ラザロと金持ち(ルカ16:25-31)

Scripture(聖書の言葉)


25 しかし、アブラハムは答えました。『思い出してみなさい。おまえは生きている間、ほしい物は何でも手に入れ、思うままの生活をした。だがラザロは、全くの無一物だった。それで今は反対に、ラザロは慰められ、おまえは苦しんでいる。 26 それに、そちらとの間には大きな淵があって、とても行き来はできないのだ。』

27 金持ちは言いました。『ああ、アブラハム様。それならせめて、ラザロを私の父の家にやってください。 28 まだ五人の兄弟が残っているのです。彼らだけは、こんな目に会わせたくありません。どうぞ、この恐ろしい苦しみの場所があることを教えてやってください。』 29 『それは聖書が教えていることではないか。その言うことを聞くべきです。』 30 金持ちはあきらめません。『でも、アブラハム様。彼らは聖書を読みたがらないのです。ですが、もしだれかが死人の中から遣わされたら、彼らも罪深い生活を悔い改めるに違いありません。』 31 アブラハムはきっぱり言いました。『モーセと預言者たちのことばに耳を貸さないのなら、だれかが生き返って話したところで、彼らは聞き入れないだろう。』」

Observation(観察)


金持ちとラザロの喩えの箇所だ。死後地獄に落ちた金持ちはアブラハムにラザロを自分の兄弟達の所に送り、このような場所があること、悔い改めるべきであることを伝えてほしいと懇願するが、アブラハムは彼らは聖書から学ぶべきであること、また聖書から学ばないのなら、死者の中から生き返るほどの証人が来ても、悔い改めることはしないだろうと返答する。

事実、イエス様の復活という証しをもってしても、この世の多くの人は神を信じ悔い改めることをしない。私たちは喩えの中のアブラハムが言うとおり、聖書から罪を知り、悔い改め、神に立ち返らなければならない。

Application(適用)


私がきちんと聖書に触れたのは、クリスチャンになってからだ。いささかパラドックス的であるが、イエス様を経験しないと聖書は読めないし、聖書を読まないとイエス様はわからない。しかしこのパラドックスを打ち破って下さるのもまた、イエス様なのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、聖書から遠く離れた民である私を救いに導き、聖書に触れさせて下さり感謝します。多くの人がこのパラドックスから抜け出せないで居ます。福音という真理を伝える事で、あなたかお決めになった誰かに、イエス様を紹介できますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

放蕩息子(ルカ15:11-19)

Scripture(聖書の言葉)


11 イエスはもっとよく説明しようと、また別のたとえも話されました。「ある人に息子が二人いました。 12 ある日、弟のほうが出し抜けに、『お父さん。あなたが亡くなってからでなく、今すぐ財産の分け前がほしいんです』と言いだしたのです。それで父親は、二人にそれぞれ財産を分けてやりました。 13 もらう物をもらうと、何日もたたないうちに、弟は荷物をまとめ、遠い国に旅立ちました。そこで放蕩に明け暮れ、財産を使い果たしてしまいました。 14 一文なしになった時、その国に大ききんが起こり、食べる物にも事欠くようになりました。 15 それで彼は、その国のある人のもとで、畑で豚を飼う仕事をもらいました。 16 あまりのひもじさに、豚のえさのいなご豆さえ食べたいほどでしたが、だれも食べる物をくれません。 17 こんな毎日を送るうち、彼もやっと目が覚めました。『お父さんの家なら雇い人にだって、あり余るほど食べ物があるだろうに。なのに自分は、なんてみじめなんだ。こんな所で飢え死にしかけている。 18 そうだ、家に帰ろう。帰って、お父さんに頼もう。「お父さん。すみませんでした。神様にもお父さんにも、罪を犯してしまいました。 19 もう息子と呼ばれる資格はありません。どうか、雇い人として使ってください。」』

Observation(観察)


放蕩息子の例えの中で、弟は分け与えられた財産を使い果たし、食べ物にも事欠くようになってしまう。そこで初めて父の元での暮らしが幸せなものであったと気付く。悔い改めた息子は父にこのように言おうと決心する。「お父さん。すみませんでした。神様にもお父さんにも、罪を犯してしまいました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。どうか、雇い人として使ってください。」
彼の姿勢の変化は私たちにとっても重要だ。息子である立場を主張し財産を先取りしようとした彼が、雇い人として家に置いてくださいとまで自分を低くすることが出来るようになったのだ。
私も救いの恩恵にあぐらをかいてはいないだろうか。いつでも仕える姿勢で神のそばに居たいと願う。

Prayer(祈り)


イエス様、私の傲慢な姿勢を悔い改めます。救われたときの気持ちに立ち戻ります。己を低くし、仕えるものの姿勢をイエス様御自身が教えてくださいました。それに倣うものとなりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

塩気を無くさない(ルカ14:34-35)

Scripture(聖書の言葉)


34 塩が塩けをなくしたら、何の役に立ちますか。 35 塩の価値のない塩など、肥やしにもなりません。捨てるほかないのです。聞く耳のある人は、よく聞きなさい。

Observation(観察)


塩が塩気をなくす事態とは、どのような事だろうか。塩は地上で最も安定した物質の一つで、通常の状態では塩素とナトリウムに分かれることは無い。しかし万一家に置いてある塩が分解したら、有害な物質となり健康を害することになる。クリスチャンが信仰を捨てるなら、それは存在意義を自ら放棄することと同義だ。何を失っても信仰だけは失わないものでありたい。

Prayer(祈り)


イエス様、私たちを指して地の塩でありなさいと言われたことを忘れないように、日々の生活で世に触れることで塩気を失わず、かえって塩気によって腐敗を防ぎ、物事を整える存在であらせて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

エル・エロヘ・イスラエル(創世記33:18-20)

Scripture(聖書の言葉)


18 こうして、無事カナンのシェケムに到着し、町の外にテントを張りました。 19 その土地を、ヤコブはシェケムの父ハモルの家から銀貨百枚で買い取り、 20 祭壇を築いて、エル・エロヘ・イスラエル〔「イスラエルの神のための祭壇」の意〕と名づけました。

Observation(観察)


ヤコブの旅は彼の自我を砕く旅であった。自己中心だった彼は叔父ラバンに仕えることをとおして、また恐れていた兄エサウとの和解を通して変えられた。この折り目折り目に神は現れ、あるときは幻を見せ、あるときは格闘された。このような様々な神の表れを通してヤコブは神を理解していったのだろう。「エル・エロヘ・イスラエル」を厳密に訳すると、「イスラエルの神の、神々の為の祭壇」となる。単数形と複数形が共存している。三位一体なる神様の本質をヤコブは人生の旅を通して実感していったのだ。

Application(適用)


私の人生も後半に入って随分経つ。人格的な弱さは相変わらずだ。それでもこの人生という旅を続けさせて下さった神に感謝したい。

Prayer(祈り)


三にして一なる神様、ヤコブのような自己中心的な私です。あなたによって変えられたいと願います。人生の中で苦労するときも多いですが、その時こそあなたが介入して下さったと信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

カラスの様に養われる(ルカ12:16-24)

Scripture(聖書の言葉)


16 それからイエスは、たとえ話を一つなさいました。「ある金持ちが、良い作物のとれる肥えた畑を持っていました。 17 倉はいっぱいで、収穫物を全部納めきれないほどです。あれこれ考えたあげく、うまい考えを思いつきました。 18 『こうすればいい。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建てる。そうすれば、作物を全部納められる。』 19 ひとり満足した金持ちは、われとわが身に言い聞かせたのです。『もう何も心配はいらないぞ。これから先何年分もの食料がたっぷりある。さあ、食べて、飲んで、楽しくやろう。』 20 しかし神は、こう言われました。『愚か者よ! あなたのいのちは、今夜にもなくなる。そうしたら、ここにある物は、いったいだれのものになるのか。』 21 いいですか。この地上でいくらため込んでも、天国に財産を持っていない者は、愚か者なのです。」

22 それからまた、弟子たちのほうを向き、先を続けられました。「ですから、言っておきましょう。食べ物は十分か、着る物はあるか、といったことでいちいち心配するのはやめなさい。 23 人のいのちは、食べ物や着る物よりどれだけ価値があるか知れないのです。 24 からすを見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉を持っているわけでもありません。それでもゆうゆうと構えていられるのは、神が養ってくださるからです。神の目には、からすなどより、あなたがたのほうが大切なのです。

Observation(観察)


イエス様は収穫の保存に腐心する金持ちと、悠々と生きるカラスを比較して話された。金持ちは自分の財産の管理をあれこれ悩んだあげく最後には死んでしまうが、カラスは何も所有しなくても神によって生かされている。さらにはイエス様は私たちをカラスよりもずっと大事なものだと話された。人生には心配事がいくらでもある。それに押しつぶされるようにして生きるか、神に信頼して安心することを選ぶか、いつも選択肢は私の前にある。心配事が発生する都度、神に信頼する訓練を受けているのだと考えよう。

Prayer(祈り)


イエス様、心配事に目を向けて悩み苦しむか、神に立ち返って賛美するか、選択は私に委ねられています。人間的な視点で見るか、神の視点で見るか、選ぶことを求められています。私は神を選びます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神との関係(ルカ11:8-9)

Scripture(聖書の言葉)


8 しかし、友達だからというのでは何もしてくれなくても、しつこく戸をたたき続けるなら、その根気に負けて、必要な物を出してくれるでしょう。 9 祈りも同じです。あきらめずに求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。戸をたたきなさい。そうすれば開けてもらえます。

Observation(観察)


祈りについてのイエス様の教えである。諦めず、辛抱強く続ける事をイエス様は説いている。このたとえでは、深夜にパンを友人に借りようとする男の話だが、イエス様は「しかし、友達だからというのでは何もしてくれなくても、しつこく戸をたたき続けるなら、その根気に負けて、必要な物を出してくれるでしょう。」と言っている。わたしとイエス様の関係は友人以上のものであろうか、神と疎遠になることほどクリスチャンにとって淋しいことは無い。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの近くにいさせて下さい。他の様々なもので満足をえようとしましたが、淋しさ、空しさだけが残りました。イエス様との関わりによって満足するものとなりたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

御言葉を制限しない(ルカ10:27-29)

Scripture(聖書の言葉)


27 「『心を尽くし、たましいを尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』(申命6・5)、それに、『自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』(レビ19・18)とありますが。」 28 「そう、そのとおりにすればいいのです。そうすれば、永遠のいのちを得られます。」 29 しかし律法の専門家は、自分がある人々を愛していないことを正当化しようと、「隣人とはだれのことですか?」と聞き返しました。

Observation(観察)


イエス様の隣人を愛しなさい、という教えに対して、律法の専門家は自己正当化のために例外を認めてもらおうとする。彼らの期待する答えは「隣人とはユダヤ人である、サマリヤ人は対象外だ」というものであっただろう。イエス様が例外を認めるなら、自分たちも例外を設けて良いだろうという考えである。しかしイエス様はそのような身勝手な考えを否定された。隣人とは例外なくあらゆる人々なのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、僕も理屈をつけてイエス様の教えを制限して聞いてしまいそうになります。御言葉をそのまま受け取り実行できるものにして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

5000人の給食(ルカ9:13-17)

Scripture(聖書の言葉)


13 「いいえ。あなたがたで、みんなに食べ物をあげるのです。」イエスの答えに、弟子たちはあきれ顔で言いました。「手もとには、パンが五つと魚が二匹あるだけです。これだけ大ぜいの人が食べる物を買い出しに行けとおっしゃるのですか。」 14 こう言うのも、むりはありません。男だけでも五千人はいたのですから。しかし、イエスは、「さあ、みんなを五十人ぐらいずつに分けて座らせなさい」と言われます。 15 弟子たちは訳がわからないながらも、そのとおりにしました。

16 そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、感謝の祈りをささげました。それからパンをちぎり、人々に配るため、弟子たちに手渡されました。 17 みんなが食べて満腹したあと、パン切れを集めると、なんと十二かごにもなりました。

Observation(観察)


民衆への給食のやりとりの中で、イエス様は「いいえ。あなたがたで、みんなに食べ物をあげるのです。」弟子達は勿論食べ物のことと理解したであろう。しかしここには、新たに信じた人々を霊的に養うことを暗喩しているように思う。勿論その源はイエス様が。イエス様が僅かなパンと魚を祝福され、弟子達が配ったとき、大勢の人が食べて満腹したとある。私たちもイエス様に信頼し、人々に仕えるとき奇跡的な業が起き、多くの人が満たされる。

Prayer(祈り)


イエス様、受け取るだけでは無く給仕する側になりたいです。イエス様の奇跡の業をこの目で見たいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

奇跡を拒む人々(ルカ8:34-39)

Scripture(聖書の言葉)


34 びっくりした豚飼いたちは近くの町や村に逃げ込み、この出来事を言いふらしました。 35 まもなく、大ぜいの者が、自分の目で確かめようと集まって来ました。と、どうでしょう。今まで悪霊につかれていた男が、きちんと服を着て、すっかり正気に戻って、イエスの前に座っているではありませんか。みんなは、あっけにとられてしまいました。 36 初めから一部始終を目撃していた人たちが、事細かにその時の状況を説明しました。 37 それを聞くと、人々はますます恐ろしくなり、イエスに、ここから立ちのいて、もうこれ以上かかわり合わないでほしいと頼み始めました。

それで、イエスは舟に戻り、また向こう岸へ帰って行かれました。 38 悪霊の去った男がお伴を願い出ましたが、イエスはお許しになりませんでした。 39 「家族のところへ帰りなさい。神がどんなにすばらしいことをしてくださったかを、話してあげるのです。」こう言われて、男は町中の人に、イエスのすばらしい奇跡を話して回りました。

Observation(観察)


ゲラサ人の地にいた狂人(多くの悪霊につかれた人)をイエス様は解放した。追い出された悪霊達は豚の群れに入り込み、豚の群れは湖に飛び込んで溺れ死んだ。
狂人だった男は正気に戻っていた。ところがこの地のひとびとはこの事態を歓迎せず、「イエスに、ここから立ちのいて、もうこれ以上かかわり合わないでほしいと頼み始めました。」とある。彼らが奇跡を拒絶した背景は分からないが、神の働きを否定する思い、現状維持を良しとする思いがあったのかもしれない。
ただ、解放された元狂人だけは違っていた。彼は「町中の人に、イエスのすばらしい奇跡を話して回りました。」とある。イエス様の奇跡を直接体験したものはイエス様を否定できない。イエス様を伝えるものと変えられたのだ。

Application(適用)


私自身、多くの奇跡的な事象を体験してきた。にもかかわらず現状維持を良しとする思いはいまだに残っている。願わくば大胆にイエス様を伝えるものになりたい。二つの相反する欲求に苛まれている。

Prayer(祈り)


イエス様、受けた奇跡を否定せず、喜んで人々に伝える人になりたいです。世間体とか立場を横に置いて、イエス様を第一にするものとして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

誰の権威の元に居るのか(ルカ7:7-10)

Scripture(聖書の言葉)


「先生。わざわざおいでくださいませんように。とてもそんな名誉を受ける資格はございません。自分でお迎えに上がることさえ失礼と存じます。どうぞ今おられる所で、おことばをください。それで十分でございます。そうすれば、召使は必ず治ります。 8 私は上官の権威の下にある者ですが、その私でさえ、部下には権威があります。私が『行け』と命じれば行きますし、『来い』と言えば来ます。また奴隷にも、『あれをやれ』『これをやれ』と言えば、そのとおりにするのです。」 9 これを聞くと、イエスはたいへん驚き、群衆のほうをふり向いて言われました。「皆さん。これほどの信仰を持った人は、イスラエル中でも見たことがありません。」 10 使いの者たちが戻ってみると、召使はすっかり治っていました。

Observation(観察)


ローマの隊長が自分のしもべの病のいやしをイエス様にお願いするくだりである。隊長は自身が権威のものとにあり、また権威を用いることの出来る立場であること、イエス様が権威をもって御言葉を用いれば召使いはいやされることを確信していることを伝えた。
私たちは誰の権威の元に居て、どんな権威を用いることが出来るだろうか、用いるために必要なことは何だろうか。クリスチャンにとって自明なことではあるが、今一度深く考えたい。

Prayer(祈り)


イエス様、私があなたの権威の元にあること、また権威を用いることも許されていることを思い出しました。御言葉を発することが権威を用いる鍵だとも分かりました。積極的に御言葉を用います。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。