弟子になる対価(ルカ14:27-33)

Scripture(聖書の言葉)

“自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。

そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。”

ルカの福音書 14章27~33節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

Observation(観察)

イエス様はこの例え話で、物事を完成させるためにはそのために必要な対価、代償を見極めなければならないことをお話しされている。

一見、この例えと33節の「そういうわけで・・」がつながらない様に見えるが、そうではない。イエス様の弟子になるという目的には何が対価なのかを明確にイエス様は説明されている。33節では「自分の財産全てを捨てなければ」とあり、また、26節では「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」とすら言われている。

もしも間違って読むと、全財産を寄付して出家しなさい、という別な宗教のように感じてしまうが、イエス様の求めていることは異なる。イエス様の弟子になる、とは、自分の人生をもはや自分の所有物として好き勝手に生きるのではなく、イエス様に倣ってイエス様を生きる事なのだ。パウロは、「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と言っている。今持っている全てものはイエス様のものでイエス様と共に働くために役立てるためのものと心得たい。

そして、イエス様の弟子として生きることは、その献げた対価に値する。神のご計画に参加して生きる人生以上に価値あるものはない。

Application(適用)

とはいうもの、原罪ある身である私は、どこまで行っても完全になることはできない。また聖人君子の様な生き方をイエス様は望まれているのではない。できないことに理屈をこねるのではなく、ただ、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言えるような素直な心を持ちたいと思う。

Prayer(祈り)

イエス様、あなたに従いたい、ついてゆきたいと願うものですが、なかなかうまくいきません。古い人間性や過去の痛みが出てきていつも邪魔をします。このような者ですが、私の人生をあなたの弟子となる対価として受け取って下さるなら、差し上げます。改めて、使ってください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

コメントを残す