光の中での生活を選ぶ(1ヨハネ1:5-7)

Scripture(聖書の言葉)


5 神は光であられ、そのうちには少しも暗い部分がありません。これが、神が私たちにゆだねられた、あなたがたへの知らせです。 6 神と交わりがあると言いながら、暗闇の中で生活しているなら、私たちはうそをついているのです。 7 しかし、神の光の中におられるキリストにならって、私たちも光の中で生活すれば、互いにすばらしい交わりを持ち、神の子イエスの血が私たちをすべての罪からきよめるのです。

Observation(観察)


神の光の内で生活し、暗いところが照らされるなら、私たちは神と交わりを持つものとなり、私たちの罪がきよめられるとある。
人間にとって心の暗闇は古い友人のような者で、かえって暗闇のなかで座り込んでいる方が安心してしまうこともある。しかし私たちは光を選ばなくてはならない。なぜなら私たちはすでに光に属する者だからだ。イエス様を信じた以上、もはや暗闇のなかに安らぎはない。思い切って光の中に飛び込もう。

Prayer(祈り)


イエス様、暗い物、神とは関係ない物を選んでしまいそうになる時があります。古い肉の性質がそれらの物を好みます。しかし私は暗闇ではなく光の方を選びたいです。助けて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

舟の右側(ヨハネ21:4-6)

Scripture(聖書の言葉)


4 もう夜明けというころ、だれかが岸辺に立っているのが見えました。ぼんやりかすんでいるので、だれなのかはわかりません。 5 「魚はとれましたかー。」その人が声をかけてきました。「いやー、全然だめだよー。」 6 「では、舟の右側に網を下ろしてごらんなさい。きっと、たくさんとれますよ。」さっそくそのとおりにすると、どうでしょう。重くて引き上げられないほど、たくさんの魚がかかったのです。

Observation(観察)


ペテロ達は漁に出たが、全くの不漁だった。しかしイエス様が岸辺に現れ、舟の右側に網を下ろすよう勧める。結果沢山の魚を獲ることが出来た。
舟から網を降ろすのであれば右側でも左側でも物理的には大きな差は無い。プロの漁師である彼らにとっては明白なことだ。それでも弟子達はイエス様の言葉に従った。従うことが大きな結果の違いを生んだのだ。

Application(適用)


慣れ親しんだ方法に固執すると、神の業に出会えないことがあるのだと感じた。自分のやり方にこだわるのではなく、イエス様の導かれている方法に耳を澄ませ、従うことが重要なのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、あなたの恵みは豊かでいつも奇跡的です。けれども自分のこだわりがそれを阻害しているように思います。わたしの心に柔らかさを与えて下さい。熱心に聞く耳を与えて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

平安があるように(ヨハネ20:19-20)

Scripture(聖書の言葉)


19 同じ日曜日の夕方のことです。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて戸にしっかりかぎをかけ、肩を寄せ合うようにして集まっていました。その時、突然イエスが一同の中にお立ちになったのです。「平安があるように。」イエスはまず、こうあいさつされてから、 20 手とわき腹をお見せになりました。主を見た弟子たちの喜びは、どれほどだったでしょう。

Observation(観察)


復活されたイエス様は弟子達の間に突然現れた。部屋には鍵がかかっているにもかかわらず出現された。ユダヤ人への恐れに震えていた弟子達にイエス様は「平安があるように」と声をかけられた。

Application(適用)


私が恐れに囚われて身動きが取れなくなるような時も、イエス様は突然心に現れ、平安を下さる。いま心が囚われていても、復活されたイエス様は必ず私たちの心の中でお姿を現され、平安と喜びを下さるのだ。恐れて閉じこもっていた弟子達は、復活したイエス様に出会い、変えられ、世界に向けて宣教のために出て行った。私も心が変えられ、宣教に出かける者となりたい。

Prayer(祈り)


イエス様、今私の中にある恐れを取り除いてください。これから予定されている働きに恐れがあることを告白します。いま心を平安に変えられ、成すべき事を誠実に果たせますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

この人を見よ(ヨハネ19:4-5)

Scripture(聖書の言葉)


4 ピラトはもう一度外に出て、ユダヤ人たちに念を押しました。「今、あの男を連れ出す。だがいいか。私の見たところでは、あの男は無罪だ。」 5 イエスは、いばらの冠に紫色のガウンという姿のまま出て来られました。「よく見ろ。この男だ」と、ピラトが言いました。

Observation(観察)


ピラトはイエス様を死刑にすることを避けようとした。そのためイエス様をむち打ち傷つけ、祭司達のために引き出し見せることで、十分な刑罰を与えられたと彼らを納得させ、死刑を回避しようとしたのだ。この「よく見ろ。この男だ」(エッケ・ホモ)という言葉は絵画や歌のタイトルでよく用いられる。私たちは死んでよみがえられた栄光の体のイエス様をよくイメージに持つが、私たちの罪と病、呪いのためにむち打たれ、苦しまれたイエス様の姿も同時に思い浮かべなくてはならない。イエス様の痛みを想起することと恵みに感謝することの根本は一つ、イエス様の犠牲なのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、私のために痛み苦しんでくださったことを申し訳なく思い、崇めます。あなたの痛みをもっとリアルに想像出来る様にして下さい。もっと心の底からあなたを愛し、感謝するためで。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

真理を受け入れる(ヨハネ18:36-38)

Scripture(聖書の言葉)


36 「わたしは地上の王ではありません。もし地上の王であったら、逮捕された時、弟子たちは戦いをいどんだでしょう。わたしの国はこの世のものではないのです。」 37 「なんだと、それじゃあ、やっぱりおまえは王なんだな!」「いかにもそのとおりです。わたしは、この世に真理を伝えるために生まれたのです。真理を愛する者はみな、わたしに従うのです。」 38 「真理だと? 真理とは何だ。」ピラトは吐き捨てるように言うと、またユダヤ人たちのところへ行き、こう提案しました。「あの男は無罪だ。

Observation(観察)


ピラトはイエス様の言われた「真理」ということばに強く否定的に反応した。真理とはどの時代、どの土地であっても絶対的に正しい理である。この世の権力者であったピラトには癇に障る言葉だったのかもしれない。

Application(適用)


私はクリスチャンになるまで、真理という言葉は知っていても自分に関係のあるものだとは思わなかった。正しさは相対的なもので、揺れ動くもので、当てにはならないと思っていた。しかし聖書の言葉を自分の行動の基にすることで、自分自身がぶれない様になっていることを感じる。神の正しさを日々感じてそれにより頼むものでありたい。

Prayer(祈り)


イエス様、この世には絶対はありませんが、あなたにはそれがあります。変わらない御言葉によって私も揺り動かされない者にして下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

一つになるために(ヨハネ17:22-23)

Scripture(聖書の言葉)


22 あなたが下さった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしと父が一つであるように、彼らにも完全な一致を保ってほしかったからです。 23 わたしが彼らのうちにおり、あなたがわたしのうちにおられて初めて、みな完全に一つになるのです。その時、世の人々は、あなたがわたしをお遣わしになったことを知り、わたしだけでなく彼らも、あなたが愛しておられることを認めざるをえなくなるのです。

Observation(観察)


イエス様は弟子達の一致を願われた。また弟子達がイエス様と一致することも求められた。この事によって「みな完全に一つになる」と表現された。この事によって世の人々がイエス様の事を知るとも言われた。

Application(適用)


霊的一致、という言葉はよく用いられるが、私は本当に一致を求めているだろうか。気がつくと自分の役目だけを果たせば良いとドライな気持ちで教会に関わってはいないだろうか。教会の人々の霊的必要にどれだけ応えられているだろうか。求めてばかりで与えることに消極的な自分を変えてゆきたい。

Prayer(祈り)


イエス様、色々なことがあって教会に対してドライな気持ちになっていたことを認めます。けれどもイエス様は教会に対していつも熱い思いを持っておられることが分かりました。自分から一致を拒絶することを止めます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

深く根を張る(エレミヤ17:8)

Scripture(聖書の言葉)


8 彼は川の土手に沿って植えられた木のように、
深く張った根で川から直接水分を吸収するので、
暑さにもしおれず、長いかんばつでも弱らない。
葉はいつも青々と茂り、
みずみずしくおいしい実をつける。

Observation(観察)


神によって荒れ果てた地の様な環境に追いやられる時がある。極限の状況で初めて罪人は神のみを頼りとすることを経験する。この箇所で描かれているのは川の畔に深く根を張る木だ。信仰の成長とは置かれた地で深く根を張ることなのだ。神から直接恵みを頂き、厳しい環境でも根を張り実をつけよう。

Prayer(祈り)


イエス様、難しい状況におかれても信仰によって根を張り、その環境で実を結べるようになりたいです。信仰を下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様に聞く(ヨハネ15:26-27)

Scripture(聖書の言葉)


26 わたしはあなたがたに、助け手、すなわち、すべての真理の根源である聖霊を遣わしましょう。その方は、父のもとから来て、わたしのことを語ってくださいます。 27 あなたがたもまた、わたしのことをすべての人に語らなければなりません。初めからわたしといっしょにいたからです。

Observation(観察)


イエス様は聖霊様を送られることを約束された。聖霊様は私たちにイエス様の事を語ってくださるとある。御言葉を想起させてくださるのは聖霊様の働きなのだ。逆に言えば、一日御言葉を思うことなく過ごしているなら、私たちの心は聖霊様から離れていることになる。
またイエス様は聖霊様に語られたなら、聖霊様から聞いたイエス様の事を語らなければならないと命じられた。
聖霊様は私たちに御言葉を思い起こさせるだけではなく、御言葉を伝える力を下さるのだ。

Application(適用)


毎日を忙しく、また疲れて過ごしていると御言葉への思いが遠くなってしまうことがある。これではいけない。一日に何度か立ち止まって、聖書がなんと言っているか、今イエス様が何を語られているのかを考えるようにしたい。

Prayer(祈り)


イエス様、忙しさにかまけて聖霊様の働きかけを無視していました。ゆるしてください。これからは立ち止まって御言葉を考える時間を持ちます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

聖霊様の働きを受け入れる(ヨハネ14:16-17)

Scripture(聖書の言葉)


16 わたしは父に、もう一人の助け手を送っていただくようお願いします。その助け手は、いつもあなたがたと共におられます。 17 その方とは聖霊、すなわち、すべてを真理へと導いてくださる霊のことです。世は、この方を受け入れることができません。この方を求めもしなければ、認めようともしないからです。しかし、あなたがたはこの方を知っています。あなたがたと共に住み、あなたがたのうちにおられるからです。

Observation(観察)


聖霊様について、イエス様は「真理へと導いてくださる霊」と表現された。しかし同時に「世は、この方を受け入れることができません。この方を求めもしなければ、認めようともしないからです。」とも言われた。この世は聖霊様による真理への導きを受け入れないのだ。この世は勿論、キリスト教会に於いても聖霊様の働きを受け入れない、あるいは意図的に聖霊様についての言及を避ける傾向がある。

Application(適用)


教会だけではない。私自身はどうだろうか。聖霊様についてどれほどの信頼を置き、導きに従おうとしているだろうか。三位の神である聖霊様を過小評価してはいないだろうか。私は心の向きを変えて、聖霊様と共に住みたい。初代教会にあったような爆発的な聖霊様の働きを体験したい。

Prayer(祈り)


イエス様、聖霊様の働きを過小評価して自分の小さな理解に押し込めていたことを悔い改めます。奇跡は今も起きます。いやしも解放も今も起きます。信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

足を洗い合う(ヨハネ13:3-8)

Scripture(聖書の言葉)


3 イエスは、父がすべてのものを与えてくださったことと、自分が神のもとから来て、また神のもとに帰ろうとしていることを知り、 4 夕食の席からゆっくり立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻かれました。 5 そしてたらいに水を入れ、弟子たち一人一人の足を洗い、腰の手ぬぐいでふき始められたのです。 6 シモン・ペテロの番になりました。ペテロは言いました。「主よ。足を洗っていただくなど、もったいなくてとてもできません。」 7 イエスは言われました。「なぜこんなことをするのか、今はわからないでしょう。だが、あとでわかるようになります。」 8 「いいえ。どうかもう、おやめください」とペテロは言いはります。「もしわたしが足を洗わなければ、あなたはわたしの仲間にはなれません」とイエスは答えられました。

Observation(観察)


イエス様が弟子達の足を洗い始められ、ペテロの番になった時、ペテロは勿体なく感じそれを拒んだ。それに対してイエス様は「もしわたしが足を洗わなければ、あなたはわたしの仲間にはなれません」と返答された。弟子が互いに洗い合うことをイエス様は命じ去られたのだ。
足とは最も汚れている部分を指す。私たちが教会の友の弱いところ、傷ついているところを洗う行為が求められている。それは簡単なことではない。だれも教会の仲間の弱いところや傷を直視したくはない。それを可能とするのは互いのつながりが十分に深くなっていることが必要だ。
また洗われる側も自分の内面を明らかにすることを求められる。これも十分な関係が築かれていなければ出来ることではない。互いに愛し合うこと、と文章で書けば麗しいものに見えるが、実際にはきれい事ではない。これは涙と痛みの上に成立する慰めと癒しなのだ。

Prayer(祈り)


イエス様、隣人を愛する事が私にとってはとてもチャレンジな事だと正直に言います。私が足を洗ったり洗われたりするには十分な関係が育っていないのかもしれません。私自身の心の壁がそうさせているように思います。けれどもイエス様に従い、弟子になりたいです。私の頑なさを打ち破って下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。