的に信頼することで人は正しいと見なされる、というパウロの中心的な教えはこの箇所にも表れている。私たちが今日、なんらかの失敗をしたとしても、悔い改めるなら、神の救いは失われることはない。逆に人間の目には正しい行いを続けていても、神により頼らず、自分が正しいと考えている物には神の救いはない。何かに寄りかかるとき、それがしっかりした物か、倒れてしまわないか確認するだろう。人間は自分自身を支えるほどしっかりしたものでは無い。ちょっとしたアクシデントで崩れ落ちてしまう。むしろ目に見えなくても消して倒れない神に頼ることを私は選び続けたい。


Prayer(祈り)

イエス様、何度となく自分の弱さと失敗を見てきました。本当に自分を頼りにすること、自分を支えることは、心身共に出来ないと昨日も今日も思いました。だからあなたに頼ります。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の正しさと愛(ローマ3:3-6)

Scripture(聖書の言葉)

3 確かに、ユダヤ人の中には不忠実な者がいました。しかし、一部の不忠実な者が神との約束を破ったからといって、神も約束を破られるでしょうか。 4 絶対にそんなことはありません。たとえ世界中の人がうそつきでも、神は真実な方です。このことについて詩篇には、「神のことばに誤りはない。だれが疑いを差しはさもうと、いつも真実で正しい」と書いてあります。 5 ところが、こんなふうに主張する人がいます。「でも、私たちの神に対する不忠実は、むしろよかったのではないか。人々は、私たちがどんなに悪い人間であるかを見て、神がどんなに正しい方であるかに気づくだろうから。」すると、彼らの罪が神の役に立っているのに、罰せられるのは不公平だということになるのでしょうか。6 それは全く違います。罪を見過ごすような神があるでしょうか。そんなことで、神はどうして人をさばくことがおできになるでしょう。

Observation(観察)

神とユダヤ人の関係について、パウロはその永続性を語っている。一部の者達の違反があったとしても。神はご自身の約束を損なう方ではなく、正しい事を行われる方だ。しかし、一方で、自分が過ちを犯すことがかえって反面教師になって神の役に立つ、と主張する人々が現れた。パウロはこれを真っ向から否定する。神は愛の神であられると同時に正しい神である。神の正しさは神そのものの本質であり、神は正しくないことを行うことは無い。したがい全ての罪について人の後付けの理屈などに惑わされず、正しく裁かれる。唯一の例外は罪を認めた人に対してイエス様の身代わりによる赦免である。このことによって神は正しさと愛の両方を矛盾なく持たれているのだ。

Application(適用)

だから、私たちは自分たちの弱さや失敗について、あれこれ言い訳や理屈を考える必要は無い。ただ悔い改め、神の元に安心して立ち返ろう。

Prayer(祈り)

イエス様、人間は色々なことを考え出して、自分の罪を隠したり、誤魔化したりしようとします。しかしそれは神様の喜ばれる道ではありません。正直に罪を明らかにし、悔い改める物を神は喜ばれます。私は相変わらず言葉と思いで罪をおかす物です。すぐに悔い改める心の
柔らかさを与えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

誠実に生きる(ローマ2:12-16)

Scripture(聖書の言葉)

12-15 外国人が罪を犯した場合、たとえ彼らが文字に書かれた律法を知らなくてもさばかれます。彼らは心の奥底では、正しいことと悪いこととを区別できるからです。その心の中には、律法が書かれているのです。つまり、彼らの良心が、彼らを責めたり、また時には弁護したりするわけです。

ユダヤ人が罪を犯した場合は、神が彼らを罰せられます。律法が与えられているのに従わないからです。彼らは何が正しいかを知りながら、実行しません。結局のところ、なすべきことを知りながら実行しない人はさばかれるのです。 16 神の命令によって、キリスト・イエスが、すべての人の心の奥底に潜む思いや動機をさばかれる日が、必ず来ます。このことは、私が伝えている神の偉大なご計画の一部です。

Observation(観察)

パウロはローマに住むユダヤ人達に対し、律法を知っていても従わないユダヤ人よりも、律法を知らなくても神に従う外国人を神は喜ばれると断じている。
このユダヤ人と外国人の関係を、クリスチャンとノンクリスチャンの関係に置き換えるとどうだろうか。私たちが「イエス様によって救われている」と言いながら罪の生活を続けているなら、ノンクリスチャンの人々に対し、なんの自慢にもならないのではないだろうか。むしろ神が誰であると知らなくても神の前に誠実に生きるノンクリスチャンの方が神に喜ばれているのではないだろうか。
たしかに救いは絶対的で、信じる全ての人に与えられている。けれどもそれに胡座をかく事無く、誠実に神に従う生き方こそ、まだ神を知らない、けれども誠実な人々を神に導く働きが出来るのだ。


Prayer(祈り)

イエス様、救いによって私たちの本質が変えられたなら、その行動も言葉も思考も変えられたいです。イエス様を証する物となり、救いの計画にある全ての人の前に灯台となり、道しるべとなりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ねじれた生き方(ローマ1:18-21)

Scripture(聖書の言葉)

18 しかし、真理を押しのける、罪深い邪悪な人々には、神の怒りが天から下ります。 19 なぜなら、彼らは神の真理について本能的に知っているからです。神が、この知識を彼らの心にお与えになったのです。 20 世界が創造されてからこのかた、人々は、天地や、神がお造りになったすべてのものを見て、神の存在とその偉大な永遠の力をはっきり知っていました。ですから、彼らには弁解の余地がありません。 21 彼らは、確かに神を知っているのです。けれども、そのことを認めず、神を礼拝せず、日々神に守られていることを感謝しようともしません。やがて彼らは、神がどのようなお方か、また自分たちに何を求めておられるかについて、愚かなことを考えるようになりました。その結果、彼らの心はくもり、訳がわからなくなったのです。

Observation(観察)

パウロは福音を受け入れない人々に関して、「彼らは神の真理について本能的に知っているからです。神が、この知識を彼らの心にお与えになったのです。」と言っている。全ての人はその心の深いところに神の存在を確信する核(コア)の様な物を持っていると感じる。そして天地の運行や被造物を見、さらに神のお働きを感じるのだ。しかしそれでも神の実在を否定するなら、なぜなら本能で神を知っているのに、知性とか理性がそれを否定するなら、私たちの心は二律背反にねじれた状態になってしまう。パウロはその状況を「その結果、彼らの心はくもり、訳がわからなくなったのです。」と表現している。

私たちは自分たちの本能的確信に沿って神を信じ、神を愛する生き方を選択すべきだ。心と知性がバラバラな方向を向いたような生き方はどこかで破綻してしまう。ここ数日、ソロモンの知恵について書いていたが、神あっての、神から与えられてこその知恵である。知恵のみで神を失ってしまうなら、その知恵はただ空しい物となってしまう。


Prayer(祈り)

イエス様、私たちがこの世に存在した瞬間から、神を神とする思いを与えて下さって感謝します。時にそれを否定する考えや学問がやってきますが、私は自分の確信によってあなたを信仰の対象とします。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

さらに知恵を求める(Ⅰ列王記4:29-34)

Scripture(聖書の言葉)

29 神はソロモン王に、豊かな知恵と理解力、さらに、どんなことにも興味を示す心をお与えになりました。 30 事実、王の知恵は、どんな学者よりもまさっていたのです。 31 王は、昔から知られるどんな知者よりも知恵があったので、その名声は周囲のすべての国々に広がりました。 32 王は三千の格言と、一千五首の歌を作りました。 33 また、動物、鳥、蛇、魚ばかりか、レバノン杉から石垣の割れ目に生えるヒソプに至るまで植物に通じる博学者でした。 34 そのため多くの国々の王が、ソロモン王の助言を聞こうと使者を送って来ました。

Observation(観察)

神がソロモンに与えた知恵がどのような物であったかが語られている。好奇心に富み、博学で、詩歌の才能に優れていたとある。無限の神の知恵を頂くとは如何に大きな祝福であっただろう。私たちも神にその祝福を求めることが許されている。 「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。 そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ1:5)にあるとおりだ。
私たち一人一人が生涯を通して得、また次代に継承してゆく知恵はソロモンには遠く及ばない物かもしれない。しかし、それでも神に従う多くの民が知恵を求め、受け取ってゆくならば人類全体としての知恵は増し加わってゆく。種としての人類の前進を拓くのは、神からの知恵に他ならない。


Prayer(祈り)

イエス様、私は知恵の足りない、物事を知らない者です。自分に負うことを止め、あなたの知恵を求めます。あなたが私に用意して下さっている知恵を与えて下さい。それを生かし、また継承してゆきます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

知恵と神を求める(Ⅰ列王記3:9-13)

Scripture(聖書の言葉)

9 どうか、民を正しく治め、善悪をはっきり見分けるために、すぐれた判断力と聞き分ける心とをお与えください。いったいだれが、自分の力でこれほどの重い責任を果たせるでしょう。」

10 ソロモンが知恵を願い求めたので、主はことのほか喜びました。 11 そこで、こう答えました。「あなたは民を正しく治める知恵を求め、長生きすることや財産、または敵に勝つことを願わなかった。 12 したがって、望んだものを与えよう。しかも、ずば抜けた知恵を。 13 また、望まなかった財産と名誉も与えよう。あなたが生きている間、財産と名声であなたにかなう者はだれもいないだろう。

Observation(観察)

ソロモンがギブオンの丘で生け贄を捧げたとき、主が幻のうちに現れ、ソロモンに何を望むか尋ねられた。その問いにソロモンは王として民を治める知恵を主に求めた。その答えに主は喜ばれたとある。
知恵を求めることは、神の真理を求めることに等しい。神の英知を知ることはこの世の理を理解する事と同義だ。箴言3章に「主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。」とあるとおりだ。
ソロモンは最終的に神への信仰を歪めてしまったが、私たちは知恵を求めると同時に、愚直に神を求め続ける者でありたい。知恵によって辿り着ける境地は確かにあると思うが、そこで誰に会うのか、そこが誰の物なのかを見失ってはならない。


Prayer(祈り)

イエス様、ソロモンのように知恵ある物となりたいですが、それ以上にあなたに従う者でありたいです。パウロが敢えて愚かさを選ぶと言ったように、神に従うという一点においては愚直でありたいです。
イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。