人々が救われるのに最善のこと(1コリント10:31-33)

Scripture(聖書の言葉)

31 しかし、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。 32 相手がユダヤ人であれ、外国人であれ、教会であれ、だれもつまずかせてはいけません。 33 これは私の生活の原則でもあり、何をするにも、私はすべての人に喜んでもらおうと努めています。だから、自分のしたいことや、つごうの良いことをするのでなく、人々が救われるのに最善のことをするのです。

Observation(観察)

教会は様々な背景を持つ人々の集まりだ。国籍も経験も文化も異なる。ともすれば自分にとってあたりまえの言動が、他者にとってのつまづきになってしまう事もある。パウロは彼の生き方をやりたいようにするのではなく、人々が救われるのに最善のことをする、と言っている。窮屈な生き方をしろと聖書は命じているわけではない、むしろ人々の範となるために何が最善か選択すべきと言っている。私の生き方を振り返ると人々を躓かせることもあったかもしれない。再考し、必要なら素直に選択し直そう。

Prayer(祈り)

イエス様、これまでの生き方で気付かず人々を躓かせる様な言動があったと思います。どうか示して下さい。素直に従う心を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

つまづきの種にならないように(1コリント8:7-9)

Scripture(聖書の言葉)


7 けれども、クリスチャンの中には、このことがわかっていない人もいます。そういう人はこれまでずっと、偶像を生きているもののように考えてきたので、ただの偶像に供えられたにすぎない物を、あたかも実在する神々に供えたかのように思ってしまうのです。そのため、それを食べることがひどく気になり、傷つきやすい良心が痛むのです。 8 ただ、このことを覚えておいてください。神様は、私たちがそれを食べるか食べないかなど気にかけておられません。食べなくても損にはならないし、食べても得をするわけではありません。 9 ただし、いくら自由といっても、あなたがたがそれを食べたために、あなたがたよりも良心の傷つきやすいクリスチャンがつまずかないよう、くれぐれも注意してください。

Observation(観察)


福音に対する理解度は、人によって異なる。信じたばかりの人で聖書通読の経験の無い人にとっては、理解できないこともあるかもしれない。あるいは信仰が長くても良心が麻痺して、聖書の良しとしないことにも無関心になっている人もいるかもしれない。またはパウロの言うように他の宗教の経験や記憶に影響され、混乱している人もいるかもしれない。現代は特に情報過多で、聖書に端を発しない知識やハウツーに溢れている。
パウロは私たちの言動がそのような人のつまずきにならないように励ましている。昨日の記事とも関連するが、イエス様の救いによって神が私たちに赦されている範囲は大きい。しかしその中で何を選ぶか、何を控えるかは私たちに任されている。

Application(適用)


かつては「尖っている」クリスチャンに憧れたこともあったが、今は少し考えが変わってきた。
勿論そのような方々には特別な召しがあり、重要な働きのためにそうされている。しかし今の私の召しは誠実に神に仕える姿勢をお互いに励ますことだと感じている。いまそれが出来ているわけではないが、そこに向かって誠実にクリスチャン生活を続けたい。

Prayer(祈り)

イエス様、教会という群れの中でお互いが励ましとなれるよう、つまずきの種とならないように、私の言動を変えて下さい。もっと角が取れて、多くの人にとって安心な存在になれますように、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

自由を正しく用いる(1コリント6:12-13)

Scripture(聖書の言葉)


12 キリストが禁じておられること以外、私には、何でもする自由があります。しかしその中には、自分のためにならないこともあります。たとえ、してよいことであっても、それに捕らえられたら最後、やめようとしても簡単にやめられないことには手を出しません。

13 食べることについて考えてみましょう。神様は、物を食べるために食欲を与え、消化するために胃を備えてくださいました。だからといって、必要以上に食べてよいということにはなりません。食べることが第一だなどと考えてはいけません。なぜなら、いつの日か神様は、胃も食べ物も取り上げられるからです。

Observation(観察)


私たちが神にあって与えられている自由は大きな幅がある。ある種の弱さを持っている人にとっては、それに依存してしまう可能性のあるものもある。パウロは食べることを例に挙げている。体を維持するために節度を持って食事を用い、食欲に自分が呑まれてしまわないようにするべきだ。
私も物事に依存しやすい性質を持っている。物事の優先度を間違えないようにしなくてはならない。

Prayer(祈り)


イエス様、今日の御言葉は心に刺さりました。赦されている範囲で物事を正しく用いる、ただし神を見失うことにならないようにします。今抱えている全ての悩みをイエス様に持って行きます。平安を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

福音にある神の知恵(1コリント2:12-14)

Scripture(聖書の言葉)


12 事実、神様は私たちに、この世の霊ではなく、ご自分の聖霊を与えてくださいました。それは、神からのすばらしい恵みと祝福という賜物を、私たちが知るためです。 13 この賜物について話す時、私たちは、自分が人間として選んだことばではなく、聖霊によって教えられたことばを使ってきました。つまり、聖霊のことを説明するには、聖霊のことばを用いるのです。 14 しかし、クリスチャンでない人は、聖霊が教えてくださる神の思いを理解することも、受け入れることもできません。彼らには愚かしく思えるのです。というのは、自分のうちに聖霊をいただいている人だけが、聖霊のお考えを理解できるからです。

Observation(観察)


コリントの手紙の前段では、福音の単純さ、こそが神の知恵であることをパウロは論じている。この節では聖霊様なくしては神のお考えを知ることは出来ないとある。しかし一方、聖霊様を受けるには信仰を持たなければならない。人間の知恵ではパラドクスに陥ってしまう。このような人間の考えの堂々巡りを稲妻のように貫通して矛盾を打ち壊すのは、イエス様の福音なのだ。単純に信じることから聖霊様が与えられ、神の思いを知り、神の恵みと祝福を得る。人間の知恵は時として神の福音から目を遠ざけ、塞いでしまう。大事なことは子供のように信じることだ。親が親であることを信じることの出来ず、家を飛び出してしまった子供は生きてゆくことは出来ない。神を神とする事の重要さを見失わずにいたい。

Prayer(祈り)


イエス様、福音の単純さに不思議を感じることが度々あります。けれども全世界のあらゆる人種立場年齢を超えて伝えられるメッセージとしてこれ以上強烈なものはありません。私は信仰を選びました。あなたが選んで下さったからです。感謝します。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様に導かれる(ガラテヤ5:16-17)

Scripture(聖書の言葉)


16 あなたがたに勧めます。聖霊の導きに従いなさい。聖霊は、どこへ行くべきか、何をなすべきか教えてくださいます。そうすれば、自分の肉の欲望のおもむくままに走ることはありません。 17 私たちの生まれながらの性質は、聖霊がお命じになることとは正反対の悪を好みます。一方、聖霊の導きに従って歩んでいる時に行いたくなる善は、生まれながらの肉の願望とは正反対のものです。内面のこの二つの力は、どちらも私たちを思いどおりに動かそうと、いつも格闘しています。そして私たちは、この二つの力の板ばさみになって、したいと思うことが自由にできない状態なのです。

Observation(観察)


生来の肉の性質である悪と、聖霊様によって与えられる善なる導きは、正反対の方向を指す。パウロの言うとおりクリスチャンには絶えずこの両者による葛藤がある。

Application(適用)


私はむしろ、葛藤を放棄してなにも出来なくなっている状態だ。善も悪も行えない、生ぬるい状況に自分を安住させている。出来るならば痛みを伴っても善を成す生涯を過ごしたい。聖霊様に従う事を選びたい。

Prayer(祈り)


イエス様、いつの間にか生ぬるいクリスチャンに戻っています。善を行いたいという思いをもう一度与えて下さい。聖霊様の導きを拒むことが無いように、何より聖霊様に導きを求める習慣を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

福音にある自由(ガラテヤ3:2-5)

Scripture(聖書の言葉)


2 一つだけ聞いておきます。あなたがたは、なぜ聖霊をいただくことができたのですか。律法を守ろうと努力したからですか。キリストのことを聞き、その救いを信じて初めて、聖霊はあなたがたのところに来てくださったのです。 3 とすると、信仰生活が聖霊によって始まったのに、どうして、律法を救いの条件とするのですか。 4 あれほどの経験をしたあなたがたが、福音をあっさりと投げ捨ててしまうのですか。とても信じられないことです。 5 もう一度聞きます。なぜ神様は、あなたがたに聖霊の力を与え、奇跡を見せてくださったのですか。律法を守ろうと努力したからですか。そうではないでしょう。キリストを信じ、全くお任せしたからです。

Observation(観察)


律法に回帰しようとしていたガラテヤ人達をパウロは翻意をつよく促す。彼らに聖霊様が与えられたのは律法を行ったからでは無くイエス様の救いを受け入れたからではないかとパウロは尋ねる。
自分も、ともすれば様々なマイルールをこしらえてその縛りの中に生きようとする傾向がある。それはイエス様に委ねることとは正反対の生き方だ。そのような自己を縛る考えを止め、イエス様にある自由を手にしたい。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの下さる自由が欲しいです。自分を拘束していた様々な縛りから解放されたいです。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

信仰に誠実に(ガラテヤ2:11-14)

Scripture(聖書の言葉)


11 ところが、そのペテロがアンテオケに来た時、非常に誤った行動をとったので、私は面と向かって激しく非難しました。 12 ペテロは初めのうち、割礼にもユダヤ教のさまざまなしきたりにもとらわれない、外国人のクリスチャンと共に食事をしていました。ところが、あとからヤコブの友人であるユダヤ人が何人かやって来ると、彼らの目を恐れて、外国人と食事をするのをやめてしまいました。そのユダヤ人たちは、形式を重んじるユダヤ主義者で、「救われるためには割礼を受けなければならない」と主張していたのです。 13 すると、ほかのユダヤ人クリスチャンも矛盾を感じながら、ペテロのまねをして本心を偽った行動をし、バルナバまでが、その偽りの行動を共にしてしまいました。 14 私はそれを見て、彼らが自分の信じていることに対して不誠実であり、救いの教えの真理に従っていないことを知りました。

Observation(観察)


パウロはペテロの変節を非難した。割礼派のユダヤ人に阿ねり異邦人から離れて行くような言動によってアンテオケの教会は混乱した。彼らは人々への恐れから、自分の信仰と矛盾することを行ってしまったのだ。私も人を恐れる傾向がある。しかし信仰者としてぶれない芯を持つものになりたい。

Prayer(祈り)


イエス様、ペテロですら人を恐れて失敗しました。弱い私ならなおさらです。人を恐れるよりも神を愛することを優先して物事を感じ、考えられる者にして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

大宣教命令(マルコ16:15-20)

Scripture(聖書の言葉)


15 それから、こう宣言されました。「全世界に出て行きなさい。すべての人々にこの福音を宣べ伝えるのです。 16 信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 17 信じる人々はわたしの権威によって悪霊を追い出し、新しいことばを語ります。 18 蛇をつかんでも、毒を飲んでも害を受けません。病人に手を置けば病気は治ります。」

19 こう語り終えると、イエスは天に上げられ、神の右の座につかれました。 20 弟子たちは命じられたとおりに出て行き、あらゆる所でこの福音を宣べ伝えました。主が共に働いてくださったので、数々の奇跡が起こり、弟子たちの教えの確かさが証明されました。〕

Observation(観察)


マルコ福音書の最期の章である。イエス様の復活、昇天の後、弟子達はイエス様に命じられたとおり宣教に出かけて行く。そこには奇跡が起こったと書かれている。その理由は、イエス様がともに働いて下さったから、そして教えの確かさを証明する為であった。

Application(適用)


私は現在でも宣教するときにイエス様は共に働かれ、証拠としての奇跡は起きるのだと信じている。ではなぜ私の周りで奇跡の話を多く聞かないのか、少し考え込んでしまう。もしかすると私自身が宣教に後ろ向きな思いを持っていたのかもしれない。今でも大宣教命令は有効なのだから、私含め全ての弟子が今もその命令の元にある事を見失ってはならない。今の快適な環境に甘んじて、使命を軽んじては居なかっただろうか。自分の出来ることを見つけよう。

Prayer(祈り)


イエス様、今も奇跡を信じると言いながらも、宣教に後ろ向きであったことを赦して下さい。この矛盾から解放して下さい。御言葉を宣べ伝える事で私の出来ることを教えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

イエス様を否んだ弟子達(マルコ14:29-31)

Scripture(聖書の言葉)


29 すると、ペテロが言いました。「だれがどうあろうと、私だけは、この私だけは絶対にあなたを捨てません。」 30 イエスは、「ペテロよ。あなたは明日の朝、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うでしょう」と言われました。

31 「とんでもない! たとえ死んでも、絶対にあなたを知らないなどとは言いません。」ペテロは大声で言いはりました。ほかの弟子たちも、口々に誓い始めました。

Observation(観察)


イエス様を否むことはないと誓った弟子達はあっさりとイエス様を見捨て、逃げ出してしまう。かつて日本で起こった大規模な迫害において、イエス様を否んだ大勢の人々が居た。彼らの後悔はどれほどのことだっただろうか。しかしイエス様が死なれたのはイエス様を見捨てた弟子達のためであり、全ての背教者の為でもあった。私たちが将来同じような迫害に遭わない保証はない。私もペテロのようにイエス様を否むかもしれない。それでもイエス様は私たちの救い主であることは変わらない。なんとすさまじいまでの愛であろうか。

Prayer(祈り)


イエス様、人間の弱さを全てご存じの上で、私たちを愛して下さることに、畏れ、感謝します。弟子達が再び立ち上がって宣教を全うしたように、倒れることがあっても再び立ち上がることが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ダビデの子ではなく(マルコ12:35-37)

Scripture(聖書の言葉)


35 その後、神殿の境内で教えておられた時、イエスはこうお尋ねになりました。「ユダヤ教の教師たちは、どうしてキリストがダビデ王の子だと言いはるのですか。 36 ダビデ自身が、といっても、ほんとうは聖霊がダビデを通して語られたのですが、こう言っているではありませんか。

『神が私の主に言われた。
「わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするまで、
わたしの右に座っていなさい。」』(詩篇110・1)

37 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子でありうるでしょうか。」こういう議論に群衆は好奇心を募らせ、イエスの話に聞き入っていました。

Observation(観察)


イエス様は実際には(父ヨセフの系図においては)ダビデの血筋に当たるが、「キリストはダビデの子」という世襲的なイメージを否定された。もしもダビデの子であることが条件であるなら、その影響範囲はダビデの治めたイスラエルに限定される。しかしイエス様の言われる神の国は、国を越えて主を信じる全ての人の心に興るものなのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの治める国は天の御国であり、同時に私の心の中にあります。あなたを王としてお迎えします。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。