贈り物としての救い(ローマ4:4-5)

Scripture(聖書の言葉)


4-5 では、アブラハムが天国に行く資格を得たのは、良いことをしたからでしょうか。違います。救いは贈り物として与えられるものです。もし善行によって救われるとすれば、もはや贈り物ではなくなってしまいます。しかし、救いは無償なのです。救いは、自分の力で手に入れようとしない人にこそ与えられます。なぜなら罪人が、「キリストは自分を神の怒りから救い出してくださる」と信じる時に、神は彼らを正しい者と宣言してくださるからです。

Observation(観察)


神の救いは人間の行いによって手に入れられるものでは無い。この箇所が言うとおり、「救いは贈り物として与えられる」のだ。贈り物は無償だがそれをだれに送るのかは送り主に主権がある。私たちがキリストを罪からの救い主であると告白したとき、賜物としての救いが与えられるのだ。「救いは、自分の力で手に入れようとしない人にこそ与えられます。」ともある。自信の罪に完全に死に、自分で何とかすることを諦め神の前に出て行く生き方こそ、神の望まれる姿勢だ。それは救いを受ける瞬間だけでは無く、全生涯に渡って私たちに神が望んでおられることなのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、なんども自分の力で解決しようとして失敗することを繰り返しています。自分の力を諦めて神の前に出てくることを拒む何かが私の中にあります。助けて下さい。素直になれるようにして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

賛美と神の臨在(2歴代誌5:13-14)

Scripture(聖書の言葉)


13-14 合唱隊と演奏隊は一つとなって、「主はなんとすばらしい方! そのいつくしみはとこしえまで!」と主を賛美し、感謝をささげました。すると、主の栄光がまぶしく光る雲となって神殿を包んだので、祭司たちはその務めを果たすことができなくなりました。

Observation(観察)


ソロモンの神殿の奉献の際、アサフ、へマン、エドトンといった賛美の指導者と達人と評された合唱隊と演奏隊が神を賛美した。すると神の栄光が現れたとある。賛美には神の臨在を呼び起こす力がある。

Application(適用)


私は微力ながらも教会の賛美の働きに関わっている。しかし神の臨在を願って奏楽をしているだろうか。いつも楽譜とにらめっこで、必死に音符を追っているような状況だ。技術は一朝一夕で向上しないかもしれないが、神を歓迎する心持ちで奏楽に取り組みたい。

Prayer(祈り)


イエス様、下手くそな私の奏楽を受け入れてくださり感謝します。よりよいものをお献げしたいと願いますがなかなかうまく行きません。せめてあなたを待ち望む心をうけれいて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

罪の自覚(ローマ2:12-15)

Scripture(聖書の言葉)


12-15 外国人が罪を犯した場合、たとえ彼らが文字に書かれた律法を知らなくてもさばかれます。彼らは心の奥底では、正しいことと悪いこととを区別できるからです。その心の中には、律法が書かれているのです。つまり、彼らの良心が、彼らを責めたり、また時には弁護したりするわけです。

ユダヤ人が罪を犯した場合は、神が彼らを罰せられます。律法が与えられているのに従わないからです。彼らは何が正しいかを知りながら、実行しません。結局のところ、なすべきことを知りながら実行しない人はさばかれるのです。

Observation(観察)


カントの「実践理性批判」のなかに「内なる道徳律」という言葉が出てくる。人間の内面には本来正しいことをしようとする思いがある。というものだ。この聖書の箇所がカントの思想にどう影響したかは分からないが、キリスト教伝来以前の日本にも、その他の国にも、何らかの道義やルールが存在しており、集団を形成していたことは間違いない。はたしてそれで十分だろうか、決してそうでは無い。罪を理解して責めを受けることと、罪の性質を神によって赦されることとは全く別なことだ。私たちも内面に罪を感じたから神の前にきた。神の主権に自らを委ねて赦されたのだ。自分の力で何かが出来たわけではない。ただイエス様の救いだけが私たちの人生を変える。

Prayer(祈り)


イエス様、律法を持たない私であっても罪を自覚できたことを感謝します。そのように人間を作ってくださったことをありがとうございます。そのおかげであなたの前にきて救いを受けました。罪の自覚も、罪の救いも、そしてその後の生涯も全てあなたの主権にあります。これからも導いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

整って神の前に出る(1列王記6:7)

Scripture(聖書の言葉)


7 神殿を建てるのに使った石は、石切り場で仕上げたものばかりでした。そのため、建築現場では、工事中も槌や斧、そのほかの道具を使う音はいっさい聞こえませんでした。

Observation(観察)


ソロモンの神殿の精緻さを伺わせる一節だ。神殿の為に用意された石は、事前に完全なサイズに調整され、建築現場に持ち込まれた。そこでは道具を使う音は聞こえなかったとある。現場でのサイズ調整は一切必要が無かったということだ。ダビデが事前に行っていた設計が如何に優れたものであったかに驚かされる。

Application(適用)


さて、私は神の前に出るとき、自分の状態を点検しているだろうか。あちこち凸凹なまま神の働きをしようとはしていないだろうか。勿論神はありのままの私を受け入れてくださる。しかし私は神の前に最善を成したい。神の前であれこれ取り繕って現状合わせの様なことはしたくない。祭司は神の前に出るとき、十分な備えをした。そこまで厳密なルールはもはや私たちには当てはまらないが、神の前に整えられて出て行きたい、という願いがいつもある。

Prayer(祈り)


イエス様、いつもボロボロで弱り切ってあなたの前に出ています。それを喜んで受け入れてくださっていることに感謝します。それでも、わたしは少しでも整えられて神の前に出たい、という願いがあります。取り繕ってでは無く、心から誠実にすべての行いたいのです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

神の神殿を建てる(2歴代誌2:5-6)

Scripture(聖書の言葉)


5 私たちの神は、ほかのすべての神々にまさる偉大な神ですから、神殿は壮大なものにしなければなりません。 6 しかし、いったいだれが、この神にふさわしい家を建てることができるでしょう。いと高き天でさえ、主をお受け入れするのに十分でないなら、主のために神殿を建てることを許されている私は、いったい何者でしょう。そこは、主を礼拝する場所となるのです。

Observation(観察)


ソロモンはダビデから受け継いだ金銀などの神殿建設の材料と莫大な資産を用いて、壮大な神殿を建てようと計画する。私たちは聖書によって私たち自身が神の神殿であると教えられている。(あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり…コリント人への手紙 第一 6章19節)しかし私はソロモンの様に神を迎えることをどれだけ真剣に考え、日々準備し、喜んでいるだろうか。どれだけ日々を神を意識して暮らしているだろうか。勿論ソロモンの様な知恵も財産もないものだが、神を日々迎えて生きることに真剣に真実でありたい。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの贖いによって私が神の住まわれる宮としてくださったことを感謝します。聖霊様が住まわれるのにふさわしい私になれるように自分を見張ります。またこのことを日々喜びます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

知恵を求める(1列王記3:10-14)

Scripture(聖書の言葉)


10 ソロモンが知恵を願い求めたので、主はことのほか喜びました。 11 そこで、こう答えました。「あなたは民を正しく治める知恵を求め、長生きすることや財産、または敵に勝つことを願わなかった。 12 したがって、望んだものを与えよう。しかも、ずば抜けた知恵を。 13 また、望まなかった財産と名誉も与えよう。あなたが生きている間、財産と名声であなたにかなう者はだれもいないだろう。 14 それだけでなく、あなたの父ダビデのようにわたしのおきてを守り、わたしに従うなら、末長く生かそう。」

Observation(観察)


神から知恵を頂き続けなければ、この難しい人生を正しく生きることは出来ない。ソロモンはイスラエルの王という重責を果たすのに、神に知恵を求めた。神はそのソロモンの姿勢を喜ばれたとある。ソロモンの著作と言われる箴言にも、「知恵の始めに、知恵を得よ」とある。人間の知恵には限界がある。神の喜ばれる生き方を貫くには神の知恵を得、神のご意志に従う選択をし続ける必要がある。

Application(適用)


私は知恵のないものであった。この世の知識や経験を積んでも、神に求めるもので無くては、土台の壊れた建物を積み上げるような生き方しか出来ない。神に喜ばれ、神の望む働きをするためには、神から正しく聞くことが必要だ。そして聞いたことに自分を従わせる事にこそ、善悪を正しく判断できる知恵が必要なのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたが持っておられる知恵を私に下さい。神に最後までお従いされるために用いられた知恵です。自分が豊かになったり誰かを従わせる知恵ではありません。私もあなたに倣うものとなりたいのです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

御声を聞くならば(詩編95:7-8)

Scripture(聖書の言葉)


“まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民その御手の羊。今日もし御声を聞くなら
あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように荒野のマサでの日のように。”
詩篇 95篇7~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)


羊は羊飼いの声を聞き従う。イエス様は良い羊飼いであると御自身を指して言われた。安全な豊かな場所に連れて行ってくださろうというのに頑なになってそこを離れまいとしてはならない。また羊飼いの声を聞き間違えないようにすることも大切だ。偽物の悪い羊飼いによってむさぼられることの無いように、普段からイエス様の声がどのようなものか、神が導かれている方向はどこか、耳を澄まそう。

Application(適用)


私の心は今雑音だらけで、神の導きを聞くことが難しくなっているように思う。この世のことで心配して心が一杯になっているからだ。短い時間であっても一旦そのような事柄をわきに置き、今イエス様がどのような事を語ってくださっているのか、黙想する時間を持つようにしよう。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの御声を聞こうとする習慣を回復したいです。この世のことで一杯になっていました。時間と心を聖別してあなたと過ごすことが出来ますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊の恵み(1テサロニケ5:19-22)

Scripture(聖書の言葉)

19 聖霊の恵みを無にしてはいけません。 20 預言する者を軽蔑してはいけません。 21 すべてのことをよく調べ、それがほんとうに良いものであれば、受け入れなさい。 22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

Observation(観察)

聖霊の恵み、とパウロは表現しているが、文脈からして聖霊様の超自然的な働きについて述べていると考えるのが妥当だろう。キリスト教会、特に聖霊派、ペンテコステ派と言われるグループでは、人知を超えた不思議なことが時として起きる。それは聖霊様によるものもあれば、そうで無いケースもある。パウロは「すべてのことをよく調べ、それがほんとうに良いものであれば、受け入れなさい。 」と言っている。聖書の別の箇所では、“ 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。”(ヨハネの手紙第一 4章1節)とある。不思議なことが起きたからと言って無差別に信じるのでは無く、それが本当に聖霊様によるものなのかをしっかりと吟味しなければならない。

一方で「聖霊の恵みを無にしてはいけません。」とパウロは明言している。教会は聖霊様の働きを排除してはならない。教会を開闢し、二千年間教会の働きの原動力になっているのは聖霊様に他ならない。霊的な事柄を無視してはキリスト教は成り立たない。

正しく見極める目を持って聖霊様と共に教会の働きを前進しよう。

Prayer(祈り)

イエス様、聖霊様の働きを強調する教会と、そうで無い教会があります。私は今その二つの考え方の差違に困惑しています。どうか正しくあなたの道に歩む知恵を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

死と復活(1テサロニケ4:13-14)

Scripture(聖書の言葉)


13 それから、皆さん。クリスチャンが死んだらどうなるか、よく知っておいてほしいのです。悲しみのあまり取り乱して、何の希望もない人たちと同じようにならないためです。 14 私たちは、イエスが死んで復活されたことを確かなことと信じています。ですから、イエスが帰って来られる時、すでに死んで世を去ったすべてのクリスチャンを、神が共に連れて来てくださると信じてよいのです。

Observation(観察)


生きてゆくうち、多くのクリスチャンの死に遭遇する。時として混乱し、死について思いを巡らすことがある。クリスチャンと世の人の決定的な違いは、死が死で終わらないこと、死は復活と表裏であることを信じていることだ。言い方を変えれば死が無ければ復活も無い。死はイエス様に会うための重要な通過点で、絶望で終わるものでは無い事を私たちは信じている。

Application(適用)


私は母の死について、非常に困惑し、ある時期精神を病んだ。親しい人の死を受け入れるには必要な悲しみがある。悲しみの中でイエス様の復活についてそれが真実であると確信することが重要なプロセスだ。嘆きも悲しみも通らねばならない道だ。しかしその向こうに永遠の約束があることを忘れないようにしたい。

Prayer(祈り)


イエス様、死について、復活について、真剣に考えるときがあります。いつも最後の答えは希望であることを感謝します。やがて私も世を去ります。あなたにお会いするプロセスを経ます。パウロが焦がれたように私もいつか訪れるその日を希望を持って待ちます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

愛と信仰を求める(1テサロニケ3:2-6)

Scripture(聖書の言葉)


2-3 兄弟であり、協力者であり、また神の伝道者でもあるテモテをそちらへ行かせました。それは、あなたがたの信仰を強め、励まし、どんな困難の中でも、失望せずにしっかり立ってくれることを願ったからです。しかしご存じのとおり、クリスチャンにとって困難とは、神の計画の範囲内の出来事なのです。 4 私がそちらにいた時、やがてきっと苦難が訪れると警告しておきましたが、それが、いま現実となったのです。

5 そういうわけで、私は不安な気持ちに耐えきれず、あなたがたの信仰が以前のようにしっかりしているかどうか確かめたくて、テモテに行ってもらいました。悪魔に誘惑されて信仰を奪い取られ、これまでの苦労が水のあわになったのではないかと心配だったからです。 6 ところが、今こちらに帰って来たテモテから、あなたがたの信仰と愛が変わらずにしっかりしているとの報告を受け、どんなに喜んだことでしょう。

Observation(観察)


迫害と困難の中にあったテサロニケの人々を心配し、パウロはテモテを派遣した。戻ってきたテモテによって、彼らの信仰と愛が変わらずにしっかりしているとの報にパウロはとても喜んだとある。
困難に耐え打ち勝つのは信仰と愛だ。神を信じ互いに愛し合うことによって乗り越えることができる。

Application(適用)


私に果たして信仰と愛はあるだろうか。特に隣人について、自分の愛の無さに悲しみ情けなくなることがある。生まれついての自分の性質は愛とはほど遠い。持っているのは独善と拒絶だ。神によってでなければ隣人愛は得られない。辛抱強く神に願おう。

Prayer(祈り)


イエス様、自分の至らなさを繰り返し教えられています。自分の心の狭さに飽き飽きしています。あなたによって変えられることを望みます。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。