Scripture(聖書の言葉)
1 さて主は、幕屋(主がイスラエル人と会う天幕、聖所)からモーセに語りました。 2-3 「イスラエルの民に次のような指示を与えなさい。主にいけにえをささげるときは、自分の群れの牛か羊を使いなさい。雄牛を焼き尽くすいけにえとしてささげるときは、体に傷のないものでなければならない。まず、いけにえ用の雄牛を幕屋の入口へ引いて来る。そこで、祭司がそのささげ物を受け取る。 4 いけにえをささげる人は、その雄牛の頭に手を置く。そうすることで、身代わりのいけにえと認められる。本人が自分の罪の刑罰として死ぬ代わりにその動物が死ぬことを、わたしは認めよう。 5 わたしの前で、自ら手を下していけにえを殺しなさい。祭司であるアロンの子たちが、その雄牛の血をわたしにささげる。幕屋の入口で、祭壇の回りに血を振りかけるのだ。
Observation(観察)
レビ記の冒頭、神はモーセに生け贄についての規定を命じられた。特に重要なのは罪の身代わりとしてささげられる全焼の生け贄だ。自分の群れの牛あるいは羊を自ら屠り、大祭司がその血を祭壇の回りに振りかける。見方によってはとても残酷な行為に見える。しかし、これはイエス様の死と贖罪の型なのだ。ユダヤ人が自ら生け贄を屠るようにイエス様の磔刑を望んだのだ。併読箇所の使徒13章27節には「 エルサレムにいるユダヤ人とその指導者たちは、イエスを処刑することで、皮肉にも、預言を実現させたのです。」とある。レビ記の最も重要な箇所はユダヤ人自身によってその意味するところを成就した。
だからといって、ユダヤ人だけを責めるのは間違っている。イエス様は全ての人の罪のために死なれたのだから、イエス様の死刑に賛成した人々の中には私の顔も混じっているはずだ。十字架で罵声を浴びせた民衆の中には、私も居たはずだ。そのような私を救ってくれたイエス様になんと感謝しよう。初代のクリスチャン達が命を顧みず伝道に邁進したのは、自らの許された罪の大きさを知っていたからではないか。わたしはまだ罪の認識が薄いのであろう。自分を直視することを誤魔化していてはいけない。
Prayer(祈り)
イエス様、あなた御自身が贖罪の血を流されました。自分の罪のことすらまだよくわかっていない私のためにです。もしかしたら人間はどこまでも自分の罪のことをわからないのかもしれません。ただ出来ることはあなたに感謝することばかりです。許してください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。