互いを受け入れる(ローマ15:7-9)

Scripture(聖書の言葉)


7 そういうわけですから、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いにあたたかく受け入れ合いなさい。そうすれば、神がほめたたえられるのです。 8 イエス・キリストが来られたのは、神がご自分の約束に対して誠実な方であることを示すため、また、ユダヤ人を助けるためであったことを思い出してください。 9 それはまた、外国人も救われて、自分たちに対する神のあわれみのゆえに神をほめたたえるためでもあったことを、思い出してください。

Observation(観察)


パウロはロマ書の中で、異なるバックグラウンドを持つクリスチャンが互いを尊重し合って教会を合ってあげて行くよう、多くの言葉を持って薦めている。現代の教会は多様化しており、自分の好むスタイルの教会に流れていってしまう。しかし本当にそれは正しいのだろうか。自分の好みの言葉をかけられ、好みの賛美歌を歌う教会を探して転々とするのは信仰の成長に繋がるとは思えない。むしろ自分のスタイルと異なる教会であっても、しっかり腰を据え、謙虚に学び良いところを受け入れて成長して行く事が正しいありようでは無いだろうか。

教会には信仰歴の長い人も短い人も、あるいは求道者や未信者も集まる。各々の人生の背景も国籍も様々だ。そのような中で自分に似ていないからと排除する事をしていたら教会は成り立たない。違いを認めつつ、共に神を崇め、各々が聖書に向き合い成長し続けることが重要だ。

Application(適用)


教会だけを信仰生活の基盤に置いていては、どこかに無理が来てしまう。個々人が日々聖書に触れ、学び、イエス様にしっかり繋がってこそ、異なる価値観の人々を受け入れることが出来るのだ

Prayer(祈り)


イエス様、当時の人々が互いを尊重し励まし合って教会を建て上げていったように、私も隣の人を励ます働きがしたいです。そのためにも御言葉を通してしっかり信仰の根を張りたいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

信仰の多様性(ローマ14:2-4)

Scripture(聖書の言葉)


2 偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうかで議論してはいけません。あなたがたは、偶像に供えられた肉を食べても別に悪くはないと信じているかもしれません。しかし、ほかの人たちの信仰はもっと弱いのです。彼らは、偶像に供えられた肉を食べるのは悪いとして肉を食べず、むしろ野菜を食べるほうがよいと思っています。 3 肉を食べてもよいと思っている人は、食べない人を見下してはいけません。また、食べない人も食べる人を非難してはいけません。神はそのどちらをも受け入れて、ご自分の子どもとしてくださったからです。 4 どちらも神に仕えているのであって、人に仕えているわけではありません。神に対して責任を負うのであって、人に対して責任を負うのではありません。正しいか、まちがっているかは、神がその人に教えてくださるはずです。

Observation(観察)


パウロは偶像に供えられた肉を食べるか否かについて、互いの信仰から来る行動を批判し合わないように戒めている。食べる人も、避ける人も、各人の神に対する信仰からの行動だ。現代のキリスト教は非常に多くの教派に分かれてしまっているが、互いに批判し合わないように配慮し合っていることが伺われる。

Application(適用)


ここしばらく自分の信仰のルーツと今の信仰の姿勢、そして現在通っている教会の理念を比べ、悩んでいた。私自身の信仰の姿勢が、いま通っている教会と完全に一致しているかと言えば、決してそうでは無い。だからといってどこか別の教会に移ったとしても、同様に異なりを感じることだろう。神が求めておられる最も重要なことは互いに違いを認めて、受け入れ合うことなのだ。私は誰かを批判できるほどの信仰者では無い。むしろスタイルの違う人々を尊敬し、彼らから学ぶべきなのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、日々聖書を読むことで少しずつ自分の信仰のありようが変化していることを感じます。私たち一人一人がユニークな存在として作られたように、聖書の理解や従う姿勢も人それぞれで、また皆が成長し変化することが分かりました。だからこそ互いを裁かず受け入れ合うことが大事だと教えられました。私が誠実に聖書に向き合う一方で、寛容で人を愛する人になれますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

真に価値のあるもの(箴言20:14-15)

Scripture(聖書の言葉)


14 買手は、「こんな物どこがいいんだ」と言って値切りますが、
買ってしまうと、良いものを買ったと自慢します。
15 金や宝石を持っていることより、
思慮のあるほうが、ずっとすばらしいことです。

Observation(観察)


物の価値には絶対的なものは無い。旧約聖書にはかつて銀は金より価値ある物とされていた、ともある。現代で最も安定した価値のある物とされている金でさえ、取引価格は日々変わっている。まして昨今巷で騒がれている米の価格など、消費者は政府や投機者によって混乱させられている。人間が価格を決める物事に安定したものなど無いと思い知らされた。聖書はそのようなものよりも知恵と思慮を神に求めるべきであると語っている。不安定な価値基準に振り回される生き方を止め、真に価値のある、永遠に変わらないものを得て、それを失わないようにしたい。

Prayer(祈り)


イエス様、人の思惑で変動する価値に振り回されず、真に価値あるものを大事にする生き方を選びます。愚かな思索では無く、いつでも神の知恵を選択できますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

新しい考え方(ローマ12:1-2)

Scripture(聖書の言葉)


1愛する皆さん。そういうわけですから、あなたがたにお願いします。あなたがたの体を、神に喜んでいただける、生きた、きよい供え物としてささげてください。それが神への礼拝となるのです。 2 この世の人々の生活や考え方をまねてはいけません。むしろ、神に喜ばれることは何かを思いながら、なすこと考えることすべての面で生き生きとした、全く新しい人となりなさい。

Observation(観察)


パウロは私たちに、「全く新しい人となりなさい」と呼びかけている。新しい人とは考え方、感じ方が全く変えられた人である。同じ物事を見ても、その人の心のありようで、感じ方は全く異なる。神を知らずに生きてきた私たちの当時の感じ方と、神によって世界が構成され、維持されていると理解している私たちの今の感じ方は、全く違うはずだ。またイエス様の示された生き方に従い変化されて行くなら、将来において、さらに別の考え方、感じ方を持つのかもしれない。重要なことは私たちは神に喜ばれながら変化し、成長し続ける存在だということだ。

Application(適用)


私という人格を少し俯瞰してみるならば、本当に癖の多い、扱いにくい人格だと思う。今の時点だけで考えれば、人格的な成長はもう無理だと諦めてしまいそうになる。けれども神はこれからの人生において、試練や祝福を用いて私を変えて下さろうとしているのだ。諦めず、希望を持とう。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたに喜ばれることを第一としたいです。しかし古い性質がいつも足を引っ張ります。私が心の一新によって自分を変えることが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

接ぎ木された者の役割(ローマ11:18-21)

Scripture(聖書の言葉)


18 ですから、折り取られた枝の代わりにつぎ木されたことを、誇ってはいけません。あなたがたは枝であって、根があなたがたを支えているからです。 19 あなたは、「前の枝が折られたのは、私に場所を譲るためだった。とすれば、私はかなりいい人間に違いない」と考えるかもしれません。 20 気をつけなさい。ユダヤ人のその枝が折り取られたのは神を信じなかったからであり、あなたがたがつぎ木されたのは、ただ神を信じたからです。このことを忘れないようにしなさい。高ぶってはいけません。むしろ、謙虚になって神を恐れなさい。 21 もし神が台木の枝を惜しまなかったとすれば、ましてや、神をもはや信じないあなたがたを惜しむことはなさらないでしょう。

Observation(観察)


パウロは異邦人クリスチャンを指して、ユダヤ人の代わりにアブラハムの祝福に接ぎ木された者、と表現している。その幹につながれたのは、ただ神を信じたからであり、私たち異邦人クリスチャンが何か優れた点があったからではない。本来の選びはユダヤ人にあり、私たちは彼らの受けるべき祝福にあずかっているものに過ぎない。

Application(適用)


正直現在の中東情勢には複雑な思いにさせられる。今イスラエルに住んでいる人々が聖書にあるユダヤ人と同一なのか、疑問視する考えもある。それでも聖書はユダヤ人への約束を果たされるとある。見えるところはどうであれ私たちはユダヤ人に対し大きな借りがある。神の約束の為に祈ろう。

Prayer(祈り)


イエス様、ユダヤ人が福音に帰ってこれるように。歴史的な痛みも多々あった人々ですがそれ以上の恵みを持ってイエス様を見いだすことが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神に遣わされる(ローマ10:13-15)

Scripture(聖書の言葉)


13 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。

14 しかし、主を信じていなければ、どうして主に、「救ってください」と求めることができるでしょうか。また、主イエスのことを一度も聞いたことがなければ、どうしてそのお方を信じることができるでしょうか。だれかが教えてくれなければ、どうしてそのお方のことを聞けるでしょうか。 15 また、神に遣わされなければ、どうして人々のところへ出かけて教えることができるでしょうか。聖書に、「神との平和を宣べ伝え、良い知らせをもたらす人の足は、なんとうるわしいことか」(イザヤ52・7)とあるのは、まさにこのことです。

Observation(観察)


私たちが信仰を持つに至ったのは、誰かが、何らかの方法で福音を伝えたからに他ならない。人から聞くケースも多いだろうし、書籍やテレビなどで信じた人もいるかもしれない。信じて弟子となった私たちは、今度は福音を担い、伝える立場になった。この働きは牧師や教職だけに委ねられているものでは無い。全ての弟子は伝道の使命を帯びている。

Prayer(祈り)


イエス様、自分の事で一杯になって、大事な使命を見失っていました。どうか福音を伝えるべき人に会わせてください。精一杯のことをします。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

つまずきの石(ローマ9:30-32)

Scripture(聖書の言葉)


30 では、どういうことになるでしょう。信仰によって与えられる神の救いを求めなかった外国人は、救いの機会を得ました。まさに、信仰による救いです。神は、信仰によって無罪とされる機会をお与えになりました。 31 一方、ユダヤ人は律法を守ることによって、神の救いを追い求めようと努力したのに、それを得ることができませんでした。 32 なぜでしょう。信仰によってではなく、行いによって救われようとしたからです。彼らは、キリストというつまずきの石につまずいたのです。

Observation(観察)


ユダヤ人は与えられた律法によって何が正しいことかを神に教えられていたが、自らの罪によって律法に反するものとなり、かえってのろいを受けるものとなってしまった。一方で私たち外国人は律法を持たないものであったが、かえって行いでは無く信仰によって神の救いを求め、それが与えられた。ユダヤ人達にとってイエス様は、行いによる救いという彼らの考えを根本から否定する存在「つまずきの石」であった。行いによって救われるのならそれはもはや恵みでは無い、パウロの言うとおりである。自分の罪深さも至らなさもそのまま、神の前にさらけ出して恵みを乞おう。

Prayer(祈り)


イエス様、罪の属性に苦しめられ、自分の弱さに絶望しています。絶望のなかでこそ神の素晴らしさを感じることが出来るのかもしれません、それを希望にします。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

変化を待ち望むプロセス(ローマ8:24-25)

Scripture(聖書の言葉)


24 私たちは、このように信じて待ち望むことで救われています。信じて待ち望むとは、今は持っていなくても、やがて与えられると確信して待つことです。すでに持っていると思う人は、神が与えてくださると期待したり、信じて待ち望んだりはしません。 25 しかし、まだ起こっていないことを待たなければならないのなら、忍耐をもって、確信して待ち望むのです。

Observation(観察)


救いとは、神の訪れを待ち続ける継続的なプロセスだ。同時に、いまは罪の属性を持ち続けており、そこから抜け出すことの必要を持ち続ける事でもある。救いは信仰告白の瞬間に完全に行われるが、クリスチャンとしての完成は生涯をかけて取り組む課題だ。神が助けてくださることを信じ、諦めずに歩みを続けたい。

Prayer(祈り)


イエス様、私は自分の変化を求めます。このままではいけないことが分かっています。考え方、感じ方を新しくしてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

罪の属性(ローマ7:20-25)

Scripture(聖書の言葉)


20 自分ではしたくないことをしているとすれば、問題点は明らかです。すなわち、罪がなおも私をしっかり捕らえているのです。 21 正しいことをしたいと思っているのに、どうしても悪いことをしてしまう、そういう法則があるように思います。 22 新しい性質をいただいた私としては、神のご意思どおり行いたいのですが、 23-25 心の中に潜む悪い性質には別の力があって、それが私の心に戦いをいどみます。そして、ついに私を打ち負かし、いまだに私のうちにある罪の奴隷にしてしまうのです。私は、心では喜んで神に従いたいと願いながら、実際には、相変わらず罪の奴隷となっています。

これが私の実情なのです。ああ、私はなんとみじめで哀れな人間でしょう。いったいだれが、この悪い性質の奴隷状態から解放してくれるのでしょうか。しかし、主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。キリストによって、私は解放されました。この方が自由の身にしてくださったのです。

Observation(観察)


罪の性質は根深く、救われた私たちをいまだに苦しめ続ける。パウロですら「心の中に潜む悪い性質には別の力があって、それが私の心に戦いをいどみます。そして、ついに私を打ち負かし、いまだに私のうちにある罪の奴隷にしてしまうのです。」と嘆いている。私たちはキリストによって与えられた霊的な自由と、罪に引っ張られる魂の束縛の両方を持っている。罪には立ち向かわなければならない。たとえ99回負けても100回目に勝てるように戦い続けなければならない。罪に対し立ち向かう勇気を下さるのはイエス様の救いに他ならない

Prayer(祈り)


イエス様、パウロであっても悩み苦しみました。私のような者ならなおさらです。罪の束縛にもがき続けています。意思を持って立ち向かいますから助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

主人を選ぶ(ローマ6:16-19)

Scripture(聖書の言葉)


16 知らないのですか。自分の主人は自分で選べるのです。死に至る罪を選ぶこともできれば、義(正しさ)に至る従順を選ぶこともできます。だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたの主人となり、あなたがたは奴隷となるのです。 17 神に感謝すべきことに、あなたがたは、以前は罪の奴隷になる生き方を選んでいましたが、 18 今は、罪という古い主人から解放されて、義という新しい主人の奴隷になっているのです。 19 このように奴隷と主人にたとえてわかりやすく言うのですが、あなたがたはかつて、あらゆる罪の奴隷でしたが、今は、あらゆる正しいこと、きよいことに仕える奴隷とならなければなりません。

Observation(観察)


「自分の主人は自分で選べるのです。」とは新しい概念だ。もはや私たちは生まれながらに特定の主人に隷属してはいない、という意味でもある。私たちは罪を選ぶことも出来れば神の義を選ぶことも出来る。罪という主人に拘束される必要は無い。罪に別れを告げて、神の義を選ぼう。

Prayer(祈り)


イエス様、もはや私を拘束するものは無く、神の義につくことを選べる事を感謝します。けれども古い肉は罪に戻ろうとします。神の喜ばれない考えや感情に引きずられます。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。