Scripture(聖書の言葉)
24 数日後、ペリクスはユダヤ人の妻ドルシラを伴って来て、パウロを呼び出し、二人でキリスト・イエスに対する信仰について話を聞きました。 25 しかし、話が正義と節制、それに、やがて来る審判のことだったのでこわくなり、「もう帰ってよい。また折りを見て話を聞こう」と言いました。
Observation(観察)
カイザリヤで留置されていたパウロは、総督ペリクスにイエス様を証する機会を得た。しかし、「話が正義と節制、それに、やがて来る審判のことだったのでこわくなり」話を打ち切られた、とある。
「正義」とはここでは神の義についての事だ。神の正しさについてパウロは語り、その正義、教えにに誠実に向き合うための行動としての「節制」について説き、その結果として最終的に訪れる「審判」についてペリクスに迫った。
しかしペリクスは正しい神に向き合うことを恐れ、話を聞くことを止めてしまった。妻ドルシラを前夫から強引な手段で奪った事についての恐れもあったのかもしれない。
誰もが罪があり、神に向き合わなければならないときが来る。それが生きている間か、死んだ後か、この世の終わりの時であるかは分からない。しかしすでに教えは述べ伝えられている。私たちに問われているのは神に対し誠実であるか否かだ。
Application(適用)
ここ数日、怠惰、貪欲について示され、反省している。一昨年に倒れるまでの数年間は、まさにこの罪に支配されたようなものだった。カトリックでは七つの大罪、という概念があるが、まさにそれにあたると感じている。底の無い井戸のように「もっと欲しい」という欲望だけで生き、決して満足しない生き方、経済システムもSNSもそれを歓迎し後押しする。
私は心を変えなければならない。
パウロの言う節制は、「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(コリント第一9:25-27)」から来ている。私も競技者として再起したい。
Prayer(祈り)
イエス様、パウロの話を拒否したペリクスのようでは無く、御言葉に誠実に応え、自分を従わせるものになりたいです。これまでのいい加減さを赦してください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。