犠牲と福音(使徒13:26-30)

Scripture(聖書の言葉)

26 アブラハムの子孫の方々、ならびに、神を敬う外国人の皆さん。この救いは、私たちみんなのものです。 27 エルサレムにいるユダヤ人とその指導者たちは、イエスを処刑することで、皮肉にも、預言を実現させたのです。彼らは安息日ごとに預言者のことばが読まれるのを聞きながら、イエスこそ、その預言されたお方であることを認めようとしませんでした。 28 そして、罰せられる正当な理由は何一つなかったのに、どうしても死刑にするようピラトに要求したのです。 29 こうして、預言どおりにイエスは死なれたのです。そのあと、イエスの遺体は十字架から降ろされ、墓に葬られました。

30 しかし神様は、このイエスを復活させてくださったのです。

Observation(観察)

アンテオケの教会でパウロは薦められてイエス様を証する。神の救いはイエス様によってなされるが、その実現はご自身が献げ物として十字架で死なれ、生き返ることであった。なんとその実現は救いを受けるはずのユダヤ人とその指導者達によるイエス様の殺害によってなされた。

救われる当人が、身代わりになってくれようとしている人を殺害するとは、なんという皮肉だろうか。この一節だけでも、人間という存在の情けなさ、救いの無さに愕然とする。

しかし、罪ある人間では人間を救えないのだから、このような特殊な方法でイエス様は私たちの贖いとなって下さったのだ。

Application(適用)

年齢を重ねるほど(内省する時間が増えたせいか)人間というものの弱さ、情けなさ、心の醜さがはっきり見えてくる。それと同時に、イエス様の救いがいかに重要で、罪の贖いは簡単なものでは無かったのだと理解出来るようになった。

私が若い頃、イエス様の救いをどう感じたかを例えるなら軽い防水ジャンパーくらいに感じていたと思う。今どう感じているかといえば、血の染みたずっしりと重い毛布をかぶっている様な感覚である。罪の重さを理解せずにイエス様を知ることは出来ない。ハッピーなことでは無いが、どうしても必要なことだと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、福音は貴方の犠牲と復活で成り立っています、とくに犠牲のことを思うとき、あなたが代わりになってくれた痛みと苦しみを思い、申し訳ない気持ちと感謝と、なんとも重たい気分になります。軽い思いで受け取って、カジュアルにクリスチャンを名乗って生きる人も居るかもしれませんが、わたしはそうなることは出来ません。いつもイエス様の死と犠牲を思い、復活を思うものとなりたいです。結果少数派となっていてもかまいません。貴方のそばに居させて下さい。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

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