割礼か聖霊か(使徒15:7-9)

Scripture(聖書の言葉)


7 激しい論争が続いたあと、ペテロが立ち上がり、意見を述べました。「皆さん、お忘れですか。ずっと以前、外国人も福音のことばを聞いて信じるために、神様が私をお選びになったことを。 8 人の心の中をご存じの神様は、ご自分が外国人をも受け入れておられることをわからせようと、私たちと同じように、彼らにも聖霊を与えてくださったのではありませんか。 9 神様は、外国人とユダヤ人を少しも差別なさいません。だからこそ、私たちと同じように、信仰によって彼らの心もきよめてくださったのです。

Observation(観察)


外国人のクリスチャンに割礼を受けさせるべきかどうか、エルサレムの教会では議論が続いていた。議論の方向性を決めたのは、このペテロの言葉であった。「 8 人の心の中をご存じの神様は、ご自分が外国人をも受け入れておられることをわからせようと、私たちと同じように、彼らにも聖霊を与えてくださったのではありませんか。」割礼という肉体のしるしではなく、聖霊様を受けるという霊のしるしが救いの証明だとペテロは主張する。「9 神様は、外国人とユダヤ人を少しも差別なさいません。」とも有る。この瞬間にキリスト教はあらゆる国民に向けて門戸が開かれたのだ。

Application(適用)


割礼の例えのように、私の中にも他者に対する壁や差別意識があることを感じる。これを打ち破ってくださるのは聖霊様の働き以外にはない。同じ聖霊様によって動かされるところには理解と一致がある。そのことを追い求めてゆきたい。

Prayer(祈り)


イエス様、私の中から他者に対する壁を打ち砕いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ヨブの嘆き(ヨブ6:1-3)

Scripture(聖書の言葉)


1 ヨブの返答。
2 「ああ、この悲しみと苦しさの重さを
量ることができたらよいのに。
3 まるで海辺の砂を千倍にもしたような重さなのだ。
だから、思わず激しいことばを吐いてしまったのだ。

Observation(観察)


苦しみにあえぐヨブは自分を呪い、励まそうとする友人達にも激しい言葉で反論する。しかしそのような中でもヨブは神を絶対者として決して否定しなかった。一方で自分は人間として限界はあれど精一杯正しく生きた、しかしヨブの身にはこのような悲惨なことが起きた。なぜだ。このような懊悩が人生には確かに起きる。成長のためとか過去の清算とか理屈をつけようとしても解決できない。起きることは起きるのだ。唯一人間に出来ることは神を否定しないこと、ただそれしか残らないのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、なぜこのような苦しみを、と思うことが何度もありました。それでも神を否定することはどうしても出来ませんでした。神を否定することは自分の人生も世界も隣人も、全てを否定することだからです。苦しみの中にこそ、人生の本質があるのかもしれません。まだ分からないことばかりです。助け手下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

弁護してくださる方(ヨブ9:32-33)

Scripture(聖書の言葉)


32-33 神は人間ではないので、
私は自分を弁護することができません。
もし神が人間なら、
対等な立場で話し合えるでしょう。
私たちの間には仲裁人がいません。
仲を取り持つ者がいないのです。

Observation(観察)


ヨブの苦難と神に対する不満は極限に達していた。ヨブは子供の犯したかもしれない罪のために生け贄を捧げていた。言い換えれば罪から来る裁きに対する恐れの思想に凝り固まっていたと言える。ヨブは自分を弁護できる方が居ないことを嘆く、律法と罪、そして裁きだけが神との関係ならば、そこに救いはない。イエスというお方が神と私たちの間に弁護人として仲裁してくださるから、神の厳しさはその本質である愛を表し、私たちの罪は神の愛と赦しを表す機会となった。罪による永遠の裁きはキリストによる赦しにより永遠の御国に変わった。
だれしも本当に苦しい時はある。そのようなときにはこの神の裁きとしか思えないような苦しみにイエス様がどのように関わってくださっているのか考えよう。

Prayer(祈り)


イエス様、ヨブは仲裁人がいないと嘆きましたが、いまわたしにはあなたがおられることが幸せです。罪には受けるべき罰、刈り取るべき結果があります。けれどもイエス様がいれば幸せにその期間を過ごすことが出来ます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様が下るというしるし(使徒10:42-48)

Scripture(聖書の言葉)


それで私たちは、このイエスが、生きている人でも死んだ人でもすべての人を審判する方として、神に任命されたのだと証言しているのです。 43 イエスについては、どの預言者も、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪が赦されると証言しています。」

44 ペテロがまだ話しているうちに、聖霊が一人一人に下りました。 45 ペテロに同行して来たユダヤ人のクリスチャンたちは、外国人にも聖霊の賜物が与えられたので驚きました。 46-47 しかし、これは疑う余地のない事実でした。人々は自由にそれぞれ異なった国のことばで話し、神を賛美していたからです。「私たちと同じように聖霊を受けたのですから、この人たちにバプテスマ(洗礼)を授けることに、だれも反対できません。」こうきっぱり言いきると、 48 ペテロは、キリスト・イエスの名によって、バプテスマを授けました。

Observation(観察)


カイザリヤのコルネリオの招きに、神の促しによって応じたペテロは、コルネリオの家でイエス様を証するやいなや、聖霊様が下り、人々は異言で祈り始めた。異邦人に対しても変わらずに信じた者に聖霊様の傾注が起きたことは、歴史を大きく変えてゆく。これまでユダヤ教の一派と見なされていた集まりが、世界に向けての伝道を開始した瞬間だ。聖霊様を抜きにしてキリスト教を語ることは出来ない。逆にもしも、聖霊様を知らずに力ないクリスチャン生活を送っている人がいるならば、是非聖霊様は今も同じように注がれることを知らせたい。

Prayer(祈り)


イエス様、日本では聖霊様の働きについて明言しない傾向があります。しかし聖書に従うなら、これは隠すべきことではありません。出来るなら、日本で、聖霊様の働きを紹介する働きに関わりたいです。導いて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

導かれた時のために(使徒8:29-35)

Scripture(聖書の言葉)


29 聖霊がピリポをうながしました。「さあ、あの馬車に近づいて、いっしょに行きなさい。」 30 ピリポが走り寄ると、イザヤの書を読んでいるのが聞こえます。そこで、「失礼ですが、その意味がおわかりですか」と尋ねました。 31 「残念ながら、だれかが教えてくれないとわかりません。」こう答えると、その人はピリポに、馬車に乗ってそばに座ってほしいと頼みました。

(略)

34 宦官はピリポに尋ねました。「その方とは、いったいだれのことですか。イザヤは自分のことを言っているのでしょうか。それとも、だれかほかの人のことを言っているのでしょうか。」

35 ピリポはこのイザヤのことばから始めて、旧約聖書のあちこちを引用し、イエスのことをくわしく説明しました。

Observation(観察)


聖霊様に導かれたピリポは、エチオピアの宦官に出会う。そこで彼は旧約聖書のあちこちを引用し、イエス様がキリストであることを説明した。

私は長く聖書を読み、聖書学校にも通うものだが、このような場に聖霊様によって遣わされたら、どこまで聖書の話が出来るだろう。せいぜい2〜3の聖句を説明できる程度ではないだろうか。
旧約聖書がどのようにイエス様を証されているか、その観点から聖書を読み、必要に応じ引き出せるように暗唱したい。聖霊様によって与えられる伝道のチャンスを逃したくないのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、聖書を読む時に、特に旧約聖書を読む時にイエス様の影を見いだそうとしていなかったように思います。また、聖句の暗証も出来ていません。聖書を学ぶ者の姿勢として足りない者であったと思います。もう一度出直します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

任じられたところで誠実に(使徒6:2-7)

Scripture(聖書の言葉)


2 そこで十二人の使徒は、信者全員を召集し、こう提案しました。「私たち使徒が食料の配給の問題に時間をさくのは、よくありません。何よりも、神のことばを伝えることに専念すべきです。 3 そこで、愛する皆さん。この仕事にふさわしい人、賢明で、聖霊に満たされた人に、いっさいを任せることにしましょう。さあ回りをよく見回して、この人と思う人を七人選んでください。 4 そうすれば私たちは、祈りと説教と教育に打ち込むことができます。」

5 全員がこの提案に賛成し、次の人たちを選びました。ステパノ〔聖霊に満たされた信仰深い人物〕、ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケのニコラオ〔ユダヤ教に改宗していた外国人で、クリスチャンになった人物〕。

6 以上の七名が前に立ったので、使徒たちは彼らのために祈り、彼らに手を置いて祝福しました。

7 こうして、神のことばはますます広まり、エルサレムでは、弟子の数が驚くほど増えていきました。ユダヤ教の祭司たちの中からも、信仰に入る者が数多く出ました。

Observation(観察)


使徒達は信者のケアの役割を担う人を任命した。今で言う執事、長老に当たるのかもしれない。その目的は、使徒達が「祈りと説教と教育に打ち込む」為であった。結果「神のことばはますます広まり、エルサレムでは、弟子の数が驚くほど増えていきました。」とある。適切な役割分担が神の働きを加速したのだ。一方でピリポやステパノのような大きな働きをした者も居る。適切な場所と働きに忠実に使えるなら神が大きく用いて下さるのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、今おかれている場所に忠実であろうと思います。目移りしたり、不満を言うのではなく、真実にあなたに仕える者とさせて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神のお働きを見定める(使徒5:33-39)

Scripture(聖書の言葉)


33 これを聞いた議員たちは烈火のごとく怒り、使徒たちを殺そうと決めました。 34 ところがこの時、一人の議員が立ち上がりました。パリサイ派(信徒で、特に律法を守ることに熱心なユダヤ教の一派)のガマリエルで、律法の専門家として名が通っている人物です。彼は意見を述べる間、使徒たちを議会の外に出すことを要求しました。

(略)

38 それで、提案ですが、あの人たちを放っておいてはどうでしょう。もし彼らの教えや行動がただのでっち上げなら、遅からずくつがえされてしまうでしょう。 39 しかし、もし神の力によるものだったら、いかなる人といえども阻止はできません。いや、そればかりか、神に敵対することにもなりかねません。」

Observation(観察)


ペテロ達の活動に対し、ユダヤの議会は使徒達を殺してしまおうとした。しかしパリサイ派のガマリエルと言う人がたちあがり、彼らをそのままにしておくことを提案した。「38 それで、提案ですが、あの人たちを放っておいてはどうでしょう。もし彼らの教えや行動がただのでっち上げなら、遅からずくつがえされてしまうでしょう。 39 しかし、もし神の力によるものだったら、いかなる人といえども阻止はできません。いや、そればかりか、神に敵対することにもなりかねません。」神によって成されている物は誰の力によっても止めることは出来ない。
私たちも時としてこれは神からきている物なのかどうか、判断に迷う時がある。とくにこれまで持っていた価値観と異なる物の場合はなおさらそうだ。このような時、判断を急ぐのではなく、時間をかけて見極めることが必要だ。自分の狭い経験で物事の善し悪しを考えるのではなく、神の計画がどこにあるのかに思いを向けよう。

Prayer(祈り)


イエス様、自分の持っている経験はちっぽけな物です。歳を重ねてなおさらそう思うようになりました。一方で新しいものに対してうまく馴染めないことも多くなりました。そのようなとき、自分の感覚で好き嫌いを語るのでは無くて、神様の思いを探る時として下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様によって伝える(使徒4:9-13)

Scripture(聖書の言葉)


9 お尋ねの件は、あの足の悪い男のことで、どのようにして彼が治ったかということでしょうか。 10 そのことなら、あなたがた、いやイスラエルのすべての人たちに、はっきりお話ししたいのです。この出来事は、あなたがたが十字架につけ、神様が復活させてくださった、あのメシヤ(救い主)、ナザレのイエスの名と力とによるのです。 11 メシヤのイエスは、まさに『建築士たちの捨てた石が、最も重要な土台石になった』(詩篇118・22)と聖書にある、その石なのです。 12 この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」

13 あまりにも大胆なペテロとヨハネのことばに、議員たちは驚き、たじたじとなりました。二人は明らかに、教育も受けていなければ、宗教の専門家でもないのです。とうとう、イエスといっしょにいたからそうなったのだ、と認めないわけにはいかなくなりました。

Observation(観察)


ガリラヤの漁師に過ぎないペテロは祭司達の追求に堂々と反論する。彼らの結論は「イエスといっしょにいたからそうなったのだ」と言う物であった。ペテロの言葉と態度は、聖霊様の降臨以来別人のように変えられた。イエス様と過ごした体験が言葉となって表現するすべを得たのだ。
私は言葉が変えられているだろうか、話はうまい方だがその技術に乗っかっていないだろうか。あるいは朴訥でも真実に語ることの方が正しいこともあるのかもしれない。いずれにしても聖霊様が言葉を導き、用いて下さることを願う。

Prayer(祈り)


イエス様、わたしの上っ面だけの言葉を変えて下さい。真実にイエス様を愛し、そこから湧き上がる言葉を語らせて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

イエス様の名の力(使徒3:16)

Scripture(聖書の言葉)


16 この方、すなわちイエスのお名前の力で、この人は治ったのです。彼の足が以前どんな状態だったかは、ご存じのとおりです。神から与えられた、イエスの名を信じる信仰によって、彼は完全に治ったのです。

Observation(観察)


美しの門のそばで物乞いをしていた足萎えの男は、ペテロの「ナザレのイエス・キリストの名によって命じる。さあ、立って歩きなさい。」という言葉によって立ち上がり歩き出す。驚き怪しむ人々に対しペテロは「イエスのお名前の力で、この人は治ったのです。」「イエスの名を信じる信仰によって、彼は完全に治ったのです。」と明言する。イエス様のお名前には力がある。イエス様の名前を信じる信仰、すなわち、イエスはキリストであると信じる信仰には癒しの力がある。ペテロの説明は単純明快だ。
神の癒しには複雑なロジックも数秘学も神学も必要ない。ただイエス様は救い主であるという告白には力があると信じる。その事だけが必要なのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたがメシア、救い主、油注がれた者であると告白します。この告白には力があると信じます。今私に必要な癒しを与えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

賜物としての聖霊様(使徒2:38)

Scripture(聖書の言葉)


38 ペテロは答えました。「一人一人、罪の生活から悔い改めて神に立ち返りなさい。そして、罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば、聖霊という賜物をいただけます。

Observation(観察)


この箇所では、これ以上無いほどはっきりと、罪の悔い改め、救いと洗礼、そして聖霊様を賜物として受け取る事が書かれている。残念ながら多くの教会では聖霊様について強調しない。私個人は信じた人にはすぐにでも聖霊様が与えられることを告げるべきだと考える。人生の困難な時において御言葉を想起させて下さるのは聖霊様に他ならないからだ。聖霊体験を知らずに信仰生活を歩むのはペダルをこがずに自転車で進むような物だ。神が助け手として遣わしてくださる方を歓迎しよう。

Prayer(祈り)


イエス様、聖霊様の働きなしには今の私はありません。救われてからここまで、一緒にいてくださることを感謝します。ペテロのように、堂々と聖霊様について語ることをしたいです。導いて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。