Scripture(聖書の言葉)
12-15 外国人が罪を犯した場合、たとえ彼らが文字に書かれた律法を知らなくてもさばかれます。彼らは心の奥底では、正しいことと悪いこととを区別できるからです。その心の中には、律法が書かれているのです。つまり、彼らの良心が、彼らを責めたり、また時には弁護したりするわけです。
ユダヤ人が罪を犯した場合は、神が彼らを罰せられます。律法が与えられているのに従わないからです。彼らは何が正しいかを知りながら、実行しません。結局のところ、なすべきことを知りながら実行しない人はさばかれるのです。
Observation(観察)
カントの「実践理性批判」のなかに「内なる道徳律」という言葉が出てくる。人間の内面には本来正しいことをしようとする思いがある。というものだ。この聖書の箇所がカントの思想にどう影響したかは分からないが、キリスト教伝来以前の日本にも、その他の国にも、何らかの道義やルールが存在しており、集団を形成していたことは間違いない。はたしてそれで十分だろうか、決してそうでは無い。罪を理解して責めを受けることと、罪の性質を神によって赦されることとは全く別なことだ。私たちも内面に罪を感じたから神の前にきた。神の主権に自らを委ねて赦されたのだ。自分の力で何かが出来たわけではない。ただイエス様の救いだけが私たちの人生を変える。
Prayer(祈り)
イエス様、律法を持たない私であっても罪を自覚できたことを感謝します。そのように人間を作ってくださったことをありがとうございます。そのおかげであなたの前にきて救いを受けました。罪の自覚も、罪の救いも、そしてその後の生涯も全てあなたの主権にあります。これからも導いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。